67 遭遇
ついに夏の宴、初日がやって来た。
王宮に商人たちを呼び寄せる出店は市場と呼んでも差し支えない程に大規模なものだ。東宮の後宮では一番大きな庭である明来庭園は勿論のこと、王宮内の後宮で一番広い朝来庭園にも店が所狭しと並んでいる。その他の庭園にも出店は並んでおり、昨日の準備中の段階から沢山の商人たちが女官や宮女、宦官などを相手に早く商売を始めたくてウズウズしているようだった。
わたくしも香麗様や梨紅様と出店を周るのを楽しみにしている。だけど、その前にわたくしたち妃嬪は毎年恒例の避暑を目的とした水辺での食事の席がある。これこそが本来の夏の宴。だからこそ今日は朝から着飾る準備に追われていた。
今日の宴は数日前に北の離れから出てこられた万姫様も参加する予定だ。
家臣たちの反対にあったらしく、一時参加を危ぶまれていたが、そこは夏家。離れでの生活で十分に罰は受けたのだから、正式な沙汰が出ていない以上、皇后陛下や煌月殿下のご意思を尊重すべきだと、本家の遣いが王宮へ抗議したらしい。これは若汐が夏宮の宮女から教えてもらったことだから、ほぼ間違いないでしょう。
あれから万姫様は夏宮に閉じ籠もっていたようで、一切お姿を見なかったから、今日は久しぶりにお会いすることになる。意識しているわたくしは、彼女に会うことに対して不安を抱いていた。
未だに書面ですら謝罪がないことも気になるし、目が合った瞬間、無視されてしまうのではないかなど色々考えてしまう。それに今日の宴は王宮に住まう妃嬪や王族は全員参加となるため、煌運殿下もいらっしゃる。
雪欄様の妃宮へ向うときは、バッタリ煌運殿下に遭遇することがないよう、鈴莉たちが配慮してくれていた。そのお陰であれ以来、煌運殿下にお会いすることなく過ごせているけれど、今日はそういう訳にいかない。
数日前、香麗様に『まだ起こるかも分からないことに不安を覚えるより、今は楽しいことを考えませんか?』などと言っておきながら、わたくしがこの調子とは。人のことをとやかく言えませんわね。と思わずため息が出る。
「雪花様? どうかされましたか?」
わたくしに化粧を施しながら、美玲が尋ねてくる。
「なにかお悩みですか? もしかして、万姫様のことでしょうか?」
わたくしの後ろから、髪を弄ってくれている明霞の声がした。
流石は明霞。痛いところを付いてきますわ。明霞は本当によく気が付く子だと、感動すら覚える。
「まぁ、……そんなところかしら」
わたくしは曖昧に答える。「何でもないわ」と強がることも出来たけれど、きっと彼女たちは隠されることを望んではいない。だから、敢えて否定はしなかった。
「何かあれば、今度は私が盾になります。雪花様には私たちが付いておりますから」
美玲が言うと「あと、天佑様もおりますよ」と側でわたくしの準備を見守っていた鈴莉が付け足す。
「ですから、安心して宴を楽しんで下さい」
笑い掛けてくれた鈴莉に「えぇ」と笑顔で頷いた。
*****
天佑様のお迎えを待って、わたくしは宴の会場がある王宮側の後宮へと向かった。
今回の会場は春の宴とは違って手狭の為、宦官は2名、各宮の女官や宮女は4名までと限定されていた。冬宮は天佑様と鈴莉、美玲、それから宮女の雹華と明明の5名で出席することにした。麗麗、蘭蘭には留守中の冬宮と宮女たちの取り纏めを頼んだ。
天佑様の案内で辿り着いたのは、美しい池の畔に建てられた大きな東屋だ。その側には小さな川もあって、水の流れる音が涼を呼んでいるような場所だった。
ここへ初めて来たわたくしは、キョロキョロ見回して綺麗な風景を楽しむ。
「素敵な場所ですわね」
後宮にこの様な場所があったなんて……
「雪花様?」
聞き覚えのある声に呼ばれて、ドキッとする。この声は……と、確信に近いものを抱えてわたくしは振り返った。
「っ、煌運殿下。…………お久しぶりでございます」
「やっぱり! 雪花様だ!」
何とか挨拶を口にしたわたくしを見て、パアッと顔を輝かせて近付いてくる煌運殿下。わたくしが後ずさるのとほぼ同時に、天佑様と美玲がそれ以上近づけないようにわたくしの前に出る。鈴莉と雹華たちはわたくしに寄り添って周りを固めてくれた。
