一
一話目。
二十一時四十五分になると刑務所内はより一層静かになった。たぶん、夜の刑務所はどこよりも静かである。私は高橋の隣で布団を敷いて眠っていた。瞼の裏の微かな光量に、目を開ける。すると、高い格子窓から覗く淡い月明かりが私を眩しく照らしていた。まるで、私に希望を見せているように。暗闇に覆われつつある心が、私にそう思わせているのだろうか。明日、私は刑務所から釈放される。仮釈放ではなく、刑期を全うしての釈放。嬉しいとは思えなかった。仮釈放ではないということは、刑務所から出た私を引き取ってくれる存在がいないということを意味するのだから。釈放されて、私はどうしたらいいのだろう?生きられるだろうか?それ以上に、私は家族に会えるのだろうか?そればかりが、頭に浮かぶ。最近、私の周りに光、と言うものがあることが実に不可解に思えて仕方がなかった。不愉快を通り越した不思議さである。明るい、と言うのが分からない。なぜ、明るいのだろう。
私は月光のわずかにも希望があるように魅せる明るさが、絶妙に嫌な気分になり、眠りろうと瞳を閉ざした。
「おい。起きてるよな」
と、小声が聞えた。高橋だとすぐに分かった。彼は私に背を向け丸まっている。
「ああ」
「明日だろ?」
「ああ」
「気分は?」
「さぁ――あんまり良くないよ」私は二度瞬きをする。「なんで?」
「何が?」
「なんで訊いた?普通寝るだろ」
刑務所――特に日本の刑務所は規則が厳しい。小声でも喋ってはいけない時間に喋る囚人は少ない。二十一時四十五分以降は、喋る時間ではなかった。
「いや、明日でお別れだからな。話そうと思って。釈放、良かったな」
「ありがとう――そっか、お前ともお別れか」
「感慨深いだろ?ほら、喋ろうぜ」
小声だが、彼の優しい口調が心地よかった。
「そうだな。――お前は、家族とか居るか?」
「居ないよ」彼は微かに笑う。「俺は放火魔だ。家族を焼き殺そうとした馬鹿」彼はまだ私に背を向けている。
「殺してはないんだよな」
私は静かに答える。家族を殺した、と、殺そうとした、では罪の重さが違う。命を奪ったか、そうでないか。『放火』はそれ自体が死刑と並ぶ重い罪であるが、しかし、殺したか殺してないかは大事である。彼は殺人を犯していないため死刑にはならなかった。彼のこういった物騒な話も、五年も刑務所に居ればなれてしまう。
「どうして殺そうとした」
たぶん、この会話はずっと前に一度している。
「ウザかった。ただそれだけだよ。思春期の過剰な被害妄想と悲観思想が起こした事件さ。反省してるよ。悪いと思ってる。当時もすぐに自首したし――けど、あの時の俺は、確実に精神がイカレテいた。そうなったのは、俺一人のせいとは、やっぱ思いたくないな。思い出しても、息子を幸せにしようとする家族では無かったと思うし」
反逆だよ。反逆。と彼は寂しそうに呟いた。
高橋はまだ若い。ようやく二十代後半と言っていた。彼は三年は入っている。
家族に会いたいか?と言おうとして、彼が喋った。
「長谷さんはどうなんだよ。あんた、一向に話してくれないよな、ここに入れられた理由」
私は一度息を止める。
「大したことは、無いよ」そして、ゆっくりと息を吐いた。
「いいだろ最後くらい。教えてくれ」彼は始めて私の方を向いた。目をきっちりと開け、射るように私を見ている。顔つきが若い。それが私には羨ましく思える。
「本当に大したことはない」私は私が犯した罪を思い出し、その中途半端な出来事に内心飽きれた。「本当に…」
「言い訳はいいよ。ほら、言ってくれ」
微妙な寒さが私の肌を撫でた。急に悪寒がする。ここは本当に現世なのだろうか?牢獄、と言うことを意識する。
「…ふぅ」
私はどうしたいのだろう。この牢獄から出て、そして、何がしたい?何がある?…あの時の出来事を、高橋に喋った方がいいのだろうか?私の気分は、そうした方が落ち着くのだろうか?
「…少し考えさせてくれ」
鼓動が早い。なぜだろう?
