十二
家に着くと、時刻は16時を過ぎたばかりだった。中学校から帰ってくるよりも早い帰宅に、しかし私は喜ぶこともなかった。ずっと、どんよりとした思考の沼が私を支配していたからだ。家、という場所も私に安堵を与えてくれはしなかった。
母が家にいた。私は最近母の帰宅時間が早くなっていったことを思い出した。それはきっと普通のことで、シフト時間を変えただけのことなのだろう。しかし、私はその簡単な予測すらも、深く考え、母の帰りの早さに不安感を抱いていた。
なにかから逃れるように部屋へ戻った私は、自然と図書館へ向かう準備をしていた。今日、私はアカネに彼女の部屋を見せてもらう、と言う約束だった。
いや、もしかしたらその約束は私の勝手な思い込みで、冗談だったのかもしれない。私達は、もうそこまでの仲になっていることも怪しい事実だった。けれど、その約束だけが私の行動意欲を駆り立て、不安という不安を抑え込んでくれていた。
私はいつのまにか図書館についていた。
図書館へどうやって行ったのか、そもそも移動していたのか、記憶がない。
「おっはー」
気がつくと、土沢アカネが満面の笑みで私の眼の前に立っていた。私は、昨日と同じ、図書館の二階にある勉強スペースに腰掛けていた。
「早いわね。いやぁ、自転車はあるから中にいると思ったのだけど…何よ、気味が悪い顔をしてるわね」
え。
「そう」
と、私は自分がニヤついていることを初めて意識した。彼女の裏には、やはり黒いスーツの男が要た。私は彼を気配だけ感じ、顔が上手に見れなかった。彼は背が高い。私の眼の前に、アカネがだけが映った。
「ええ、なんだか、面白いわ」
アカネはそう言って、深いしなやかな笑みをその整った顔に造形した。
私は釣られて笑いそうになって、でも、何故か笑顔が浮かばなかった。
「さあ、今日の勉強は無しよ。貴方、昨日の約束は覚えているわよね。私の家に行くのよ」
「ああ、覚えてるよ」
「行きましょ。さあ、立ちなさい」
彼女はいくらか興奮していた。
私は何気なく立ち上がる。足に力を入れたとき、初めて私は現実世界に要るのだと感じた。肌に吹いてもいない風を感じたし、アカネの笑顔が温かい温度を保っていることに気がついた。
私は笑みがこぼれた。
「楽しみだ」
その一言を言うと、とてつもない高揚感が私を襲った。幸福である、と感じたのだ。
私達は、図書館の駐車場に止めてある、黒い車に乗車した。運転席にはまた違う黒いスーツの男がいて、名を津鍋と言った。彼もサングラスをしていたが、声色や体型からまだ若いと想像出来た。
私とアカネが後部座席に座った。車の屋根は低く、新車の香りがした。
車が発進したとき、私は遅れて自分がなにかとんでもないことをしでかしたのではないか、という予感に襲われた。よくよく考えれば、私はアカネだけに心を許しているのであって、その後ろの組織や黒スーツの男に慣れ親しんでいるわけではなかった。この空間に置いて、私の心の支えは、父でも母でも学校でも少ない友人でもなく、アカネだけだった。
「博人君。君は、アカネお嬢様を好きですか?」
突然そう言ったのは、志下だった。彼の声は低く、車内によく響く。私は、アカネとの会話を中断した。
「はい」私はいくらか他人行儀の声を出した。けれど、発言自体に自信はあった。私は彼女が確実に好きである。
「そうですか。なら」彼は振り向く。「親父さんに気に入られると思いますよ。ああ、親父さんは、組長のことです」
私は静かに頷く。声に出し、返事をしようとしたが、口が開かなかった。
「ねぇ、何当たり前のこと言ってるの?」
隣で、アカネが無邪気な声を出した。一瞬、私に言ったものかと思ったが、体制は前に向いていた。
「いえ、そういうもんなんですよお嬢様。すべて、貴方のお父様の判断なんです。…博人君。今日、きっと貴方は組長にお会いになります。アカネお嬢様をお好きなら大丈夫だとは思いますが…くれぐれもお嬢様を汚すような発言はしないように」
「はい」
「何脅してるの?お父様は優しいでしょ?」とアカネが大声を出す。
「そうですね。お嬢様が居れば安心でしょう」志下は優しい音色で答えた。
「彼は、構成員なんですか?」運転席の津鍋が言った。
沈黙が降りた。
「すいません」津鍋は謝った。
彼の声は、感情の起伏がなかった。
