65 感情の波
夏の宴開催まであと数日という頃、万姫は東宮の北の離れから開放された。離れでの生活は不便な上に実に退屈なものだった。夏宮の女官や宮女たちからは離され、陽当りの悪い部屋で知らない宮女一人と閉じ込められたからだ。
宮女は新人なのか手際も悪いし、如何にも“使えない子”という感じで最初は苛々した。けれど、最終日が近づくに連れて慣れてきたのか、彼女は仕事が早くなった。
食事は朝と夕方の二食がきちんと配膳されたし、布団も思っていたよりは柔らかかった。
偶に宮女に話し相手になってもらって日々を過ごしていると、4日目辺りからわたくしはあまり苛々しなくなっていることに気付いた。そこからは調子が良くて、1人で舞の稽古も行った。と言っても、北の離れは鏡があるわけでもない。そして、宮女は舞のことなど何も知らない素人だから、動きが合っているか確認するすべはなかったけれど、何もしないよりはマシだった。
わたくしは以前までの自分に戻ったような気がして気分が良かった。それくらい気持ちがすっきりしていて、話し相手になってくれた宮女が多少生意気な口を聞いても、笑って流すことが出来た。少し前のわたくしなら癇癪を起こしていた筈ですのに……と、不思議だった。
そうして一週間を耐えて離れを出た今は不思議と心が穏やかだった。
思い返すと、一週間前までのわたくしはずっと苛々しながら過ごしていた様に思う。いつからか? というのは正直覚えていない。けれど、始まりの儀で初めて梨紅様とお会いした日、彼女と言葉を交わした時に言い返すことができなくて、抑えきれないほどの感情が込み上げてきたのを覚えている。
そして、わたくしは始まりの儀で用意されていた食事を皇帝陛下たちと共にした時、つい感情を露わにして問い詰めてしまったのだ。皇后陛下のお陰もあって、大事にはならなかったけれど、あの日のわたくしは完全に悪目立ちをしてしまった。だから宴が終わって夏宮へ戻った時、それまで我慢していた感情を女官や宮女たちの前で爆発させてしまったのだ。
今思うと、物に当ったわたくしを見て宮女たちがとても怖がっていたことを覚えている。特に、雪花様に対抗して新しく夏宮に迎え入れた宮女たちは怯えていた。
あの頃辺りから、わたくしは感情を抑えることが難しくなっていたような気がしますわ。…………いいえ。本当はもう少し前からだったかしら?
急にというより、徐々にそんな風になっていったような気がする。もっと言えば、皇后陛下の元に通うようになってからそれが加速したように思う。
煌月殿下の正妃の座を争うにあたり、梨紅様のこともどうにかしたかったけれど、先に潰しやすそうな雪花様を煌運殿下との関係を利用してどうにかしようと目的を定めた。それを実現する為、わたくしは皇后陛下の元へ通い始めたのだ。勿論、皇后陛下は煌運殿下を皇太子にしたがっているから、そこは上手く話して煌運殿下の評判には傷がつかない方法を提案した。だけど、皇后陛下は首を縦に振らなかった。
代わりに、恐ろしい計画を提示してきた。
『……そのようなこと、本当に出来るのですか? 幾ら皇后陛下とは言え、バレてしまえばひとたまりもありませんわ』
人払いをして打ち明けられた計画は、流石のわたくしも気が引ける内容だった。
『問題ありません。わたくしたちは実行するための準備を行えばよいのです。後のことは、夏家縁の者たちに任せれば良いのです』
なんでもないような表情で語る皇后陛下。そのお姿は少し気味が悪かったが、わたくしたちは直接関わることなく事が終わるという。
正直、あの時のわたくしはどうかしていたと思う。
皇后陛下の計画に協力すると決めてからというもの、日程が近づいている夏の宴の詳細も皇后陛下と相談しながら進めていた。新しいことを始めるにあたって、先ずは皇后陛下が皇帝陛下に王宮へ商人たちを呼び寄せる許可を取るところから始まった。それが通れば宴で食事を行う会場選択、当日の料理内容、それから商人たちを招き入れるための会場選択や御触れの内容など。一週間開催する夏の宴は、期間中に国中から商人を呼び寄せて出店を広げる。やることは多岐に渡った。
……本当に、大丈夫かしら?
