二
二話目です。
刑務所の外は暑かった。六月の中ごろ。まだまだ猛暑日が続くようである。固い土の上を少し歩くだけで、足元がふらふらと揺れた。私の荷物は比較的少なくあったが、それでもボストンバッグの半分くらいの量がある。夏の暑さで蜃気楼がたまに見え隠れする。
「ふぅ…」
陽の暑さにやられ、ため息を吐く。開け放たれた門の向こうに、透明で綺麗な海が見えた。ここは高地。私はそれを思い出す。門を出て左の道に曲がれば町に続く道がある。右はたぶん、山道だ。私の家はここから町三つ離れた場所にあった。満期釈放の私は、一人でそこまでいかねばならない。塀の外に出て、固い道路のアスファルトに足を踏み入れる。緩やかな風が頬を霞め、一瞬、とてつもない幸福を私は体感した。
「長谷博人さんですよね」不意に、男の声が左から聞えた。
私は振り向く。
白に近い肌色の塀の横に、黒髪をオールバッグにし、サングラスを掛け、黒のスーツの男が居た。
――やくざ。
私はとっさに身構える。やくざなら、アカネの部下だろう。
「そちらこそ、名を名乗ったらどうです?」私は余裕を装った声を出して、そう訪ねた。荒場なら多少は踏んできている。相手は一人だ。喧嘩になるにしても、まだ負けない。
男は、微笑を浮かべた。
「へぇ…五年で忘れましたか?こりゃ貴方、とんだバカ者ですよ。よくもまぁそんな体たらくで私たちの家族を名乗れたものですね」そう言って男はサングラスを外す。「私です。富沢欄治。富沢由香の兄ですよ」
富沢欄治――私はその名を訊き、心臓に鉛を撃ち込まれたような気分になった。富沢欄治。由香の兄。五年前の記憶がよみがえる。まだ青年だった彼が私は苦手だった。理知的な瞳と支配者の雰囲気を持つ特別な人間。外見は五年前とすっかり変わっているが、纏う覇気は変わりないようだ。彼は由香の夫である私をよく思っていない。理由は単純で、私が暴力団関係者と言う以前に、彼は極度のシスコンだった。家庭環境が悪かったのだ。由香は幼少期から兄よりも精神的に劣っており、よく泣き、わがままばかりを言い、物忘れが激しく、留守電、留守番すらも満足に出来なかったと聞いている。中学になっても感情のコントロールは下手で、自己の確立を得た分、一つ厭なことがあるだけで、くよくよ悩みよく学校を休んでいた。勉学が得意なわけでもなく、運動が得意なわけでもない。おまけに社交性もなく、中学三年間で友人は一人も居ないと来た。その点、兄の欄治は幼少期から才覚を発揮し、文武両道を成し遂げ、なおかつ父の言うことをよく聞いた。出来た兄、欄治と比べるまでもなく、出来損ないの娘に厳格な父は厳しかった。母は父と娘の間を何とか保とうと必死になり、そのせいかよくヒステリーを起こすようになっていった。父からの暴力こそ無かったが、母が時折ヒステリーを起こすと、父はとてもめんどくさそうにし、母の対応もせず、原因となる由香を心底軽蔑したという。兄が妹に過度な愛情を向ける理由としては十分な家庭環境である、と私は思う。由香を大学に入れたのも、この兄が父を説得させたからとも聞く。
「…用件は?」
私は思わず顔が引き閉まる。私からしたら、心底やりにくい相手なのだ。本当に。
「…へぇ。いや、変わりましたね、貴方」彼は私の姿をじろじろと見る。
「貴方も随分変わってますよ。まるでやくざみたいだ」私は言い返す。
「いや、少し必要がありましてね、一時期このような恰好をしたんですよ。それで、まあ、気に入ったからこのままにしているだけです」彼は優しそうな笑みを作る。「長話もなんです。長谷さん、今から喫茶店に行きませんか?奢りますよ」
「用件を先に言ってください」
「連れませんね。簡単ですよ。貴方にはやってもらわなければならない仕事があるので、そのお話を少しね」
「…離婚届なら書きませんよ」
彼が来る理由としてはそれしかない。
だが、言いながら、私は迷っていた。一度だけでも由香と明日香の顔を見たら、書いてもいいかもしれないとも思っている。五年で随分と家族に対する考え方が変わった。彼女が私のことを忘れてしまっているのなら、消えてしまおう。今はすっかりそう思っている。だが、それでも、彼女にその真意を確認せず離婚するのはいささか納得出来ない。
富沢欄治は口元に微笑を浮かべたまま、気味が悪いほど通る声で言う。
「おや、それはいけません。離婚届は書いてもらいますよ。そのためにわざわざ来たんですから。牢獄の中で手紙、読んだでしょう?まさか今更妹の夫を名乗る気ではありませんよね?犯罪者さん」
富沢は腕時計の付いた右腕をわざとらしく顔に近づけた。
「お昼です。車に乗ってください。私は炎天下の中話し合う趣味はない」
彼は私の返事を待たずに路上の隅に止めてある黒いセダンに近づいた。彼の物だろう。それ以外に障害物は無かった。富沢欄治彼個人は裕福にある。彼は何故かその有り余るお金を姉の由香にしか使わない。ピッ、と電子音が鳴り、彼が運転席に乗り込んだ。どうせ選択肢は無いのだろう。私はセダンにゆっくりと近づき、慎重に扉を開け、助手席に座る。気分が悪くなる臭いが鼻孔をかすめた。低いエンジン音が鳴る。ゆっくりと車体が動き、私は少し酔いそうになった。セダンは下り坂となる左に進んでいく。
「…刑務所の中はどうでした?」富沢が言う。
「…ええ。そうですね。貴方には到底堪えられない場所でしたよ」私は機嫌が悪かった。
「へぇ…そりゃあ全く良くないですね」彼は興味なさそうに返答した。
車が左に曲がる。海の方角には行かないようだ。
一度、車内で電話が鳴った。スーツのポケットにある富沢のスマホ。彼は電話を無視した。
「電話、でないんですか?」
「ええ」
「そう言えば、どうして貴方は釈放時が今日だと?」
「それくらい、刑務所に連絡を取ればすぐ分かることですよ」彼はあっさりとそう言った。
十五分して、喫茶店に着いた。その間、私たちはこの問答以降会話をしなかった。




