90 煌雷殿下の冬宮訪問
翌朝、目が覚めて身体を起こすと、枕元にキキョウの花があることに気が付いた。少し萎れてしまっているが、鮮やかな色合いのそれはここ数日、煌月殿下が帰り際にくださる花だ。
「雪花様、おはようございます」
「おはよう、鈴莉。もしかして昨夜、煌月殿下が訪ねて下さったのかしら?」
キキョウの花を見せながら話すと彼女が「えぇ」と頷く。
「雪花様が寝静まられた後にお顔だけでも覗いてよいかと仰いましたので、お通ししました」
「そうだったのね」
呟きながらわたくしは花を見つめる。
「永遠の愛」
唐突に鈴莉が呟いた言葉に、わたくしは「えっ?」と彼女を見る。
「キキョウの花言葉です。きっと煌月殿下はこんな状況でも毎日雪花様に愛をお伝えしたかったのでしょうね」
それを聞いてポッと顔が熱くなるなる。襲撃を受けたばかりで不安な筈なのに、毎日花と共に伝えられる気持ちを実感すると、傍に煌月殿下がいてくれているような安心感があった。
「蘭蘭、この花を花瓶にさしてくれる? 萎れているけれど、少しは元気になるかもしれないわ」
鈴莉と同じく側に控えていた彼女に頼むと「畏まりました」と嬉しそうな返事がした。
この日から冬宮の殆どの女官と宮女が仕事に復帰した。怪我をしていた明霞にはまだ休んでいるように伝えたけれど、本人が「これくらい平気です! 動いていないと落ち着きません」というので、蘭蘭監督の元、無理のない範囲で働いてもらうことになった。
そうして陽が真上に上った頃、憂龍様の予想通り、冬宮に煌雷殿下が訪ねて来た。
大丈夫。何も手荒なことはされない筈よ。いつも通り。平常心、平常心よ。
呪文のように心の中で唱えて、わたくしは煌雷殿下を部屋へ招き入れた。殿下はわたくしを視界に入れるなり「雪花!」と呼んだ。
「煌雷殿下、わざわざお越しいただきありがとうございます」
わたくしはペコリと一礼する。
「よいよい、楽にしてくれ。そなたも襲撃されたと聞いて心配していたのだ。だが、元気そうで何よりだ」
「ご心配をお掛けしました。煌雷殿下も万姫様と共に襲撃に鉢合わせされたとお聞きしました」
「あぁ。偶々ワシが夏宮を訪ねておったから良かったものの、来た時には護衛の宦官が倒れていてな。万姫たちだけだったら、最悪の事態になっていただろう」
答えた殿下を席へと促すと、すかさず美玲がお茶を入れに来る。気付いた殿下が彼女を見て「ほぉう……」と感嘆の声を漏らした。
「美しい女官だ」
「恐れ入ります」
煌雷殿下の呟きに美玲がサッと一礼する。そうして、彼女が下がった後もじろじろと向けられる美玲への視線。
もしかして、煌雷殿下は美玲を気に入ったのかしら……?
一瞬、背筋がゾクリとした。わたくしは慌てて話題を振る。
「煌雷殿下、甘いものはお好きですか? よろしければ北部名産の菓子を用意させます」
「おお! ではお願いしよう」
その返事を聞いて美玲に視線を送ると彼女を下がらせる。
「冬宮の襲撃は煌月が対処したらしいな」
美玲が下がったことで、わたくしに向き合い直した煌雷殿下からの問い掛けに「はい」と頷く。
「煌月殿下が駆け付けてくださったお掛けで、わたくしは怪我もなく済みました。ですが、宮女が一人怪我を負ってしまって。留守を任せていた他の女官や宮女たちも薬で眠らされていたので、それについては心苦しいばかりです」
「そなたが気に病むことではない。後宮で勤めるということは、そういった危険に遭うことも承知の上なのだからな。勿論、それはお妃にも言えるが。自身や他人が傷付くことに耐えられぬのなら、それは後宮に向いていないということ。そういった者は国へ帰らせるべきだろうな」
「……」
何だか遠回しに北部へ帰れと言われた気がしますわね。だけどお父様やお母様、お兄様のいない冬家に戻ってもわたくしに居場所はない。
煌月殿下の隣がわたくしの居場所だ。だから、お妃候補として煌月殿下の傍に居続けることがわたくしのためでもあった。
「ご心配には及びません。冬宮の者は皆心が強いですから、数日もあれば立ち直りますわ」
わたくしは微笑みを滲ませて言い返す。すると目の前の煌雷殿下が目を見開いて、愉快そうに笑い出した。
「はっはっは!! そう言う雪花も心が強いのう!!」
「え、えぇ。ありがとうございます」
「だが本当に良いのか? 今後もこういったことが起こらぬ保証は何処にもないぞ?」
「っ……」
煌雷殿下の視線が探るようにわたくしを見る。まるで、“今なら見逃してやる”とでも言う警告のようだった。その時、「煌月殿下がいらっしゃいました」と部屋の出入り口から蘭蘭の声がした。
「叔父上、私のお妃候補を脅すような真似はおやめ下さい」
煌月殿下はわたくしたちが座る机まで歩きながら、煌雷殿下に話しかける。
「ふん。脅してなどおらん。事実を伝えたまでだ」
「東宮では警備を強化しています。それに、今回の件を受けて更に人員を強化することになりました。もはや外部から何か事を成そうなどと考える輩がいるとは思えません」
「それは分からんぞ。国内外関わらず良からぬことを考える輩は居るものだ」
「そうですね。叔父上のように急遽訪ねてくる御一行に紛れられれば、そういった輩に侵入されてしまう可能性はありますが。……そもそも叔父上程のお方が部下の中に荒くれ者が大量に紛れ込んでいることに気付かないとは、相手は叔父上を上回る切れ者ということになりますね」
「何だと?」
煌雷殿下の鋭い視線が煌月殿下に向けられる。部屋の中は張り詰めた空気に包まれ、宮の主であるわたくしですら声を出すのを躊躇われた。
ハラハラしながら成り行きを眺めることしか出来ずにいると、煌月殿下が畳み掛けるように尋ねる。
「捕らえた者の中には叔父上に雇われたと話す者もいたとか。……まさかとは思いますが、叔父上に限ってそのようなことありませんよね?」
疑うように細められた煌月殿下の視線が煌雷殿下を見据える。
「デタラメだ。お前は野蛮な者たちの発言を信じるというのか!」
怒りに満ちた煌雷殿下の表情はとても恐ろしいものだった。
「もう良い! 煌月、お前の話は聞く価値もない」
そう吐き捨てると、席を立った煌雷殿下が部屋の出口へ向かう。
「っ、煌雷殿下、お帰りになられるなら見送りを……」
「必要ない!」
わたくしの言葉に即答すると、大股な足取りで煌雷殿下は去っていった。