66 静芳の証言
雪花様に手を振り上げた後のことは良く覚えていない。煌月殿下が遣わせてくださった宮女の可晴がわたくしの腕を掴んでいて、事は未遂に終わったようだった。けれど、“皇后陛下に報告する”と言った女官の言葉にわたくしは酷く動揺した。
逃げるように部屋を出て、走って夏宮に帰り着くと、留守を任せていた宮女達が驚いた様子で出迎えた。
『万姫様!? そんなに慌ててどうなさいました?』
『顔色が良くないようです!』
『一先ず、お水を!』
そう言って差し出された器。だけど、わたくしはそれをパシッと手で弾いた。器の割れる音とともに水が床に飛び散る。『きゃっ!』と驚いた宮女たちの悲鳴が響いた。
『万姫様っ!!』
万姫を追いかけてきた静芳達が追い付いてきた。
『もう、……おしまいですわっ!! あれ程、頑張ってきたのに!!』
そう叫べば、ガタガタと体が震えた。
この事は直ぐに煌月殿下のお耳にも入るだろう。皇后陛下に泣きついたとしても、目撃者が余りにも多すぎてわたくしを庇うことはできない。
わたくしは夏宮を……後宮を追い出される。そして、わたくしの代わりに夏家の別の誰かがお妃候補として後宮入りするだろう。
後宮からの出戻りだなんて、恥も良いところだ。夏家中がわたくしを白い目で見ることになる。きっとお父様にもお母様にも失望されるに違いない。大長公主のお祖母様からは、相手にすらしてもらえなくなるだろう。一族からずっと馬鹿にされ、蔑まれるに違いない。
未来の皇后どころか、夏家に居場所があるかすら怪しい。そんな現実にわたくしは頭から血の気が引いていく。
どうして感情を抑えられなかったの? 今までだって、我慢ならないことは沢山あった。けれど、上手く乗り越えてきましたのに!!
その時、ガバッと後ろから誰かに抱き締められた。
『万姫様! 落ち着いてくださいませ!!』
『静芳……』
『万姫様には静芳が付いております! 万姫様がどの様な境遇に身を置かれても、この静芳がずっとお側におりますから!』
その言葉にじわりと目元に涙が滲む。
ずっと、辛かった。大長公主であるお祖母様や両親の期待を背負い、お妃候補になるために夏家での競争に打ち勝ち、後宮に入ってからも皇后になることだけを考えて過ごしてきた。
もう、疲れてしまいましたわ……
こうなれば、なるようにしかならない。どの道、騒ぎを起こしてしまった以上、皇后の座など望めない。お妃になれるかすら怪しいわたくしには、もう何も残らない。そう認識した途端、はらはらと涙が零れ落ちていく。
『静芳、ありがとう。……わたくしには貴女だけだわ』
キュッと抱きしめてくれている静芳の腕を握る。
わたくしが落ち着くまで、静芳は抱きしめてくれた。
それから随分経ってから、煌月殿下が夏宮を訪れた。お付の宦官である憂龍様が何か言っていたけれど、殆ど覚えていない。そうしてわたくしは促されるがまま彼らの後をついて行って、北の離れへ入った。
*****
「静芳、これから私が尋ねることに嘘偽りなく答えて下さい」
夏宮の筆頭女官である静芳は、煌月殿下付きの宦官である憂龍と殿下が夏宮に遣わせてくださった宦官の3名に囲まれて、聞き取り調査を受けていた。
憂龍様からの質問内容は多岐に渡った。
いつからか万姫様にお仕えしているかや、万姫様と私の関係は良好だったか? 夏宮で働いている女官や宮女の様子はどうか? など、今回騒ぎになっている件とは直接関係がないような質問も含まれていた。
「最近の万姫様の様子で気になる点はありませんでしたか?」
「……特段変化はありませんが、最近は些細なことで癇癪を起こされることが増えていたと思います。それから、少し情緒が不安定になることも……」
答えながら、あの日泣いておられた万姫様を思い出して胸が締め付けられた。
「夏頃から皇后陛下の宮へ出入りする回数が増えたとお聞きしましたが、皇后陛下と万姫様はどの様なお話をされていましたか?」
「主に夏の宴の準備についての相談でした。最初の方は……雪花様と煌運殿下のお話をされていました」
