十五
来月はすぐに訪れた。七月一日。
私の父、長谷勇吉はその間、とうとうアパートに帰ることはなかった。代わりに、志下が玄関の扉を開けた。
「約束の日が来ました」
彼はいつもと変わらぬサングラスに、いつもと変わらぬ抑揚のない声で言った。
「はい」
「荷物は…」
志下は私の隣に置いてあるボストンバッグを見る。
「はい。着替えが入っています」
私はすぐ、父の件を問わなかった。
「準備は整っているようですね…。行きましょう」
「わかりました」
私は志下の後ろについていく。玄関を出た時、私はもうここには戻らないのだと思った。私の母は、昨日この家を出ていった。私と母はその数日間だけ、濃密な時間を過ごした。
母も私も、家から出なかった。
その間、母は私に愛情を注いでくれた。
これが普通だというように、私の小さな願いを丁寧に叶えてくれた。
お茶を入れてくれた。朝ご飯を作ってくれた。一緒にバラエティ番組を見てくれた。お風呂を沸かしてくれた。私の、これまでの不思議な体験を、快く聞いてくれた。
母は何もない楽しい日常を、作り出すことに専念してくれた。
そして、昨日。母は私の荷造りを手伝ってくれた。まるで、今から修学旅行にでも行くような、そんな心地で…。
涙が出る。
私は小さな感情を押し隠そうと、きつくまぶたを閉じた。
私は強くなければならない。
刺すような日光を前に、私は強くそう感じた。
志下に従い、いつもの黒く低い車に乗ると、隣にアカネが座っていた。彼女はほほえみ、私のことを強く歓迎した。
「やっほぉ。いよいよね。楽しみだわ」
「そうだね」私はアカネにほほえみかえす。「学校も家も変わるんだし、これから大変になるだろうね」
私は意図してそう発言した。これから先は、アカネに本音を打ち明けていかなければならない。
「そうかしら?あなたは準備が色々あるらしいのね」
「僕の場合、どういう準備が必要かすら検討もつかないけど」
その時、志下が言った。
「ご安心ください。博人君の衣食住は我々の方で用意させていただきます。転校の手続きや、教科書類もすでにこらで済ませておりますので、そうそう苦労はないことでしょう」
「それは…ありがとうございます」
「いえ。それと、博人君にはまた別の人間が使用人として付きます。アカネお嬢様に対する私のようなものです。とはいえ、それほど干渉はしませんのであしからず。何かわからないことや用事があれば、その都度確認を取る相手、とでも思っていてください」
「…わかりました」
エンジンがかかる。車が発進した。
しばらくして気がつく。私はももう、この車の匂いに慣れてしまっている。
屋敷に到着すると、私は一人和室に連れていかれた。そこには布団と座卓、座布団、タンスが置かれており、旅館のような風体をしている。隅に、新品の体操着や体育館シューズ、教科書が置かれていた。時計の針が十一時二分を指している。
志下からはここでしばらく待つようにと言われているので、私は座布団を枕にして寝転んだ。
身体はつかれていないが、心のドキドキはなかなか収まらなかった。
ここが私の新しい部屋…。
……。
…。
落ち着かない。
時折、廊下から何人かの足音や布を擦る音がよく聞こえてきた。この屋敷自体防音性は低いようだ。ふと、ふすまの向こうから、アカネの高らかな声が聞こえてきた。しかし、その声は次第に遠のいていく。
数分が経ち、ふすまが開かれた。
「失礼します」
私は驚き、急ぎ上半身だけ起き上がった。そこにいたのは浴衣姿の女性だった。
「あなたは…」
「長谷博人様。あなた様の付き人となる者です。名をあずなといいます」
彼女はふすまの前で正座をし、丁寧に頭を下げた。
「…あ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ショートカットの下の鋭い瞳が私を捉える。若い女性だ。肌に艶があり、仕草が初々しい。けれど、その強烈な目つきは組長を思わせた。
「早速ですが、このお屋敷の案内をさせていただきます。私めについてきてください」
「はい」
私は立ち上がり、あずなさんの後をついていく。
私はトイレや風呂場などを案内されながら、この屋敷の基本情報を教えてもらった。
この屋敷には、私を含め八人の人間が住んでいるのだという。組長を家長とし、娘であるアカネ、アカネの付き人志下、私、私の付き人となるあずな、料理番と守衛、秘書が一人つづ。この内新参者は、私とあずなということだった。
