三
三話目です。投稿日を間違えてました。
《極楽堂》と看板が出ている喫茶店は全国展開している店のような整った外装をしていなかった。名前からしても個人経営の店だと分かる。店の中は昼前のためか人が少なく、客は二人の老人のみだった。
私は富沢と対面する形で入口に近い四人テーブルの席に付き、ウェイトレスから水とお手拭きを貰った。彼は後部座席に置いておいた皮のショルダーバッグを持ってきており、そこから一枚の透明なファイルを取り出した。
「早速ですが、離婚届を書いてもらいます」彼はファイルから一枚の用紙を出し、私の方を下にして机の上に置いた。「さあ、どうぞ。署名をしてください」ボールペンが追加で置かれる。
離婚届には妻の署名欄がすでに埋まっていた。夫の署名欄だけが空白。この著名は由香の意思だろうか?きっと違う。彼がねじ込んだのだろう。妻は気が弱いから、離婚届など書けるはずがない。
私が用紙をじっと見ていると、印鑑がまた視界の隅に置かれた。印鑑には私の苗字が刻まれている。
「用意がいいですね。けど、俺は書きませんよ」
私は顔を上げて、ゆったりと言う。店内の冷たいエアコンが私を落ち着かせていた。どうして彼は偽装しようとしないのだろう?私は離婚する際の手続きの知識が欠けている。偽装はすぐにばれるのだろうか?
「そもそも、これは本当に由香が書いたんですか?疑わしい」私は怪訝な声で言った。
「おや?何を疑う必要があるんです」彼は背もたれに深く身体を預け、ゆったりと喋った。「これが由香の文字だと分かりませんか?偽装するならもっとスマートにやりますよ。まず、貴方には絶対会いません」
「妻と娘に会わせてください」私は真剣な声で言った。「そうしたら考えます」これは本当だった。妻の意思が離婚にあるなら、私はそれを許諾する心構えが出来ている。ただ、少しでも同居の可能性があるのなら、離婚はしたくない。
私はゆっくりとした動作で背もたれに体重を預け、両手を膝の上で組んだ。落ち着いているはずだが、体温が上がっていた。富沢に視線を向ける。彼は暴力団の構成員のような顔をしている。五年前からそうだが、私は彼の仕事内容を知らない。
「無理です」彼はすぐに答えた。「私が会わせません。貴方は離婚届を書いてくれればいいのです。それ以上に由香への干渉を禁は許せませんね」
「それじゃあ、離婚は出来ません。帰ります」私はすぐに決断して、席を立つ。
「無駄ですよ。貴方は今から一人で生きるつもりですか?」彼は嘲るような声を出した。
「職は決まっています」これは嘘だった。職は今から探さないといけない。「一人で生きていけますよ」私はゆっくりと木製の床を歩いた。
「離婚もせずに一人で暮らすのですか?」
「ええ」私は彼の横を歩く。「さようなら」
「諦めてませんね」彼がすぐに言った。「そう言って機会を探り由香に会う気でしょう」
私は無言で足を進める。扉まで来た。その時、彼がとんでもないことを言った。
「明日香がもうすぐ死にます。小児がんです」
彼の淡泊な宣言は、選挙カーの宣伝のように店内に大きく響いた。電子音が鳴る。彼のスマホから。しかし、彼は電話を取らない。
「は?…小児がん?」私は彼の後姿を見る。私が出した声は鈍く低かった。「死ぬって…どういうことです」
「知識が無いようですね」彼はゆっくりと喋る。「治りますよ。75%以上でね。まあ、日本ですからほぼ100%でしょう」
「治るんですね」私は低い声で訊く。鼓動が激しい。それは本当に治るのか?小児がん?私はその病名を知らない。だが、がんだ。重い病気に違いない。不意に、娘のふっくらと膨らんだ頬が脳裏にイメージとして浮かび上がる。連鎖的に五年前の記憶が復帰する。少し値が張るマンションの一室。歩き出したばかりの明日香。プリキュアの恰好をして喜んでいる明日香。仕事がまだ続けられていた私。娘の前では泣きはらしたような目元を笑顔にする由香。少しだけ幸せだった時間。私は三歳の、儚くも丈夫な娘しか知らない。焦りが収まらない。