たどり着いた場所は、武家屋敷似た広い屋敷だった。黒く低い車は大きな門をくぐり、母屋の裏にあるアスファルトの駐車場に止められた。
車から降り、母屋と壁の間の幅の広い砂利道を私達は通った。先頭を志下が歩き、その後ろに私とアカネ、隣に津鍋が付いた。アカネは慣れているのか、軽いステップを時折ふみ、私にほほえみ掛けた。私は広大な屋敷に足を踏み入れただけで、緊張し、目線が浮いたように移動していた。
母屋の角を曲がると、右手に庭園が幅を広げていた。うららかに靡く毛先から、それが人口芝生であるとすぐに分かった。小池には夏の日差しがぴったりと水面に反射している。水滴に当てられたゴロゴロした岩の囲いがその静かな世界で存在感に溢れていた。少し遠くに薄汚れた小屋があった。
母屋に案内され、穏やかで薄ら寒い廊下を私達は歩いた。しばらくして、頑丈な黒い扉の前で立ち止まる。その時、「私の部屋には行かないの?」とアカネが言ったが、津鍋は静かに扉を開けた。その部屋は座敷で、床は畳だったが絨毯が敷かれており、背の低い頑丈な机とソファがあった。その向かいに厳粛な背の高いディスクがあり、応接間であることがわかった。
「ここで待っててください」
津鍋が私に言った。それから津鍋は志下に小さく頷くと、この部屋を出ていった。ソファにはすでにアカネは座っており、ポンポンと隣の席を叩いて私を誘っていた。私は一度志下に目配せをし、彼が頷くのを確認してからそこに座った。体全体が沈み込み、視界が若干下がる。志下はソファに座らず、私を凝視し、「もうすぐここに組長が来ます。くれぐれも、下手な真似をしないように」と冷たく言った。
その言葉を受け、私は冷めた空気が身体を淋しくさせるような感覚を抱いた。
しばらく、私は凍る人形の思いでその場に座していた。ただ、隣のアカネがとても機嫌よく足をぶら下げ、私の頬を意地悪に触り、私が反応しないのを見て、より一層強く頬をつまんだり、つついたりした。私は彼女の無邪気さが羨ましく、また、微笑ましかった。彼女は一つの炎のように暖かかった。
スッ、スッ、スッ、となにかが擦れるような音が壁から聞こえた時、不意に扉が開かれた。私は飛び上がるほどびっくりした。津鍋が最初に入り、後ろに大きな男が見えた。男は背が高く、黒くふさふさしたあごひげと、頭には黒い髪をびっしりはやし、強面の顔をしていた。彼はすぐ私に気づき、鷹のような鋭利な瞳を私に向けた。それは殺し慣れた殺人鬼、あるいは、熱狂しすぎた格闘家の目であった。それから彼は和服の袖からゆっくりと右手を出し、私の方を指さすと、君か、と言った。私は返すことばすら探せぬ程緊張し、冷や汗だけがすっかり体に染み渡っていた。
私が何も言わない代わりに、アカネがとても偉そうに、そうよ、と答えた。私は彼女のその言葉を受け、救われる思いでそちらに顔を向けようとしたが、表情筋は疎か、首の筋肉すべてがまっすぐと固まって1ミリも動けなかった。
和服の男に、志下と津鍋が頭を下げた。和服の男は二人に手を上げ合図をし、彼らは静かに扉から出ていった。
男は、私とアカネの前のソファに腰をかけた。アカネがニコリとほほえみながら、お父様、何の話をするの?と言った。私は緊張した頭の中で、その言葉を冷静に受け止めた。
とても不可解な三者面談に私は参加してしまったのだ、と私は考えることにした。ディスクの裏からうららかな日差しが私達と机を照らしていた。
「君か」彼は私の方を向いて、もう一度そう言った。「長谷博人。緊張しているな。君の父もそうだった。彼は少し脅しただけで、私たちの組織に組みしてしまった。あれはそういう男だ。君も、災難だったな」
彼はそれから両まぶたを閉じ、息を数度吸ってから、まぶたをあけた。彼の口調はとてもゆっくりとし、落ち着いた音色を保っていた。
「そうだな…。君は私の要望にどこまで答えてくれるだろうか」彼は宙を見ながら言った。そして、アカネの方を向き、「アカネは博人を気に入っているのか?」と、やはり変わらぬトーンで言った。
「ええ。もちろんよ」アカネは自慢げに答える。
「そうか」彼はそれだけ言って、私の方を向いた。「アカネがよいのなら、良いだろう。たかが中学生だ。深く疑うことはよそう。博人。君にはアカネと恋人として付き合い、この家に住んでもらう。拒否権はない」
私は頷く。発する言葉すら思いつかなかった。
