76 不安な心
皇后陛下の密かな企てにより、話の場がお開きになったことで、万姫様自身に関するお話を聞くことは出来なかった。万姫様が計画を漏らしたことが皇后陛下の知る所になれば、彼女の身に危険が及ぶ可能性があるからだ。
それにしても、わたくしが皇后陛下に狙われているだなんて……
後宮入りした以上、面倒なことに巻き込まれることは覚悟していた。けれど、皇后陛下に目を付けられるなんて思ってもみなかった。
わたくしを後宮から排除する。それは追い出すという意味かしら? それとも…………
「雪花様?」
考えの途中で名前を呼ばれて、ハッとする。
「先ほどから箸が進んでいないようですが、大丈夫ですか?」
明霞が心配そうに尋ねてくる。言われて膳を見ると殆ど減っていない。
「少し考え事をしていただけよ」
答えて無理にでも夕食を口の中に押し込む。
あれから天佑様は戻って来ていないし、今日はまだ煌月殿下は冬宮へいらしていない。恐らく話が立て込んでいるのでしょう。
もしかすると、煌月殿下は今日は冬宮へいらっしゃらないかも知れない。そうなれば、わたくしが後宮に来てから殿下が冬宮を訪れなかったのは、王宮を留守にされた時以外では初めてのことだ。そう考えつくと、途端に心細くなる。
不安を抱えているから、余計にそう感じたのだろう。
わたくしは堪らなく煌月殿下に会いたくなった。
*****
食欲が落ちてしまったようで、わたくしは夕食を少し残してしまった。
すっかり暗くなった部屋を蝋燭の火が照らしている。いつもと変わらない明るさの筈なのに、今日は部屋の中がいつもより暗く感じる。
もう眠ってしまおうかしら? と考えていると、美玲がパタパタと部屋に入って来た。
「雪花様、煌月殿下がいらっしゃいました」
その声にわたくしはパッと立ち上がる。部屋の入口に天佑様や憂龍様を従えた煌月殿下の姿が見えた。途端、わたくしの足は駆け出していた。
「煌月殿下っ!」
「っ!? 雪花?」
わたくしは彼の胸に飛び込んで、不安を掻き消すようにキュッと抱き締める。「如何したのだ?」と尋ねてくる煌月殿下。だけど、今のわたくしは答える余裕が無かった。
不安で堪らなくて誰かの温もりを感じたくて、幼子の様な行動に出てしまった。そんなわたくしの背中にそっと殿下の手が回される。
「そなたを随分と不安にさせてしまったようだな。……もう、大丈夫だ。私が付いている」
その言葉に、わたくしは殿下の腕の中でコクリと頷く。
「今後の対応を話し合って、取り急ぎ色々と決めてきた。聞き取りの必要があったので、先に万姫の元を訪ねていたのだ。来るのが遅れてすまなかったな」
「……来て頂けただけて、嬉しいです」
「では、そなたが落ち着いたら話をしよう。それまでは、ずっとこのままだ」
殿下がそっと片方の手でわたくしの頭を撫でてくる。
「不安で一杯のそなたには悪いが、私は雪花から抱き締めてくれたことがとても嬉しい。たまには大胆な雪花も悪くないな」
思わず、「え……」と声が漏れる。今の煌月殿下のお言葉で、わたくしの頭が冷静さを取り戻して行く。
わたくし、煌月殿下がいらっしゃって早々に自分から殿下の胸に……!?
ハッ! と気が付いて、直ぐに煌月殿下から離れるために身を引こうとした。けれど思いの外、彼の抱き締める力が強くてそれは叶わなかった。仕方なく顔を上げると、煌月殿下と目が合う。
「…………もう、良いのか?」
「え、ええと、……そのっ……。わたくしったら、はしたないことを……!」
自覚した途端に顔が熱くなる。
「私はもう少しこのままでも構わないが。雪花は離れてしまって良いのか?」
「っ! わ、わたくしは……!!」
そんな風にわたくしに委ねるなんて! ズルいですっ!!
そう心の中で抗議していると、わざとらしい咳払いが部屋に響く。
「殿下、以前も申し上げたと思いますが、あまり雪花様をからかいすぎると嫌われてしまいますよ?」
「憂龍、……そなたは少し空気を読むことを覚えたらどうだ?」
「殿下こそ、この時間になってまで冬宮を訪ねた理由を思い出してください」
そう言われて、煌月殿下は「ふむ」と顎に手を当てると、惚けるように首をかしげた。
「冬宮を訪れるのは日課だからな。いつものことだが?」
「なるほど。そうきますか」
ピキッと音をたてて憂龍様のおでこにに青筋が出来た気がした。煌月殿下と憂龍様は、お互い静かに睨み合っているが、両者の間にはバチバチと火花が散っているようだ。
「あ、あの、……煌月殿下は大事なお話しがあるのですよね? わたくしは大丈夫ですから」
「流石は雪花様。ご理解が早くて助かります」
憂龍様がにこりと笑みを浮かべた。それは恐らく、わたくしを味方に付けたことに対する笑みだったのだろう。
「……雪花には敵わないな」
煌月殿下はフッと笑うと、漸くわたくしを開放した。
「では、少し真面目な話をしようか」
「はい、煌月殿下」
頷いたわたくしは煌月殿下を机に案内すると、彼と向かい合って座った。