七
七話目です。
中学二年生になると同時に、私は塾を辞めた。辞めろと言われて辞めた訳ではない。ただ、塾に使う金がもったいないと私は思ったから、私から母にそう告げたのだ。母は、私に二、三言ためらいの言葉を告げた後、承諾してくれた。私は母が精一杯私の為に尽くしてくれていると知っていたから、この決断に迷いは無かった。
父には何も言わなかった。私は父を恐れていた。得体のしれない存在と付き合う父が、まるで仮面を被った鬼のように思えた。
そのころの父は、家にいることが珍しくなっていた。仕事が忙しい――のだろう。父が稼いだと思われるお金が家に入っていた。
私は塾を辞めた代わりに、少し遠くにある市の図書館へ通うことを日課とした。
そのころにはもう、私は家の電気代すらもったいないと思うと度、ケチな性質をしていたから(父の金に不信感を持っていたため)、もっぱら勉強もここでするようにしていた。私は『お金』を常に意識し続けていた。休日には、朝から晩まで時間いっぱいに図書館に居た。昼も軽くコンビニで買ったものだけを食べた。
私が図書館に居ることは、もちろん、父から、あるいは家族と言う組織から逃げる、と言う意味もあった。
六月のある日曜日の午後のことだった。
私が勉強の合間に一階の読書スペースで小説を読んでいると、あわただしい声が入り口付近から聞こえてきた。私は本を閉じ、そちらの方に意識を向ける。騒ぎの主は、すぐに姿を見せた。女の子である。活発そうな瞳で、親なのか、黒いスーツを着た男と握る手を、乱暴に振りながら、男に罵倒を浴びせて暴れていた。男の方は、背が高く、サングラスをしていた。いかにも怖そうな面をしている。彼は、少女の乱暴を丁寧に回避し、抑えようとしていた。
私は彼女の姿を見るのが、これで三度目だった。いつも、こうして暴れ、連れの男に渋々二階のどこか――たぶん、勉強スペース――に連れてかれ、ものの三十分で帰ってくる、と言うことを繰り返していた。
私はすぐに目を逸らし、小説に集中した。
しかし、今日に限りその二人は二階に上がらなかった。不思議に思っていると、足音が私の方角へ近づいてくる。緊張しながら、二人が目の前を通るのをじっと待った。が、二人は何故か、私の目の前でその足音を止めた。
「ねぇ、貴方。長谷博人でしょ?」
心臓の鼓動が、一層早くなった。
私は冷や汗をかきながら、ゆっくりと本から顔を上げる。目の前に、さっきまで玄関に居た女の子が居た。
「……」当然、私は開いた口がふさがらなかった。
女の子は、活発そうな瞳を細め、にこりと微笑んでいる。彼女はショートボムと呼ばれる髪型をしていた。白い布地の手提げを右手に持っている。
「私ね、土沢アカネって言うの。貴方のお父さんを知ってるわ」女の子は笑うような高い声を出した。
「え…」
私は、アカネと言う名前に聞き覚えがあった。すぐに、以前父が連れてきた男を連想する。過去の回想は、鮮明に行えた。
アカネと言う少女の背後で、スーツの男が佇んでいるのが見えた。彼は、近くで見ると随分と背が高かった。
私はすぐ、父の関係者だ、と思った。
なぜ、子供である私に?
「驚き?うん、そうだと思った」少女は、腰に手を当て、前のめりになる。「まあ、そんなことはどうでもいいの。ねえ、博人。私とお友達になる気はある?」
彼女の白い手が、目の前に差し出される。
握手、だろうか?