「アカネも良いな?」
「ええ」彼女は自慢な声が多少震えていた。それが恥ずかしさからか、嬉しさからか、恐怖心からか、私には判断が出来なかった。
「いいだろ。では、来月博人はこの家に越してもらおう。お前の父にも、そう告げておく」
彼は席を立つ。それからちらりと私を見て、こう付け加えた。
「君の人生はアカネとともにある。現時点でそれは確定した。君はもう、アカネのことだけを考えれば良い」
彼は厳粛な雰囲気を保ったまま部屋を出ていった。
私は緊張からわずかに開放され、いつの間にか背もたれに体を預け、心臓の音に耳を立てていた。正直彼の話しのほとんどが、どうでも良いものだった。当時の私にはあまりに理解しがたい内容であったし、その大きな流れを変えれるほどの力量もないと自覚していた。部屋には私とアカネだけが取り残された。
「どう、お父様はかっこいいでしょ?」
しばらくしてアカネが私の方を向き、その身体を寄せてきた。
「そうだね」私は深呼吸のついでにそう答えた。まだ、心臓の鼓動は収まっていなかった。脳が私に次の展開を予想させ、その予想どおりであれば私の人生はどうなるのだろうと、其ればかりが気になり始めた。
恣意的にアカネを見た。彼女は美しい容姿をしていた。頭は悪かったが、艶のある黒髪と、色白の肌は私の預かりしれぬ品物だった。険があるようで、その内甘えが含まれた発言は私の脳を少しつづ溶かしていくようだった。
アカネは私を見ず、深く背もたれに体を預け、細い足を伸ばし、頭をソファの背に乗せたあと口元を緩めた。
「あー、ここに来るのは久しぶりなのよ。もうずっと昔に来たくらいで、このソファに座れるなんて最高だわ!志下もお父様もいないのだし、存分にくつろぎましょ!」
私は半ば彼女に見惚れていた。彼女の言動は、私の心を十分に癒やしてくれる楽しさがあった。私はずっと、アカネを見つめていたいと思った。この部屋は空調があまり効いていないのか、少し暑い。だが、その暑さが今は心地よかった。窓から入る陽光に照らされる高貴な机、高価なソファ、そこに座る少女と私。そんな異質で安定した空間は、徐々に私に安堵を与え始めていた。今後、私がこの地に住み着こうとも、そこにアカネが居るのであればなんとかなるような気がした。
「喉が乾いたな…」私はふとつぶやいた。
「あ、それ私も思ってたとこ!」アカネがパッと私の顔を覗き見た。
「これから…」
アカネの美しい顔を眺めながら、思った。
これからどうなるんだろうか。
「これから私の部屋へ行くのよ。私の部屋は広いの!」
「アカネは、僕のことが好きなの?」私は、根本的な疑問をぶつけた。
「ええ。気に入ってるわ。だって、あなた頭が良いじゃない」
「それだけ?」
「それだけよ。お父様が選んだのだから、それほど悪い人でもないでしょ?」
彼女の瞳は、ただ無邪気で満ちている。
私はため息を吐き、微笑んだ。
「それなら、いいかな」
扉が開き、志下が入ってきた。アカネが途端にむすっとした顔になる。
「今からお嬢様のお部屋へと向かいます」彼は丁寧にお辞儀をした。
「知ってるわ」アカネは勢いよく立ち上がった。「ほら、行きましょ!」
私はうなずき立ち上がる。
と、アカネが私の手を握った。
「こっちよ」
アカネは走った。志下を追い抜き、私を引き連れながら開いた扉を駆け抜ける。引っ張られる形で、重点がずれながら私は歩く。視界が反転したような錯覚を見、廊下を数歩進んだところでアカネと並んで歩くことが出来た。
アカネはまっすぐに前を見て、私の腕を引っ張り続けた。その勢いに私は小さく笑い、幸福を実感した。角を曲がり、少し歩いた先にあるふすまがアカネの部屋だった。
シュッ、と音を立てふすまは開かれた。中は縦長に広い。グランドピアノが左隅に置かれている。だが、使われていないようでピアノの上には大きなくまのぬいぐるみが二体置かれ、その他の空白を埋めるように小さなマスコットやフィギア、ぬいぐるみが置かれていた。
ピアノの横にベッドが置かれている。そこにも巨大なぬいぐるみが三体居た。アカネは一番にベッドに腰をかけ、勢いを持って背を預けた。