「どの様な内容か詳しく教えて頂けますか?」
「煌運殿下が雪花様をお慕いしている件に関してです。……ですが、途中で皇后陛下が人払いをされて、私たちは部屋から完全に追い出されました。その間のやり取りは万姫様と皇后陛下しかご存知ありません」
憂龍様が夏宮に出入りしている宦官に目配せをすると、同意するように彼が頷いた。
「では、皇后陛下と会っておられた時の万姫様のご様子はどうでしたか?」
「普段とあまり変わりないと思います」
「そうですか……」
けれど、ふと気付いた事があって「あっ」と声が漏れる。
「何か気になることでも?」
「…………その、関係があるかは分かりませんが、皇后陛下とお会いした後の万姫様は決まって気が立っておられることが多かったような気がします。……といっても、皇后陛下とお会いしていない時でもその様なことが多々ありましたので、あまり関係ないと思いますが……」
「言われてみれば、そうだったかも知れません。些細な事で宮女に声を荒げられることが多かったような気がします」
私の意見に宦官が同調する。それを聞いて「なるほど」と呟く憂龍様。
「万姫様が声を荒げられる様なことがあった時の様子を詳しく教えてもらえますか? 例えば、その前後で何かされていませんでしたか?」
言われて考える。朝起きた時の万姫様は至って普段通りだけれど、最近の万姫様は日中に段々とご機嫌が悪くなっている印象があった。
皇后陛下の所へ行った日の夜なんて、特にその傾向にあったような……? そう考えると、皇后陛下とお会いした日はいつも以上に機嫌が悪かった気がする。
皇后陛下とお話しなければならないことに対して気を揉んでおられたのかしら? だけど、その前後で特別何かをなさっていたわけではないし……
いつものように皇后陛下とのご相談中はお茶やお茶菓子を楽しまれていた。と言っても、最近の皇后陛下は健康のために薬膳茶にハマっておられるようで、万姫様も同じ物を出されていた。
独特の味や匂いがするそれは、決して万姫様の好みではない。けれど、皇后陛下から出されては断ることも出来なかったから、渋々飲んでおられた。
「特に無いと思います。あえて言うのであれば、最近は皇后宮に伺うと薬膳茶が出されまして、万姫様はどちらかと言うと苦手なそのお茶を頑張って飲んでおられたぐらいでしょうか」
「薬膳茶ですか。皇后陛下は万姫様のご健康も心配されていたということですか?」
「おそらくは。皇后陛下が夏宮でも飲めるようにと、それをお土産に持たせて下さったぐらいでしたから」
答えると、「なるほど」と呟いた憂龍様が顎に手を当てて考えを巡らせるような仕草を見せた。
「……ここだけの話しですが、皇后宮へお訪ねする度に下さるものですから、薬膳茶が溜まってしまいまして。独特の香りがしますから、安易に使わないまま纏めて捨てることも出来ず、困っていたのです」
悩みのタネだった薬膳茶の話題に、思わず愚痴が零れてしまう。
「その薬膳茶はその後どうされたのですか?」
「毎日、少しずつ捨てていたのですが、皇后陛下に飲んでから体の調子はどうか? と、感想を聞かれて、当てずっぽうで答えたら、実は飲んでいないのではないかと疑われたことがありまして。それからはお食事の前に万姫様にお出ししていました」
「そうですか。皇后陛下お気に入りの薬膳茶……。どの様な物か気になりますね」
そんなに良いものとは思えないけれど……。と思って、私は苦笑いを浮かべる。
「他に万姫様のご様子で気になったことはありますか?」
「そう言えば、雨乞いの舞の稽古があまり順調ではありませんでした。万姫様は何でも卒なくこなす御方ですから、珍しいと思っていたんです」
「では、万姫様と雪花様の仲について、お二人が揃われるとどんなご様子だったかお聞かせ願えますか?」
その後も憂龍様の質問は続いた。多少都合の悪いことは隠したものの、正直に答えることが主である万姫様の為になると信じた私は、嘘偽りなく全ての質問に答えた。