「ええ、お金さえあれば治りますよ」彼は流暢にそう言った。
私はハッとなる。
「お金…」私は急に巨大な爆弾を持たされた気分になる。「治療費は由香が?」
「いいえ。治療費は全て私が出しています。この意味、お分かりですね?」
私は少し黙る。思考が回らない。
「分かりません」
「おや、勘が悪い方だ。私には明日香の治療費を出さないという選択肢があるということですよ。由香と一日でも過ごしたことのある貴方なら分かるでしょう?彼女、今はもう仕事してませんよ。病んでるんです。明日香が入院してからずっと」
あり得ることだ。由香は、精神が異様に弱い。
「……」
「貴方にどうにか出来ますか?」彼は勝ち誇ったような顔を私に向けた。「離婚届を書いて頂ければ、それで済む話です。そうすれば惜しみなく明日香を助けてあげます」
私はしばらくその場から動けなくなった。心が水滴を落とした湖のように揺れている。
印鑑を押せばいい。著名すればいい。そうすれば、娘が助かる。この男がどうにかしてくれる。
私はもう、妻と娘に干渉することは許されないのだ。全ての権限がこの男にはあるのだ。
「…分かった」言うのに十秒かかった。
頭痛がする。頭が熱い。涙が出そうだ。
「ええ、ありがとうございます」富沢は微笑む。同時に、電子音が収まった。
ゆっくりと進む時間の中、私は席に戻った。ウェイトレスが、視界の端で遠くからこちらを注目していた。私は頭痛を理由に無視する。目の前に、離婚届と書かれた用紙がある。ボールペンも、ハンコもある。私は、震える手でボールペンを取った。鼓動が激しい。唾を飲み込む。鈍痛が更に酷くなった。
瞼を強く開いて、用紙を睨む。目元が痛くなった。息を吐こうとして失敗する。ゆっくりと、上の方から用紙の白紙欄をボールペンで埋めていく。まるで、ゲームのクリア条件を満たすように。事務的に、心を殺して。
私は無駄に考える。
なぜ、こんなことをしているんだろう?
私はこんなことをするために外に出てきたのか?
刑務所内は楽しくも無かったが、不幸も無かったはずだ。
暴力やいじめも無かった。
特別幸福ではなかったが、不幸でもなかった。
総合的に見て幸福だっただろう。
わざわざ不幸になるために外に出てくる必要は無かったのだ。
なのにどうして私は外に出てきた?
あそこには高橋がいた。彼は私の友人になってくれた。
もっと話した方が良かっただろうか?
彼は今日、家族と面会する予定だ。
家族の誰だろう?姉、とっていたか?いや、それは彼の予想だ。誰かは分からない。
高橋は幸せだろうか?
私は今、幸せだろうか?
幸せになろうとしているのだろうか?
「…不気味ですね」富沢が急に呟いた。
「え?」反応に二秒遅れた。顔を上げる。
「貴方、急に従順になって、気味が悪いな。本当、どうしちゃったんです?いや、これが普通何でしょうね。彼女と違いやりやすい…いえ、続けてください。独り言ですから」
私は用紙に視線を戻す。まだ、半分も埋まっていない。
ふと、思う。ボールペンをわざと枠の外にはみ出して書けば、もうこの用紙は使えなくなるんじゃないか?富沢は、気づいているだろうか?私が、印鑑を適当に押しまくるだけでも、この離婚届が無効になることを。
「…無駄ですよ」
「え?」私はまた、顔を上げる。
「…手が止まりましたね。ええ、考えていることは分かります。ですが、貴方がそれをやると由香の負担が増えるだけですよ」
「…」
考えても無駄なのだろう。この男は準備をして、私を待ち受けていたのだ。私は黙って残りを埋めることにした。