私の頭は、しっかりと、混乱していた。
「…父が、関わってるんですか?」私は、とっさに言った。
「めんどくさいわね。ほら、友達になるの?ならないの?」
彼女は強引だった。図書館でその声は、良く響く。
「お前の父親は、暴力団に所属している」スーツの男が、私を見下ろし、呟く様に低い声で言った。「そして、この方は、その暴力団をまとめあげる組長の娘さんだ。言っておくが、お前の父親はまだ一構成員でしかない。奴には学がある。だから、お嬢さんの家庭教師としての席を用意した。お嬢様は、その父親からあんたのことを聞いて、興味を持ったんだよ」
「…なるほど」私は男の言葉に数秒の理解を要した。内心、戦々恐々としていて、思考がままならない。
「説明どうも、志下」アカネがすねるように男に言った。「謎は解けたかな?」そして、彼女は私の方を向いた。
「どうして僕が父の息子だと?」私はアカネを直視しながら、勇気を使って喋った。
「そんなの、簡単よ」アカネは軽く言った。「貴方がよく図書館に居ることは知ってたし、貴方の父親から写真を見せてもらったのよ。これなら間違える心配もないわ」
「分かりやすいね…」私はため息を吐いた。
「貴方、頭が良いんでしょ?」彼女は唐突に訊いた。
「まぁ…」私は微妙に頷く。
「私の友達に相応しいわ」彼女は胸を逸らした。
「へぇ…そう、なんだ」私は苦笑いをする。
「友達になりましょ?それとも、厭なの?」もう一度、手が差し出される。
「そういうわけじゃ、ないけど…」僕は目線を逸らしたかった。
「なら、後三十分間私と付き合いなさい。一人で勉強なんてまっぴらごめんよ」
「え?」
「何?」
「なんで?」私は掠れた声を出す。
「は?」少女は怒りを顔をする。「もしかして、貴方に拒否権があると思ってる?」
「いや…」私は男の方を向く
「拒否するのか?」男は低い声で言った。
「いえ…やります」私はすぐに諦めた。「科目は何?」私はアカネに訊いた。
「理科と数学。中一の復習ね」
「てことは、二年生?」
「ええ、そうよ」彼女は自慢げに答えた。
「へぇ…それなら、教えられるかな」私は立ち上がる。私はアカネと言う少女だけを意識することにした。「場所は?上?」
「ええ。何処でもいいわ」
「じゃあ、上に行こう」私は投げやりな感じで、そう言った。
「よろしく」
結局、握手はしなかった。
私が歩くと、アカネがついてきた。緊張はするが、不思議と悪い気はしなかった。それよりか、気分が高揚していた。
この時ばかりは、私は父のことも、お金のことも、何も考えなかったように思う。ただただ、この、日常にはない出来事の処理で、私の脳は手一杯だった。
階段を上がり、私たちは二階の、通路にある四人掛けの机に腰を降ろした。私が先に座り、次にアカネが隣に座った。それから、アカネの斜め後ろに、スーツの男が立った。
「これなんだけどさ」活発な声を少し抑えて、彼女はハンドバッグから理科の学習ノートと筆箱を取り出して机に置いた。
「理科か」私は呟く。
「そう。貴方、得意?」アカネが僕に顔を近づけた。
「さぁ」私は首を傾げる。「考えたことがない」
「テストの点は?」
「いつの?」
「この前…中間テスト」
「五十三位」私はすぐに答えた。テストの順位には毎回気にしていたから、良く覚えている。
「高い!」彼女はキンとした高い声を出した。
「…落ち着いて」僕は周りを気にし、急いで言った。
「落ち着いてるわよ」アカネは低い声で答える。
「それで、何処が教えてほしいの?」私は彼女が不機嫌になる前に言葉をつないだ。
私は理科の学習ノートに注目する。それは、私の学校にはないタイプのものだった。アカネは他校の生徒なのだろう。彼女はかまぼこ型をした筆箱からシャーペンを手に取った。そのまま、理科の学習ノートのページを開く。
二ページ目。正確には、最初の目次を飛ばした次のページ。だが、そこには空欄が一つも埋まっていなかった。
「ここから?」私は問う。
「ええ。そうよ」彼女は何故か自慢げだった。
「これ、宿題?」
「ええ」
「間に合うの?」私は不安になる。
「もう期限は切れているわ。これ、一年生の時の宿題よ」彼女は胸を張った。
「嘘…」私は呟いて、少し後悔した。「…最初から分からないの?」
「何?悪い?」アカネは怪訝な声を出す。
「いや。いいよ。教える」私はため息を吐いた。
「そうよ。教えて頂戴」
私は丁寧に、心底分かりやすく彼女に理科を教えてあげた。
見開き一ページで十分かかり、次の四、五ページで十五分かかった。
六ぺージまで来たところで、三十分のタイムが言い渡された。
私としては、緊張しっぱなしであっという間だったが、アカネはのんびりと腕を伸ばし、大きなあくびした。
彼女にしては相当良く頑張った方なのだろう。スーツの男の顔がわずかにほころんでいるのを私は盗み見ることが出来た。
その後、私はこの場で彼女と別れた。もう、三十分の勉強を終えれば、アカネがここに残る理由は無いのだという。
「今日はありがとう。また来るからよろしく」
彼女は私に簡単なお礼を言い、元気な足取りで階段を下りてていった。それを横目に、スーツの男が私に近づいた。
「今日はありがとう。我々は、明日も来ます。長谷の息子として、貴方はお嬢様と仲良くする義務がある。これは、貴方のためでもありますから…くれぐれも、粗相のないように」彼は耳元でそうささやいた。私が頷くと、スーツの男はゆっくり下がり、軽いお辞儀をした。
「志下~?」突然、下の階から、アカネの声が響いた。
スーツの男は少し足早に階段を下りていく。私はアカネの去る足音を聴きながら、彼らが居る世界と居ない世界の違いを漠然と考えていた。