皆、組長が信頼を置けると判断した人間だという。しばらく内装を見回った後、私は自室へと戻ってきた。あずなによれば、昼食までの時間は自由にしていいのだと言う。そう言われても、このときの私にはこの屋敷を自由に動き回る度胸は到底なかった。
しばらく部屋の中で教科書類をリュックにしまい込んだりと、そういった細々とした支度を行った。時計を何度も確認して、針が十二時半を指してないことを祈り続けた。その時間になれば、私は部屋を出て先ほど知らされた食堂に顔を出さなければならないのだ。窓から焼け付ける真夏の日差しを浴びながら、冷たい畳を背に私は眠りに付きたかった。
うとうとする暇もなく、時間となった。アカネがふすまを開け、私を誘ってくれた。楕円形の食卓にはこの屋敷の住人全員が揃っていた。皆、私を見、笑みを浮かべている。
挨拶をしようと思った時、組長が口を開いた。
「全員揃ったな」
「……」
「さて、皆知る通り、彼が本日我が屋の家族となった長谷博人だ。あのバカ親の息子さ。アカネとともに良く看てやってほしい」
そこで、彼の機敏な視線が私に飛んだ。
…自己紹介を…。
緊張につばを飲み込んだ。口が震えている。まるで、異空間に一人取り残されたような涼けさが全身を伝った。
「あ、長谷博人です。父がお世話になっております」
しばらく、沈黙が続いた。組長が見渡し、一度頷く。
「では、久々の全員での食事を楽しむとしよう。お前も座れ」
私はいそいそと空いた席につく。組長が音頭を取り、それぞれが飲み物を手に突き合わせた。私も、用意されたコップを掴み、オロオロとそれに賛同した。アカネと私以外、皆酒を飲んでいた。食卓には、典型的な日本食が並んでいる。
「しっかし、また急な判断だな。ボス」
酒を置き、そういったのは、大柄男だった。頭に魚のイラストが描かれたバンダナを巻いている。
「全くですよ。また私の胃が痛くなります」顔の細い男が言った。
二人共、まだ見たことのない顔だ。私は細々と箸でお米を掴み、口に入れながら会話に注意を向ける。
「そう言うな。これで良い」
「はぁ、そう言ってもうこれ以上面倒事をこちら側で起こさないでくださいよ」
「…善処しよう。だが、これまでに私の行いが的はずれであったことなどない」
「善処してくださいね!」
細い顔の男が、ため息を吐きながら味噌汁を手に取った。一口すすると、私の方を見る。
「博人君…でしたか。まぁ、いいでしょう。あずなさん。面倒はあなたに任せますよ。全く、身内でもない人間をこの屋敷にいれるとは…」
「私は賛成よ!」アカネがニコリと微笑んだ。
「はぁ、まぁ貴方様言うのならいいのでしょうけど」
「しかし、全員で食事というのも久しぶりだな」大柄の男が言った。「新入りも二人か…なんだか楽しくなりそうだ」
「どうだ博人。料理は美味しいか?」
突然、私に質問があった。顔を上げる。シワの多い老人が私を見ていた。
「ああ、ええ。どれも美味しいです」
私は気を引き締めて返答する。
「そいつは良かった。まぁ、わしが作った料理に反発などあるわけがないがのぉ」
彼は、ガッハッハ、と大声で笑った。
私は苦笑いをする。
「あの、お名前は?」
「わしか?わしはここの料理番をやっておる、密屋利光という。よろしゅうな」
「よろしくお願いします」
「にしても、なんとも弱そうな小僧じゃなぁ」
「はぁ…そうですか」
「頼りになるのかい?なぁ、組長さんや」
「彼に腕っぷしは期待してない。期待しているのは頭の方だ」
「へぇ…そうだったんか。アカネのお嬢は頭わるいからな、良くしてもらわんと」
「ふん。言われなくてもそのつもりよ。もう誰も私を馬鹿だとは呼べなくなるわ」
「…もうその発言が馬鹿だぞアカネ」
「むぅ…お父様も少しは馬鹿になったらどう?毎回正論はつまらないわよ」
「お前がマシな高校に行ったら考えてやる」
「…またそれね。いいわ。行ってやろうじゃない!」
「期待してるぞ」
「…そう」
予想外の言葉だったのか、アカネは言葉を詰まらせた。
「博人君」組長が厳格に私の名を呼んだ。「後で話がある。私の部屋に来なさい」
「はい」
父の件だろうか…。
その後、数分間食事続いたが、ストレスで食べ物は一向に喉を通らなかった。




