8 煌月殿下の御心
煌月殿下が仰ることには冠帝国の王宮を出発し、馬に揺られること二日目のこと。
「昼頃に早馬でここにいる天佑が我ら一行に追いついて来たのだ」
煌月殿下が紹介すれば後ろに控えていた殿下付きの宦官の一人が一歩前に出る。
「雪花様、お初にお目にかかります。天祐にございます」
「天佑様、ご丁寧なご挨拶ありがとうございます」
座ったまま天佑様にお辞儀をすると殿下が話を続ける。
「この天佑からそなたが皇后の命で北の離れに軟禁されたことを聞かされてな。万姫との茶会で、そなたが万姫に年長者や位が上の者を敬う事を拒否したと」
ドクリと胸がざわつく。
当然ながら殿下のお耳にも入っていた。分かっていた事なのに、本人の口から聞かされると胸が締め付けられる。
「……そう、でしたか……」
小さく呟けば自然と視線も俯いた。
「だが、それは事実ではないと天佑が教えてくれた」
殿下の自信に満ちた声に「え?」と顔をあげる。
「実は黙っていたのだが、雪花と万姫には密かに私の宦官を二人ずつ付けていたのだ。そして雪花に付けていた宦官の一人が天佑だ」
「わたくしに? 天佑様を?」
ぱちぱちと瞬きをする。
わたくし、全く気が付きませんでしたわ。
「そうだ。後宮は頑丈に守られた王宮の中にあるとはいえ、どんな形で予想外の災いや敵襲に合うか分からないからな。だからと言って後宮に武官を置く訳にいかないため、有事の際にそなたらを護衛するように頼んでいた」
「私は殿下の命で雪花様が後宮入りされた数日後から、日中はお側で仕えさせて頂いておりました。ですから、あの日の茶会では私も万姫様に付いている宦官も、あの場での出来事を見聞きしていたため、雪花様の潔白が証明されたのです」
「そうだったのですね」
初めて知った事実に正直、驚きを隠せないわたくしに煌月殿下が軽く頭を下げる。
「護衛のためとは言え、覗きのような真似をさせていたことすまない」
「で、殿下! 顔をお上げ下さい!」
わたくしの焦った口調で殿下がわたくしを見る。切れ長の目がわたくしの瞳をじっと見つめた。
「私を許してくれるか?」
「煌月殿下がわたくしに天佑様を付けてくださっていたのは、身を案じてのことだったのですよね? 正直、驚きはしましたが、そういうことであれば……」
じっと見つめられることに段々恥ずかしくなって、そっと視線を逸らす。
「ありがとう、雪花」
「いえ、わたくしは何も……」
ちらりと殿下を見れば、優しく微笑む殿下の顔があった。
「本当は直ぐにでも雪花に掛かった誤解を解くために、王宮へ引き返したかったのだが役目を果たさずに帰るわけにはいかなくてな。だからと言って、皇后の下した命を宦官だけではひっくり返すことも出来ない。そこからは行く先々の街や村で馬を乗り換えて最速で東上灯へ向かい、一日半で用事を済ませて帰ってきた。……遅くなってすまなかった」
「そんなことありません。煌月殿下は当然のことをしたまでです」
民や国の未来とお妃候補のわたくしに掛けられた疑惑のどちらを取るかだなんて、天秤に掛けるまでもないのだから。
「しかし、数日とは言えよくあの北の離れでの生活に耐えたものだ」
感心したような殿下の言葉に「ええ」と頷く。
「時間の流れが分かりにくかったこともありまして、退屈過ぎて死にそうでした」
「何を言う。そなたは熱で苦しんでいたではないか! 私が迎えに行くのが遅ければ、本当に死んでいたかも知れぬのだぞ!?」
少し怒ったような口調の殿下。初めて見る姿に戸惑いつつも、それは心配して下さっているからこそだと伝わってくる。
「あ……、申し訳ありません。その件に関しては、煌月殿下には本当に感謝しています。あの時の事をあまり覚えていないのですが、煌月殿下がわたくしを冬宮まで運んで下さったと聞いております」
「ああ」
