88 夏宮の襲撃者
雪花が襲撃を受けたのと同じ頃、万姫は煌雷が開いた真っ昼間の宴から真っ直ぐ夏宮に帰ってきた。
食事の席で、てっきり夏家の人間として嫌味の一つや二つを他のお妃候補達の前で煌雷殿下から言われるのでしょうね、とわたくしは考えていた。だけど意外なことに何も言われなかった。それどころか、煌月殿下が挨拶に来るまで煌雷殿下は上機嫌。
まぁ、その大半は梨紅様のおかげと言っても過言ではありませんでしたが。
それなのに……
「万姫」
夏宮の前に帰り着くなり、後ろから煌雷殿下に声をかけられた。振り向くと、従者や護衛として宦官を8人程連れている殿下が立っている。
「煌雷殿下ではありませんか。確か先にお戻りになられた筈では?」
「あぁ。だが、そなたと話がしたくてな」
ニヤリと笑みを浮かべる姿に背筋がゾクリとする。煌雷殿下は夏家のお妃を母に持つ夏家縁の者だ。
宴の席ではなく、わざわざわたくしの宮まで尋ねて来たことにはきっと訳がある筈ですわ。
「お話し、ですの?」
「あぁ」
返事を聞いて、わたくしはちらりと静芳に視線を送る。静芳は全て了承したと言うようにペコリと頭を下げると、ひっそりと宮女に指示を出す。そうして二人の宮女が宮の奥に消えていった。
「では中へどうぞ。立ち話も何ですもの。直ぐお茶の用意をさせますわ」
「気遣い感謝する」
わたくしはなるべくゆっくり煌雷殿下の前を歩いて、応接室として使っている部屋まで案内する。
こうして時間を稼げば、わたくしより先に宮へ入っていった宮女のどちらかが煌月殿下付きの宦官へこの事を知らせて、応援を呼んできてくれる筈ですわ。
煌雷殿下は宦官を8名程連れている。それに対して、今わたくしに付いてくれているのは、宮の前に立っている見張りの宦官1名と、煌月殿下が使わせてくださった2名のみ。後は女官と宮女しかいない。
煌雷殿下を数に含めると、戦力としては多く見積もって9対3になる。勿論、煌雷殿下たちが9でわたくしたちが3。これではいざという時、とても歯が立たちませんわ。
少しでも時間を稼がなくてはなりませんわ。
「煌雷殿下はいつまで王宮に滞在されますの?」
わたくしは歩きながら話を振る。
「そうだな。夏の宴も今日で終わり故、用事が済んで暫くしたら戻る予定だ」
「まぁ王宮にはどのようなご用件で?」
「なに、対した用ではない。少々目障りな奴らを消そうと思ってな」
「え……」
低くなった煌雷殿下の声色に背筋が凍る。
「め、目障りと言うことは、冬家のお妃候補のことですわね!」
自分で言っておきながら、雪花様を上げたことにチクリと胸が痛んだ気がした。だけどすぐに気を取り直して、笑って誤魔化して歩みを進めると少し先の廊下に人影が見えた。よく見ると先ほど先行して宮へ入らせた宮女2人が、女官でも宮女でもない格好をした見慣れない女に刃を向けられている。
わたくしが「えっ?」と声を漏らすと後ろから「ガッ!」「グェッ!」という呻き声と共にドサッと何かが床に倒れた音がした。バッと後ろを振り返ると、煌雷殿下が剣を抜いている。いつの間にか殿下の後ろには、連れたいた8人以外に見慣れない服装の人影が増えていた。
「万姫、残念だ。お前は今日、後宮に侵入した何者かによって葬られる。……あぁ、可哀想に」
静芳ともう一人着いてきてくれていた宮女がバッとわたくしを庇うように前に出る。
「煌雷殿下、何故このような真似を! 万姫様は夏家のお妃候補でございますよ!!」
静芳が叫ぶと、殿下がフッと息を吐く。
「とあるお方から頼まれたのだ。万姫はもう使い物にならない。それ故、余計なことを言いふらす前に始末しろ、とな」
「っ!!」
“とあるお方”とは、おそらく皇后陛下のことでしょう。やはり、わたくしは皇后陛下からも夏家からも見放されているのだわ!
「案ずるな、煌月も一緒にあの世へ送ってやる。嬉しくはないだろうが冬家の娘もな」
「……っ、そんなことをしてただで済むと思っていますの?」
「あぁ、問題ない。何しろ私は未来の皇帝になるのだから」
「こっ、皇帝!?」
それはつまり、煌雷殿下は皇帝陛下を害するおつもりということですの!?
「少し話しすぎた。そろそろお別れの時間だ。万姫」
ジリジリと煌雷殿下が距離を詰めてくる。それに続いて殿下の後ろにいた宦官も同じ分だけ距離を詰めてきた。
もう、ここまでですのね……
諦めかけたその時、「万姫様!!」と聞き覚えのある声がわたくしの耳に届く。
「っ!? 憂龍様っ!!」
キンッ! と剣と剣がぶつかり合う金属音が響く。
宮女たちを知らせに行かせることは叶わなかった。けれど、どういう訳か憂龍様が来てくださいましたわ!!
もうお仕舞いだと思っていた状況で希望が見えた時、わたくしに剣を向けていた煌雷殿下がわたくしの側に駆け寄る。
「万姫様っ!!」
焦った静芳と宮女が応戦しようとした時、殿下が声を上げる。
「憂龍! よくぞ来てくれた!! 万姫の宮を尋ねてみれば急に侵入者が現れて、万姫を狙ってきたのだ!」
わたくしたちは驚きで目を見開く。今の今までわたくしを殺そうとしていた人物が急に態度を変えてきたのだ。
「万姫! 大事ないか!?」
「っ!?」
固まるわたくしたちをよそに、煌雷殿下はわたくしの肩を抱くと耳元で呟いた。
「少しでも下手な真似をすれば。お前だけでなく、そこの女官と宮女も殺す」
「な……!!」
目の前で心配そうに静芳が顔を歪めている。それは隣の宮女も同じだった。
わたくしは今までたくさん我が儘を言ってきた。キツく当たったことだって数えきれないほどある。それでも彼女たちはわたくしに着いてきてくれたのだ。
まだわたくしを怖がる宮女は多い。それでも北の離れを出たとき、これからは彼女たちを大切に接しようと決めたのだ。
わたくしのせいで静芳たちが傷付くのは、見たくありませんわ。
わたくしは拳をつくると、怒りに耐えるようにぎゅっと強く握った。
「約束ですわよ。……彼女たちを傷付けたら許しませんわ」
キッと睨み付けて小さく呟くと、ニィッと笑った煌雷殿下が「それでよい」と呟いた。