86 静まり返った冬宮
煌雷殿下の宴を終えて冬宮へ戻る途中、「雪花様!」と香麗様がわたくしを呼び止めた。
「よろしければこの後、今朝中止にした舞のお稽古はいかがでしょう?」
確かにまだ陽は十分にある。それに夏の宴が終わればあっと言う間に雨乞いの舞の本番がやってくるだろう。
「えぇ。構いませんわ」
「では、直ぐに舞の支度を整えて伺いますね」
「わたくしも支度を整えてお待ちしております」
冬宮に着いたら早速着替えなくてはいけないわね。どうせなら万姫様も改めてお誘いしてみようかしら?
そう考えて、わたくしは冬宮に着いたら若汐に夏宮への遣いを頼まなくてはね、と思考を巡らせた。
*****
冬宮に着くと、わたくしは真っ直ぐに部屋に向かう。
「お待ちを」
だけど、梓豪様の冷静な声が、部屋に入ろうとするわたくしを止めた。
「どうかしました?」
梓豪様を見ると、彼は天佑様と視線を合わせて頷く。
「宮の中が静か過ぎます」
「え?」
わたくしは側にいた鈴莉と顔を見合わせる。蘭蘭と麗麗も緊張した面持ちで顔を見合わせていた。
言われてみれば、普段であれば門からここに来るまでの間に廊下でもっと宮女たちとすれ違う。だけど今は廊下を歩く者は愚か、掃除をしている者すら見かけない。
働く女官や宮女たちの話し声や物音がしても良いはずなのに、辺りはシーンと静まり返っていた。まだ昼間だから誰も居ないはずはない。まるでみな息を潜めて、じっとしているかのようだ。
まさか……と背中を冷たいものが這う。
緊張からわたくしは唾を飲み込む。
「雪花様、私の側を離れないで下さい。鈴莉さんたちは万が一、私や梓豪に何かあれば迷わず雪花様を連れて逃げてください」
天佑様の声にわたくしたちは静かに頷く。梓豪様が腰に携えていた剣を手に取りながら部屋の扉に手を掛ける。天佑様も同じく剣を手に取った。再び梓豪様と天佑様が視線を交えて互いに頷くと、それを合図に梓豪様がバンッ! と一気に扉を開く。
見たところ中には誰も居ない。それを確認すると、梓豪様が勢いよく部屋の中に転がり込んだ。瞬間、「天佑!!」と梓豪様が叫ぶ。
天佑様が私の腕を掴んで駆け出すのと、梓豪様が突然現れた侵入者と戦闘に入ったのはほぼ同時だった。
「きゃぁあああ!!!!」
天佑様に引かれて走るわたくしのすぐ後ろで、蘭蘭と麗麗の悲鳴が響く。恐怖で速まる鼓動に比例して息が上がる。そんな時、前方を塞ぐように隣の部屋から別の侵入者が4人現れた。
「っ!!」
足を止めて彼らと睨み合う天佑様。侵入者は男だけでなく、女の姿も混じっていた。前を塞がれて後ろを振り返ると、どこから出てきたのか3人の侵入者が退路を塞いでいた。
「天佑様っ!! 挟まれてしまいましたよ!?」
珍しく取り乱した鈴莉。天佑様はわたくしの腕を離すと努めて冷静に剣を構え直す。
「鈴莉さん落ち着いて。雪花様を頼みます」
ダッと駆け出してきた侵入者の剣を天祐様が綺麗にいなして、相手の肩に剣を振り上げた。その光景に堪らず目を瞑ると「ぐぁっ!!」と侵入者の呻き声が聞こえた。
「雪花様!」
わたくしを囲うように鈴莉、蘭蘭、麗麗が立ち塞がる。そして彼女たちは髪を纏めていたシンプルな簪を髪から抜き取り構えた。それを見てわたくしもこの前、出店で購入したばかりの簪を手に取る。
何も無いよりはマシだわ。
それでも、わたくしたちが危機的状況にあることに変わりない。
キィン! キンッ!! と、剣と剣がぶつかる音が響く。梓豪様が廊下に出て、わたくしたちを追っていた3人の相手をする。天佑様は立ち塞がっていた侵入者の残り3人を相手取っていて、そのうちの1人が床に倒れ込んだ。