「ですが、今後はお控えください。今回はたまたま、ただの風邪だったからまだ良かったものの、もし煌月殿下の御身体に何かあったらと思うと、わたくしは煌月殿下に合わせる顔が御座いません」
「あ、ああ。…………そう、だな。……そうなのだが……」
急に歯切れの悪くなった殿下の視線が泳ぐ。「煌月殿下?」とわたくしが首を傾げると、憂龍様が「私は殿下をお止めしたんですよ。でもご自分で運ぶと頑なでしてね」と呆れ顔で呟く。
「雪花は私の妻になるのだ。……緊急事態とは言え、例え憂龍でも雪花に触れさせたくは無かった」
珍しく拗ねたような口調の煌月殿下。けれど、それよりも殿下から放たれた言葉にわたくしから「へ……」と、間抜けな声が漏れる。
後ろに控えていた美玲や蘭蘭、麗麗が小さく黄色い声を漏らした。鈴莉の声は聞こえてこなかったが、彼女も驚いたに違いない。
「え、ええと……?」
どういうことでしょうか。今のお言葉だと煌月殿下がわたくしを──────
「独占欲が強すぎるのも考えものですね」
はぁっとため息をついた憂龍様。わたくしはというと信じられない思いでいっぱいになる。
「煌月殿下が、……わたくしに独占欲!?」
パクパクと口を開くけれど言葉にならない。「だめか?」と殿下が小首を傾げて尋ねてくる。
精悍なお顔立ちの煌月殿下にそのような事をされれば、世の中の大半の女子は心を奪われることだろう。かくいうわたくしも、たった今そのうちの一人としてドキッとした。
「だ、だめだとか、そういう事ではなくてっ! そのっ、わ、わたくしなんかを煌月殿下が……好意的に見て下さっているとは、思っていませんでしたから」
恥ずかしさでどうにかなりそうになっていると、「雪花」と煌月殿下の優しい声が落ち着かせるようにわたくしを呼ぶ。
「私が皇帝になった暁には、叶うことならそなたを皇后にしたいと思っている」
「!?」
急な告白にわたくしはもちろんのこと、その場にいた煌月殿下以外の全員が驚いて室内がざわつく。
「で、殿下!? 今打ち明けてしまわれて良いのですか!? 誰か他の者に聞かれでもしていたら!!」
憂龍様の焦った声。それでも、憂龍様は煌月殿下のお考えを知っていたようだ。
「確かに、どこで誰に聞かれているか分からない。だが、先の一件で私の正妃の座を争う戦いは幕を開けたのだ。それに、言葉にしなければ雪花はいつまで経っても私に心を開いてはくれないだろう?」
どうなんだ? と言わんばかりに向けられる煌月殿下からの視線。
「っ……!?」
わたくしは言葉に詰まって何も言えない。
もし、煌月殿下がわたくしを本当に皇后に添えようとされているなら、目立たず、騒ぎを起こさず静かに暮らすことを目標に掲げているわたくしとは正反対の行いだ。とは言え、今回の出来事で既に騒ぎを起こしてしまっているので、目標からは一歩遠ざかっているのだけれど。
「私はこの国を治めるに当たり、雪花に側で支えて欲しいのだ」
煌月殿下の真剣な瞳が本気だと伝えてくる。
「で、ですが冬家の者が皇后になったのは初代皇帝の頃だけとお聞きしています。しかも、冬家の者はどんなに努力をしても精々“貴妃”止だとお聞きしました。代々“妃”の位を多く賜っている冬家のわたくしに皇后など務まるわけが御座いません」
自分で話していて虚しくなる。わたくしの実家の勢力の弱さを痛感した。
「雪花、家門は関係ない。私はそなたを気に入っているのだ」
「煌月殿下……」
優しい瞳で見つめられてじんわりと体が火照ってくる。
煌月殿下は、わたくしを選ばれるというの……?
「それと、そなたが気にしている初代皇帝の代以外で冬家の者が皇后に選ばれていない件だが、呪いのせいだと言われている」
「呪い?」
呪いだなんて、そんな迷信のようなことを煌月殿下が仰るなんて……と戸惑った。それと同時に言いしれぬ不安で自然と肩に力が入る。
そして殿下は昔話を聞かせて下さった。