「……そんなに警戒されると、流石に私も傷付きます」
へらっと、笑う殿下に天佑様が口を開く。
「煌運殿下、恐れながらそれ以上雪花様に近づかれるのはご遠慮ください。煌月殿下より、煌運殿下を雪花様のお傍に近付けることがないよう、申し使っております」
「兄上が……」
呟いた煌運殿下。その後ろから「おや? これは煌運殿下ではありませんか。その様な場所で立ち尽くされて何かありましたか?」と雪欄様の声がする。
「煌運の兄上様! こんにちは!!」
「やぁ秀鈴、こんにちは」
元気な声の秀鈴様が手を振って可愛らしくご挨拶すると、煌運殿下も手を振り返す。そして秀鈴様の視線がわたくしを捉えた。瞬間、大きく目を見開いた彼女の瞳がキラリと輝く。
「雪花ぁ!!」
それまで雪欄様と繋いでいた手をパッと離して、煌運殿下や天佑様たちの横を通り過ぎると、秀鈴様がわたくしに抱きついてくる。
「これ、秀鈴! 走ってはならぬと申したでしょう」
そんな雪欄様の忠告は聞こえていないようで、秀鈴様は嬉しそうな瞳をわたくしに向ける。
「聞いてください! わたくしもうすぐお姉さんになります!!」
「えぇ、存じていますよ」
煌運殿下と話の途中で秀鈴様がいらしたことで、それまでどこか張り詰めていた場の空気が変わる。
間が良いような悪いような秀鈴様の登場に、わたくしは困りましたわ……と言う思いで雪欄様を見た。
そんなわたくしに秀鈴様が「雪花?」と不思議そうに首を傾げる。雪欄様はわたくしと煌運殿下を見て、一目で状況を理解されたらしい。
「煌運殿下、殿下のお席はもっとあちらの方ですよ?」
分かりきっていることを敢えて雪欄様が手で指し示す。それを見た煌運殿下がフッと息を吐く。
「はい。ありがとうございます。雪欄様」
彼女に笑みを浮かべた後、煌運殿下がわたくしを見る。
「今日は年に一度の夏の宴です。面倒を起こせば、父上に叱られてしまいます。ですから、今日のところは雪花様とお話するのは控えておきます」
そう言うと、煌運殿下は案外大人しく引き下がってご自分の席の方へ移動された。
その事にホッと息を付くと、雪欄様がゆっくりとした動作でわたくしの傍にやって来る。
「秀鈴がすまなかったな」
「いえ……」
「このお腹では移動に時間がかかる故、早めに来たのだが、まさかもう煌運殿下がお越しだとは……」
小声で雪欄様が仰る。確かに、皇帝陛下や皇子殿下は大抵の場合、宴が始まる少し前にいらっしゃるのが普通だった。わたくし自身、他のお妃候補達より早く煌運殿下がいらっしゃるとは思ってもみなかった。
「そなたのためにもう少し早く来るべきだったか……」
「雪欄様、ご心配頂きありがとうございます。わたくしには天佑様たちが付いておりますから、大丈夫です。どうか今はご自身とお腹の子を優先して下さい」
雪欄様はあと数週間後に出産を控えている。彼女に余計な心配をかけるわけにはいかない。
「母上? 雪花? どうされたのですか?」
秀鈴様がわたくしたちを交互に見る。
「何でもないぞ。それよりも秀鈴、そろそろ雪花のことは“雪花様”と呼ぶように」
雪欄様が注意なさると、秀鈴様の可愛らしい眉がハの字に寄った。
「雪花では駄目なのですか?」
「うむ。わたくしを真似て“雪花”と呼び捨てていたのはわかる。そなたは幼い故、わたくしも雪花も今まで甘やかしてしまっていたが、雪花はそなたの兄上、煌月殿下のお妃候補だ。故に、お互いに敬意をもって接しなくてはならないのです。もうすぐお姉さんになる秀鈴であれば、簡単なことですよね?」
秀鈴様もいつかは王宮を出て降嫁なさる日が来る。雪欄様はお二人目の出産を期に、秀鈴様へそういった教育を始めるつもりなのかも知れませんね。
少し黙り込んで考えを巡らせていた秀鈴様がパッと顔を上げる。
「分かりました! わたくし、お姉さんになる為に頑張ります!!」
“お姉さん”という言葉が気に入っているらしく、秀鈴様はきらきらした表情でそう宣言された。