ぐるぐると左右に転がり、それから不意に顔を上げると手で、こい、と誘われた。私は静かに室内へ一歩を踏み入れた。すぐ、なにかから逃げ隠れるようにふすまを閉め、そちらに足を運ぶ。床は色の良い畳で、踏んだ時の感触に、その部屋の匂いにがわずかに鼻腔をかすめた。ガラス戸があり、そこから直ぐ側に高い塀が見える。中央にはさっきの部屋と同じように、ソファと長机が置いてある。ソファは一つで、向く先に薄く長いテレビが飾られている。まるで全く和室を活用しようとしていない感じだった。
「なんか、ここいいね」
「でしょ!」
アカネはガバッ、と起き上がった。
「今日はずっとここに居ていいわよ。もうすぐで志下がお茶とお菓子を持ってきてくれるわ。ゲームをしましょ!」
「なんのゲーム?」
「DS」
アカネはベッドから降り、すぐそばのソファに座った。
「ああ。あれね」
私はそれをイメージするのにしばし時間がかかった。私はスイッチを買っていなかった。その前に、ゲームに飽きたからだ。
「どこにあるの?」
「この部屋にはないわ。今は志下が預かっているの」
「どうして?」
「私に勉強をさせるためよ。お父様の指示なの。ほんと、嫌なんだけどなぁ」
「そう言えば、志下って人、ここの団員なんだよね…」
「団員?…ああ、そうね。お父様の部下だもの」
「部下かぁ」私はため息を吐く。「アカネは、暴力団に居る自覚はあるの?」
「あるわよ」彼女はすんなりと答えた。「それがどうしたって言うの?」
「家が嫌とかはない?」
「ないわ。楽しいもの。いつもはここでアニメを見てるのよ。どう?いいでしょ」
彼女は足をぶらつかせている。楽しそうだ。
「そう…」私は持つ感情をぶらつかせることになった。
彼女が暴力団の意味を性格に理解しているのかが正直心配だ。
「ねぇ、座らないの?」
「あ、座るよ」
それでも、私は無知で無邪気な少女にめいいっぱいの安心感を抱いているのだ。
私は俳優の技見たくゆっくりと畳の上を移動し、彼女の横に腰を落ち着かせた。先程よりも距離が近いような気がしたが、私は黙ってまっすぐ前を見ることに努めた。この部屋は静かだった。廊下から、スリッパや布の擦れる音がよく聞こえた。
少し落ち着かなくなる。
「ねぇ、アカネは将来どうするの?高校とか考えてるの?」
「さぁ、わからないわ。そうね…あなたの行くところに行こうかしら」
「そいつは、大変だぞ」
「そうなの?」
「ああ、そうだ。絶対にそうだ」
私はレベルの高い学校を受けることを強く望んでいた。
「まぁなんとかなるわ。というか、あなたが私に勉強を教えてくれるのだから、必然と私はあなたと同じレベルになれるはずよ」
「それは、君の頑張りしだいだね」
「ふぅん」彼女は興味なさげにほおけていた。「あ、そうだ。後で庭に案内してあげる。いい場所があるの」
「いい場所?」
その時、ふすまが開かれた。薄ら風に誘われ目をやると、志下がお盆に菓子と飲み物を乗せて正座をしていた。私は目を見張る。その図体に正座は似合わなかった。
「おまたせしました」志下はお辞儀をする。
「遅いわ志下」アカネが怒鳴る。
「申し訳ありませんお嬢様」
志下は抑揚のない返事をし、私とアカネの前にそれらを並べた。コップは湯呑みで湯気が立っている。お茶だろうか。菓子は羊羹だった。
「して、博人様。私からお話がございます」
彼は膝をつき、私と目線を同じにした。明らかに私への態度と口調を変えている、と私は思った。
「あ…ええ。何でしょう」
「あなたには一度家に帰り、この家に移る支度をしてもらいます。詳しくは、また車の中でお話しましょう。あなたの父親にも連絡を着けておきます。いいですか。あなたの人生は今日決定されました。そのことを決して忘れないように。あなたはすでに、逆らえぬ流れに身を任せたのです」
体が急激な寒さを覚えた。彼の目は真剣であり、その言葉の重みは本物だった。
「志下。そういうのいいからスイッチを持ってきてくれない?今日はいいんでしょう?」
アカネの場違いな声が聞こえた。振り向くと、アカネが志下を見下していた。
「ええ。今すぐに。ただし、一時間だけですよ」
志下は立ち上がる。彼が視界からそれると、私は湯呑みの湯気を凝視した。耳の遠くでふすまが閉じられる音がする。それでも視線は外せなかった。
私は湯呑みに手を出し、一口茶を飲んでからアカネを見た。
「ねぇ、何をするの?」
「そうね…乱闘かしら?」
私はそれから一時間、アカネと大乱闘スマッシュブラザーズをした。




