85 皇弟殿下のお誘い
それからの夏の宴は平和に過ぎていった。そして、あっという間に迎えた最終日。
「今日を乗り切れば、一先ずは安心ね」
香麗様と万姫様との舞のお稽古の約束前。お茶を飲みながら寛ぐわたくしが呟いた一言に、すかさず鈴莉が「油断は禁物です」と注意する。
「何が起こるか分かりませんから、最後まで気を抜かないことです」
「えぇ。分かっているわ」
頷いた時、「雪花様、失礼致します」と天佑様が部屋に入ってくる。
「昨夜から煌雷殿下が王宮にいらしているそうで、殿下が是非お妃候補の皆様にご挨拶したいと仰っているそうです」
「え? 煌雷殿下が?」
思わず眉を顰める。煌雷殿下は皇帝陛下の皇弟であり、彼の母親は夏家出身のお妃だ。
「何でも皇后陛下と万姫様が考えた夏の宴の新たな催しである出店を一目見てみたいと、急遽ご訪問を決められたそうです」
「このタイミングでですか?」
鈴莉が天佑様に尋ねる。
「その点に関しては私も不審に思っています。用心される方が宜しいかと」
万姫様の話だと夏家縁の者がわたくしや煌月殿下を狙いに来ると考えられる。もしも、その相手が煌雷殿下だとしたら…………
功績と共に語られる煌雷殿下の戦は容赦のない内容ばかりだ。けれど、ずっと勝利を挙げていることから、もとてもお強い御方だということがよく分かる。
わたくしなんて煌雷殿下がその気になれば一瞬でやられてしまうことが容易に想像できた。体から血の気が引くのを感じる。
だけど、皇弟からお妃候補に対してお誘いされたのだ。特別な理由でもない限り、顔を見せない訳にもいかない。
「行くしか、ありませんね」
強張った声で呟くと、梓豪様が前に出る。
「雪花様はこの梓豪と天佑が御守りします。それに、他のお妃候補も一緒に呼ばれているのです。煌雷殿下が雪花様を狙っていたとしても、他の方々の目がある中で手出しは出来ないでしょう」
言われてみればそうだ。他のお妃候補や連れている女官、宮女たちの目がある中でそんなことをすれば、殿下のお立場が悪くなるだけだ。
「……そうですわね」
梓豪様の言葉に少しだけ心が軽くなったわたくしは立ち上がる。
「舞のお稽古は中止にして直ぐに準備しましょう。雹華、明明、春宮と夏宮へ連絡をお願いね」
「はい」と頷いた二人が早速動き出す。それを見届けて、わたくしは踊りやすい衣から煌雷殿下にお会いするため着飾った衣に着替えるべく、動き出した。
*****
支度を終えたわたくしは鈴莉、蘭蘭、麗麗、梓豪様を引き連れて天佑様の案内でとある部屋の前に辿り着いていた。
「煌雷殿下、雪花様がご到着されました」
部屋の前にいた宦官が中に声を掛けると、「お通ししろ」と声がして戸が開く。中に入ると長机の前に座る煌雷殿下の姿が目に入った。
「煌雷殿下、お招き頂きありがとうございます」
わたくしは恭しく挨拶をして一礼する。
「おぉ!! 雪花! 良くぞ来てくれた!! さぁさぁこちらに」
上機嫌な殿下の案内で席に座るよう促されて、そちらを見ると梨紅様の姿があった。
「雪花様、ご機嫌麗しゅう」
にこにことわたくしに笑いかける梨紅様に、わたくしも微笑みを返しながら席に着いた。
「梨紅様、とてもお早いですね」
「今朝、起きてすぐに煌雷殿下がいてらっしゃるのをお聞きして、お誘いが掛かる前に用意してたんです。故郷ではえらいお世話になったさかい、一目、殿下にお会いしとうて」
「はっはっは! 梨紅は嬉しいことを言うのぉ!! ワシの息子の嫁に迎えられなかったことが残念だ!!」
「まぁ! 殿下ったら!!」
扇子で口元を隠しながら「ふふふっ」と楽しそうに笑う梨紅様。お二人は後宮へ上る前から交流があっただけのことはある。梨紅様は煌雷殿下を良く知っていらっしゃるみたいだし、何より顔見知りに会ったからなのか、今までで一番楽しそうに見えた。
まぁ単純に皇弟殿下だからそう接しているだけかも知れませんけれど。
そんな風に考えていると、万姫様と香麗様も部屋に到着された。わたくしたちがみな席に着くと、煌雷殿下が用意させた食事が運ばれて、簡単な宴が催される。
煌雷殿下は怖い御方だと思っていた。けれど、終始楽しそうに談笑されている。以前、煌月殿下からお聞きした閻淵の戦のお話しで聞いていた人物像とはまるで別人だった。
上機嫌な煌雷殿下を梨紅様が中心になって持ち上げ、つつがなく進んでいった。そうして宴が終盤に差し掛かる頃、「煌雷殿下」と外に立っていた宦官が中に声を掛けてきた。
「煌月殿下がお越しです」
「煌月だと?」
瞬間、今日聞いた中では一番低い声で煌雷殿下が尋ね返した。先程までの上機嫌さが一瞬で消え去り、部屋の中の雰囲気が一気に張り詰めていく。
「殿下にご挨拶に伺ったとのことです」
「……。通せ」
わたくしたちを迎え入れて下さったときとは口調も異なるその様子に、思わずお妃候補同士で顔を見合わせる。だけど梨紅様だけは特に何も思っていらっしゃらないのか、動じることはなかった。
「叔父上、お久しぶりでございます」
部屋に入ってきた煌月殿下が挨拶をすると、煌雷殿下が鋭い視線を向ける。
「煌月、お前を呼んだ覚えはないぞ」
冷たい口調。だけど、煌月殿下は気に止める様子もなく言葉を続ける。
「部下から私のお妃候補たちが叔父上にお世話になっていると聞きましたので、ご挨拶をと思いまして」
それを聞いてフッと煌雷殿下が息を吐く。
「そなたの部下には声を掛けなかったはずだが、嗅ぎ付けてくるとは随分と優秀な部下を持ったな。だがその程度、出来て当たり前だ」
挑戦的な煌雷殿下の視線を「えぇ」と頷きながら煌月殿下が受け止めると、煌雷殿下が大きく息を吐いた。
「興が冷めた。……宴はここでお開きとする」
少し戸惑いながら、わたくしたちは席を立つと煌雷殿下と煌月殿下に挨拶をして、それぞれ部屋を後にした。