「ああ。分かった。ゆっくりと考えてくれ。俺は、起きてるから」
彼が、後ろを向く。私はずっと、薄暗い天井を見上げている。
天井――暗闇。闇。心が沈んでいく。私は目を閉じる。そこは、完全な闇。思考が入り乱れる場。身体が固い、と思う。感覚が過敏になっている。思考が勝手に続く。私の過去を思い出そうとしている。
強盗殺人未遂事件。私は一人の女性を助けるために、有名な富豪の家に忍び込み、それを行った。土沢アカネ。私が助けた女性。彼女は暴力団から解放されただろうか?暴力団の一人娘だった彼女。もう長い付き合いだが、私が捕まった後、どうしているのだろう。
妹のような、姉貴のような不思議な存在。死んでないか、いつも、不安になる。この一件で、私は確実に暴力団員から外されただろう。総長がそう判断するはずだ。
「足音だ」彼が急に小声で言う。
「え」私はその一瞬で、現実に引き戻された。
耳をすませる。闇の奥から、かつん、かつん、かつん、とすぐに固い地面を質の良い靴で叩く音が耳に入った。私は黙り、急いで目をつむる。刑務官が見回りをしに来たのだ。しかし、いつもより時間が早い。どうして今のタイミングで?
足音が急に止まる。私たちの雑居房の前。
「40番。まだ起きてるな。明日の昼、面会を行う」刑務官が鉄のような固い声を出した。
40番。高橋は声を出さない。夏の夜のじめっとした空気が、重く苦しく私の息を止めるようだった。
「42番。聞いている通りお前は明日満期釈放だ。お前なら社会で十分やっていけるだろう。おめでとう」
それだけで、足音が遠ざかる。私たちは何か言った方が良かっただろうか?今の言葉は、確実に業務に入っていない、彼個人の慈悲の言葉だ。
「なぁ、俺、面会だって」しばらく経って、橋本がゆっくりと声を出した。
「そうらしいな」私は静かに答える。
「家族かな」
「…嬉しいか?」私は彼の方に首を傾ける。彼は、まだ胎児のような姿勢を解いていない。
「嬉しいよ。俺…だってさ、俺さ、家族好きだもん」
彼は泣いていた。私は驚き、しばし、かける言葉が思い浮かばなかった。家族を憎み、家庭に火を放った男が家族に会えることを喜ぶとは、理解が出来ない。
「…仮釈放、されるんじゃないか」私はようやくそれだけ言った。
「されるかな?引き取ってくれるかな?」彼は幼児のように言葉を濁す。「…お姉ちゃんかな?」
「お姉ちゃん?…姉が居るのか?」
「ああ…優しい姉だよ。三つ上。俺が刑務所入った時、二枚の、手紙だけくれた。優しい人だよ、ほんと…文面は固かったけど、俺のこと心配してくれてるんだなってよくわかった。お姉ちゃんらしいと思って、すごく、嬉しかったから…」
よく覚えてるんだ、と言って、彼はもう一度泣いた。
私は彼の気持ちが収まるのはいつだろうと考える。それから、私の内面に釈放の喜びが無いことを発見した。私にも家族は居る。だが、彼らとはすでに絶縁していた。両親ともに失踪だ。笑えない。でなければ私は暴力団になど入らない。
だが、私には新しい家族がいる。由香と明日香。妻と娘。
会いたいと願うたび、いつも不安になる。彼女達は私を許してくれるだろうか?私が釈放されたところで、私たち家族に幸せは無いのかもしれない。分かり切った答え。隠していたが、私が暴力団に加担していたこともばれてしまった。そもそも五年ともう会っていない。手紙も面会も一度もない。私が満期釈放だと思えば、忘れ去られた可能性が高い。
それでも、思考は続く。
まるで希望に縋る様に。
由香は今でも私を必要としてくれてるかもしれない。由香は、正直言って強い女性ではない。誰かが隣にいないと、自分の生活すら放棄してしまうような人だ。明日香はまだ三歳。いや、あれから五年が経っている。もう八歳か。それでもまだ子供だ。情緒不安定な由香が、一人で子育て出来るとは思えない。
どうしているのだろう?
やはり、由香には私が必要ではないか?
それとも、新しい夫でも見つかったのか?
――心配だ。
だが、私が幾ら心配してもこの五年間何も変わらなかった。
憂鬱になる。
隣では、高橋がしくしくと小声で泣いている。
「寝る」
私は一言そうって、目を閉じ、気持ちを闇の中に戻した。思考が乱れようとするが、それすらもどうでも良くなるほど、暗闇は私に希望を与えなかった。
週一投稿。金曜日。