「動くな!」
天佑様が戦う奥の廊下から野太い声が響く。それを合図に剣がぶつかり合う音が止んで、全員の視線がその声に集まった。
体格の良いの男が一人の宮女を盾にして、その喉元に剣を突き立てていた。
「っ! 明霞!!」
わたくしの声に「雪花様っ!」と明霞が反応する。
「大人しくしろっ!!」
男が更に剣を明霞の喉元に近づけた。
「……っ!!」
命の危機を前に、明霞は恐怖で表情強ばらせて青ざめている。
「大人しく冬家の娘をこちらに渡せ。そうすれば、この宮女は解放してやる」
明霞が「ううっ……!」と怯えた声を上げた。
「卑怯な真似をっ!!」
天祐様の叫びに目の前の男がニヤリと笑う。
「早くしねぇと、間違えて刺しちまいそうだなぁ?」
刃があてがわれた明霞の首元からツーッと一筋の赤い血が垂れてくる。
「っ!」
言う通りに従ったら、明霞を解放してもらえるかもしれない。だけど、きっとわたくしは誘拐、若しくは殺されて無事では済まない。それに従ったところで本当に明霞を解放してくれるか分からない。
本当ならわたくしは何がなんでもあちら側へ行くべきではない。それでも……もし、明霞が助かるのなら。
「……本当に彼女を離してくれますか?」
男に話しかけたわたくしに天祐様と鈴莉が「雪花様っ!」と声を上げる。
「あぁ。お前が俺たちに着いてきてくれるならな」
「いけません!!」
蘭蘭、麗麗が行かせまいとわたくしの腕を押さえる。
「雪花様っ!! 私のことは構わず! ご自分のことだけお考えください!!」
「うるさい! お前は黙れっ!!」
男が明霞に怒鳴り付ける。その時、男の後ろから「ぎゃあっ!」と別の侵入者の呻き声が聞こえてきた。
明霞を人質にしている男が振り返ると、そこには剣を手にした煌月殿下の姿があった。
「雪花!!」
「っ! 煌月殿下!!」
男に隙が出来た瞬間を天祐様は見逃さなかった。一瞬のうちに移動すると、男の背中を切り付ける。
「ぎゃっ!!」と呻き声を上げた男の手が明霞を離した。天祐様は明霞を引き寄せると、男を蹴り飛ばす。
その一部始終をにして、明霞が助かったことにホッとする。気が付くと辺りは梓豪様や煌月殿下が引き連れてきた3人の宦官によって制圧されていた。
事態が落ち着き、わたくしが飛び出していったり、襲われる心配がなくなると蘭蘭と麗麗がわたくしの腕を離して一歩下がる。
「雪花! 大事ないか!? 怪我は!?」
煌月殿下は駆け寄ってきた途端、わたくしの両肩に手を添えて顔を覗き込みながら尋ねてきた。
「っ、はい。わたくしは何ともありません。天祐様と梓豪様が守ってくださいました。煌月殿下は!?」
「私は大丈夫だ。……そなたに怪我がなくて良かった」
ホッと吐息を付くように発せられると、煌月殿下は安心したようだ。それまでの悲痛そうに歪んでいた煌月殿下の表情が少し和らいだ。
「ですが、明霞が怪我を……それに宮に帰ってきてから美玲や他の宮女の姿を見ていません。彼女達が心配です」
わたくし自身の危機は去ったものの、冬宮に残して出掛けた女官や宮女たちのがまだ分からず、不安でいっぱいだった。そんなわたくしの言葉を聞いて、煌月殿下がキリッとした表情に戻る。
「あぁ。直ぐに探そう。一先ずそなたは安全な場所で休んでいてくれ」
告げると煌月殿下は天佑様と梓豪様を呼び付けて、わたくしを部屋で休ませるよう指示を出した。それからすぐに他の宦官にも指示を出してテキパキと動いていた。