そう不安を感じると、夏の宴の後に少ししてから始まる雨乞いの舞の稽古に中々身が入らなかった。少しでも自主練習をして合同稽古に備えなくてはと思うのに、上手く行かない。わたくしはそんな自分自身にも苛々した。
そして合同稽古のあの日。わたくしは指導役となっていた皇后陛下の女官に舞を度々注意された。香麗様も何度も注意されていたけれど、それに比べて雪花様と梨紅様は全然注意されない。
それが気に食わなかった。わたくしが注意されることもそうだったけれど、冬家の雪花様が殆ど注意されなかったことと、梨紅様が女官や宮女たちの視線を集めたことが。
どうしてですの? 皇后陛下の女官なら夏家のわたくしに配慮しても良い筈ですのに! お構い無しに名指しで注意するだなんて! 信じられませんわ!! 後で皇后陛下にこの女官のことをお伝えしなくてはいけませんわね!!
稽古終わりにそんな事を考えながら女官たちから扇子で風を送ってもらっていると、わたくしがポツリと発した言葉に梨紅様と香麗様が反応して揉めてしまった。
お二人共、わたくしの気に障る言葉を並べられるものだから、苛々を抑えるのが大変だった。それを紛らわせるようにわたくしは香麗様にキツめに当ってしまったのだ。
『それよりも、香麗様? きちんと舞の動きを覚えてきて下さいませね? 貴女がきちんと舞えていないから合同稽古が長引きましたのよ?』
『それは……申し訳ありません』
暗くなった香麗様の表情。それを見て、先程わたくしを馬鹿にした仕返しが出来た、と少し胸がスッとした。すると、梨紅様がわたくしに問いかけてくる。
『万姫様こそ、きちんとお稽古されてはりますか? 何度も指摘されとったのは万姫様も同じやと思いますけど?』
全く。この方は何を仰っているのかしら?
『あら、わたくしは今、夏の宴の準備で忙しいのです。皆さまよりも稽古に時間が取れないのですから、指摘されても仕方ありませんわ』
舞の稽古に身が入らなかったことも事実だが、ここに居る誰よりもわたくしは忙しくしていた自信があった。
だからそう答えると、雪花様が低い声で「万姫様」とわたくしを呼ぶ。
『ご自分のことを棚に上げて、香麗様にあの様な発言をされるのは違うと思います』
それを聞いて、わたくしはスッとしたばかりの胸が一気に苛々で埋まっていくのを感じる。
『何ですって?』
キッと鋭い視線で雪花様を睨んだ。けれど彼女は構わず続ける。
『雨乞いの舞は、後宮で行われる大切な儀式の一つです。夏の宴の準備が忙しいからと疎かにして良いものでわありません』
『雪花様は、わたくしに意見なさるの? 貴女、どの立場でわたくしにその様な口を聞いているのか分かっていますか?』
『えぇ。わたくしは同じお妃候補として、万姫様に意見しています』
わたくしが雪花様と同じお妃候補? ご実家が北部の冬家である雪花様と、南部出身で夏家のわたくしが同じですって!? そんな訳がありませんわ!!
険悪な空気を感じたのか、わたくしの後ろに控える女官や宮女が、オロオロしているのが分かった。
ただ1人、静芳だけは違って「万姫様、その辺りでおやめくださいませ」と声をかけてくる。だけど、その時のわたくしは静芳の静止など耳に入ってこなかった。
『同じお妃候補ですって? その前にわたくしは夏家の人間で、雪花様は冬家の人間ですのよ? 冠帝国で最も広い土地を治める夏家と、ちっぽけで作物の育ちにくい土地を治める冬家とでは夏家の方が序列として格上であること、認識なさっていませんの?』
以前にも似たようなことを雪花様に言った覚えがありますわね! 何度も同じことを言わせないでもらいたいですわ!
そう思っていると、雪花様が呆れたような表情を浮かべた。
『万姫様、以前も申しましたけれど、家門は関係ありませんわ。この後宮では、わたくしたちお妃候補の間にまだ序列はありませんもの』
『雪花様の仰る通りですねぇ。わたくしも以前、治める土地の広でお決めになるのは如何なものかとお伝えしたと思いますけど? お忘れですか?』
雪花様に続いて梨紅様まで……!! このお二人は、どれだけわたくしを苛々させれば気が済むの!?
『雪花様も梨紅様も何も分かっていらっしゃらないようですわね!!』
その瞬間、プツリと今までギリギリで耐えていた何かが切れた。わたくしは雪花様めがけて手を振り上げていた。