79 万姫の戸惑い
「ちょっ!? どういうことですの?」
わたくしは煌月殿下と静芳を交互に見る。すると、殿下がわたくしの問に答える。
「万姫、北の離れに入る前と後では、そなたの生活に違いがあるのだ」
「え?」
殿下のお言葉にわたくしは記憶を辿る。北の離れに入る前ということは、今と違う何かがそれ以前にはあったことになる。
皇后陛下とのお茶会は無くなりましたわね。それまでは月に1度、夏の宴が近づいてからは毎週のように相談や打ち合わせで、皇后宮を訪ねていましたもの。
それもあの件以降はパタリとなくなり、久しぶりに皇后陛下とお顔を合わせたのは夏の宴の食事の席だった。それでも、皇后陛下はわたくしとお話どころか、目を合わせることすらありませんでしたけれど。
その他に何かあったかしら? と、考える。そうして、皇后陛下といえば……と思い出す。
「……お食事の前の、……薬膳茶?」
呟くと殿下が「そうだ」と言わんばかりに口の両端を上げた。
「まさか……」
でも、土産として宮を去る時にまで持たされていた程、皇后陛下が気に入っていたお茶だ。それなのに、わたくしあれからずっとあの薬膳茶を飲んでいないわ。
だとすると、わたくしはずっと得体の知れない“何か”を薬膳茶で盛られていたことになる。
いつから? 確か、初めてあのお茶を勧められたのは、春の宴の頃だった筈。
初めは皇后陛下とお会いした時に出されただけだった。それがお土産として持たされるようになって、感想まで求められてしまい、美味しくもないのに飲まざるを得なくなってしまったのよね。
それ程までに長い間、わたくしは一体何を飲んでいましたの……?
ゾッと背筋に何かが這うような感覚が走る。
「今、その薬膳茶は薬師に預けて中身を調べさせている。もう少しすれば結論が出るだろう。命に関わるような毒物の類で無いことは先にハッキリしているから、そう不安になる必要はない」
「そ、そうなのですわね……」
その一言にホッと息を吐くと、煌月殿下が椅子から立ち上がった。
「そなたが本来の自分を取り戻しつつあることも分かった所で、私はそろそろ失礼するよ。護衛の件、雪花にも説明しなくてはいけないからな」
煌月殿下が雪花様の元へ行かれる。そう認識した途端、また胸がキュッと締め付けられた。
「……分かりましたわ。本日はわざわざお越し頂き、ありがとうございました」
わたくしも立ち上がる。
「万姫、今は辛いだろうが、いずれ必ず良いことがやってくる。もう暫く耐えてくれ」
そう言って、煌月殿下がわたくしに花を手渡す。
それは鮮やかな紫みがかった青色の花。よく見ると、カキツバタだった。
確か花言葉は……“高貴”、“思慕”、“幸せは必ず来る”だったかしら? …………もしかしてこれは、そういう意味を込めて贈ってくださったもの?
そう考えて、思わずクスリと笑う。
「……。わたくし、煌月殿下がこんなに情緒的な方だとは知りませんでしたわ」
「そうか? でも、そなたに花を贈るのは初めてだからな。無理もない」
「いつも何か贈ってくださる時は、決まって鮮やかな柄が施された生地ですものね」
と言っても贈って下さったのは、まだ二回だけ。三回目の贈り物が花になるとは。
「ふむ。今度からそなたにも花を持ってこよう」
「……? わたくしの他にも花を贈っているお方が?」
“そなたにも”という言い方が気になって尋ねると、「あぁ、雪花にな」と返ってくる。
「彼女には毎回花を贈っている」
「毎回……」
それは、雪花様の元を尋ねる度に花を贈っているということかしら?
少し考えを巡らせていると、わたくしが難しい顔をしていたのか殿下が「万姫?」と確かめるように名前を呼ぶ。
「あ、いえ。何でもありませんわ」
そうは答えたものの、ずっともやもやしている胸中は中々晴れない。だけど、わたくしはこの気持ちを表す言葉を知らない。一体、どうしてしまったのかしら? と戸惑う。
「万姫、無理にとは言わないが、私はそなたに雪花と仲良くして欲しいと思っている」
そのお言葉に「え……?」と、小さく声が漏れる。
「わたくしが雪花様と仲良く? それは無理なお話ですわ。わたくしは夏家の娘で雪花様は冬家の娘ですのよ? わたくしたちが相容れないことは、殿下がよくお分かりではありませんの?」
「だが、今のそなたは実家から良く思われていない。違うか?」
「それは……」
わたくしが北の離れに入った経緯は、皇后陛下から夏家へ伝えられている筈だ。だからあの日以来、実家からわたくし宛に文が届くことはない。
静芳が何度かわたくしが反省している旨を書き綴って送ったようだが、一通も返事は届いていなかった。その沈黙が何よりの証だった。
だけど不思議なことに、夏の宴にわたくしが出席出来ないかもしれない話が上がると、本家から王宮にわたくしを参加させるように、連絡が届いたようだった。恐らくは4大家門のうち夏家のお妃候補だけ欠席するのは、体裁が悪いからだろう。
わたくしは今まで両親から夏家のお妃候補に選ばれて、皇后になることを望まれて育てられて来た。大長公主である祖母の恥にならぬ様に、様々な知識を叩き込まれた。勿論、その中には初代皇貴妃様のお話も含まれていた。冬家は憎むべき一族だと教えられて育ったわたくしにとって、それは常識にも等しい内容だ。
だから、例えわたくしが実家から見放されたとしても、その常識を捨てることなんて出来ない。だって、わたくしはこれまでの人生でずっと冬家を憎んで生きてきたんですもの。変えられる筈がありませんわ。
「直ぐに答えを出さなくて良い。だから、考えておいてくれ」
そっとわたくしの頭に手を乗せた殿下。
ちらりと見上げると、にこりと微笑んだ殿下が歩き出す。次第に殿下とわたくしの距離が離れていく。
パタリと締まった扉を見つめて、わたくしは頭に残る殿下の手の感触を確かめるように、そっと頭に触れた。
「……っ、何ですの……」
じんわりと熱を帯びる頬を認識して、わたくしはこの感情に戸惑うばかりだった。