十三
庭園の一角に廃墟にあるような小屋がぽつんとあった。瓦屋根が茜色にサビ、幾つか欠けている。鉄の重い扉が本来の姿勢を失い、僅かな隙間を開けただけで寂れを残して立ち止まっていた。
「ここが、猫の小屋?」
「そういうことよ。ちなみに私の秘密機でもあるの!」
アカネと私は扉の僅かな隙間に顔をのぞかせている。視界は黒く、右の高窓から差し込む明かりが、わずかに地面を照らしている。
「ほんとに猫なんて居るの?飼ってるわけじゃないんでしょ?」
「信じなさい。絶対にいるわ」
アカネは私を払いのけ、外開きの扉を後ろに下げようとする。彼女の細い腕に押され、扉は少しづつ押されていく。
「手伝うよ」
私はアカネの隣に立ち、扉に力をいれる。そうやって押していくと、ゴン、という小さな音といっしょに扉がもう動かなくなった。
「さあ、中に入るわよ」
アカネが先に進んだ。
私は彼女の後を追う。
室内の壁はサビが浮いていた。所々に隙間があり、外からの細い光が漏れている。それにしても、思ったよりも広い。床はコンクリートらしき硬い素材で、強く踏み込むと足に振動が響いた。中には古びたソファが一つ窓の隣に置かれ、小さなアルミの小皿が二つ置いてあった。
「いつもここに居るのだけど」アカネは首を回した。「あれぇ」
「いないね」私は言う。
奥の壁の低い位置に穴があった。そこからもわずかに光が漏れている。
「もしかして、あれが猫の通り道?」
「ええ。そうよ。今はいないかもしれないけれど、きっと来るはずよ」
「待つ?」私は若干の興奮とともに言った。
「待つわ。きっと来るから」
アカネは私の前で仁王立ちになる。私は彼女の後ろ姿を微笑ましくもたくましく感じた。
しばらくして志下の声が聞こえた。
「お嬢様。行きますよ」
「もう少しまって」アカネが叫んだ。
「いえ。時間です」声が近づいてきていた。
「ねぇ、また、今度にしよう」私はアカネの背に言った。「来月からはもう一緒に暮らすんだから、チャンスはいつでもある」私は言いながらも、その言葉のイメージを上手く浮かべないでいた。
「む…まぁ、それもそうね。いいわ。また今度にしましょ」
アカネは振り向く。
そして、大股で歩くと、私の腕を掴んだ。
「行きましょ」
「うん」
そうして、私達は小屋を出た。
私とアカネはこの屋敷に来たときと同じように、黒く低い車に乗った。今度は津鍋と言う男はいなかった。志下が運転している。
「博人君。君の父親ですが、現在重要な任務の末端をやらせています」志下が言った。
「はい」
「我々は今、ある富豪と取引を行っています。君の父親はその取引相手の接待を任されています。これは破格の待遇です。もし、君の父が裏切るようなことがあれば、指を詰めるどころではないでしょうね」
「……」
沈黙が降りた。
きっと、志下は父が一度暴力団を降りようとしたことを知っているのだろう。私は息を呑む。秘密を握られた気分だった。
「これは小言ですが、組長は直感で物事を決める人です」志下は若干声色を緩めた。「今まで、そうやって数々の偉業を成し遂げ、組長の座につきました。組長があなたがた親子を我が組に入れたことは、きっと大きな意味があることなのでしょう。裏切らないことを期待します」
「はい」私は力強く頷いた。
しかし、この時私の心はこの組織に対する忠義心など一ミリも感じてはいなかった。
そして、私は気がついた。
私が気にし、求めているのは、土沢アカネ唯一人だということを。
家に着くと、父が神妙な顔つきで私達を迎えてくれた。アカネと志下に、父が頭を下げる。居間まで案内し、私が茶とお菓子を用意した。私は父の横に座った。
「勇吉さん。あなたの息子さんが今日、組長とお会いしました。彼は来月の頭に組長の屋敷へと引っ越しを行います」
「…つまり、博人はあなた方の家族になる、と」父は喉を鳴らす。拳に不自然に力が入っていた。
「そのとおりです。知っての通り、あなたには拒否権がありません」
「ええ。そうでしょうね」父はアカネの方を見た。少しだけ頬を緩める。「アカネお嬢さんは、それでいいんですか?」
「構わないわよ」アカネは嬉々として答える。彼女はずっと私に視線を向けていた。「ねー」
私は苦笑いをする。
「博人をどうする気ですか?組を継がせるおつもりで?」
「組長が判断します。私の知るところではありません」志下は微笑んだ。「ご安心を。そう無茶なことはさせませんよ。あなたも、組に居続ければ彼の状態は逐一把握できますので」
「そんなことして、何になる!」
「どうでもいいことでしょう」志下がぴしりと放つ。
ぐっ、と父の体が揺れた。細い腕がたらりと下がる。アカネは恫喝に慣れているのか、眉一つ動かさずじっと私を見つめていた。
「これは決定事項です。以前のような真似をすれば今度は首が飛びますよ」志下が低く囁いた。
「ねぇ」突然、明るい声が居間に響いた。「このお茶私がいつも飲んでるものと違うお茶よね」アカネが私に問うている。「あ、このお菓子は美味しいわね」
場が静まる。
私は唖然となる。
なぜ、このタイミングでそんなことを…。
「…種類が違うからね」私は震えて返事をした。こんな状況でまともな返答など出来ない。
「ふぅん…まぁ、別に不味くないからいいけど…やっぱ私の家のほうが質が高いようね」アカネはそう言って、コロコロとガラスコップの中で薄黄色の茶を転がした。
アカネが茶をすする音だけが外の騒音とまじり響いていた。
「博人には、ちゃんと食べさせてくれるんですよね?」父がおもむろに訪ねた。
「無論です。土沢家の家族として接するのですから、生活費はすべて我々が出費しますよ」志下が答えた。
「…学校は、行かせるんですよね?」
「ええ」志下は頷く。「あなたに何言われようと、方針はすでに固まっています。中学校は転校。アカネと同じ中学に通わせ、そこで勉学に励んでもらうつもりです」
「え!博人が私の中学に来るの!やったぁ」アカネが両手を宙に突き出した。
「ええ。お二方には一緒に登下校をしてもらいます」志下が静かに答える。「そして、同じ高校に入ってもらいます」
「……」
「詳しい話はまた別日を用意しますので、時期は電話でお知らせします。逃げることの無いよう、くれぐれもよろしくお願いしますね」
そう言うと、志下は茶を一口も飲まず、席を立った。アカネが遅れて志下に続く。玄関まで見送った時、アカネは私に手を降ってくれた。私も手を振り返す。扉が閉まる。部屋が暗くなった。急に閉塞感を覚える。
数秒が経った時、父がボソリとつぶやいた。
「…博人。生き延びるぞ」
「え…」私は父を見上げる。目が腫れていた。
「警察だ。警察に駆け込もう。相手は暴力団だからな。それに、ネタはある」
私は嫌な予感がした。その予感は、私を奮い立たせるようでもあり、何かの警告のようにも感じられた。




