63 香麗様の憂い事
「香麗様、だいぶ動きに迷いが無くなったと思いますわ! 良い調子です!」
わたくし達が動く度にふわりと衣の裾が踊る。軽やかに手足を動かしながら、わたくしが話しかけると、少し息を乱しながらも香麗様のお顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます! 雪花様のお陰です!」
「このままあと1回通しましょう!」
「えぇ!!」
合同稽古から4日が経った。わたくしは香麗様を冬宮へお招きして、涼しい午前中の間に舞の稽古をご一緒している。梨紅様もお誘いしたけれど、彼女は暑いのが得意ではないらしく、舞に関しては個人で十分稽古を積んでいるからとお断りされた。
確かに合同稽古で見た梨紅様の舞は素晴らしかった。わたくしは彼女を超えるために、そして香麗様は合同稽古で指摘されていた舞の動作を完璧に覚えるために、それぞれ稽古に励んでいた。
*****
「雪花様、舞の稽古にお誘い頂きありがとうございます。わたくしはどうも体を動かすことは苦手なので、本当に助かりました」
稽古終わりに、そのままお茶会を始めたわたくし達。机の向かいに座る香麗様が照れ臭そうにわたくしを見た。
「香麗様のお役に立てたのなら嬉しいです。わたくしは舞が好きなので、どうせなら1人ではなく誰かとご一緒出来ればと思っていたのです」
香麗様をお誘いした理由は他にもある。まずは、煌月殿下とのお約束を守るため。香麗様と距離を縮めて、彼女の悩みを聞き出せれば尚のこと意味のある稽古になると考えた。もう一つは、合同稽古で指導役の女官と万姫様に言われたことを香麗様が気に病んでいないか心配だったからだ。
香麗様は決して稽古を怠っていた訳ではないとわたくしは思っていた。何故なら彼女は刺繍をする時も一生懸命取り組んでいる。何より舞の稽古の時に、最近出来たばかりと思われるタコが扇子を持つ手に出来ていたのを見つけたからだ。
体を動かすことが苦手と言っていたのは本当なのでしょう。
「雪花様は、……あれから大丈夫でしたか?」
“あれから”というのは、合同稽古の後の話だと直ぐに分かった。
「えぇ。勿論、驚きはしましたが、夏宮で宮女をしている可晴のお陰で怪我はしませんでしたから」
「ですが、冬家のことをあれ程言われて、気分を悪くされたのではありませんか?」
その言葉にわたくしは少し視線を下げる。確かに、何かに付けて万姫様は冬家と夏家を比較されては冬家を下に見てこられてきた。けれど、実際のところ冬家は土地も冠帝国の中では一番小さいし、作物が沢山育つわけではない。万姫様の仰ったことは事実でもある。だからと言って気分が良いものではないけれど、わたくしはその後の万姫様の行動に驚いて、色々言われていたことなどすっかり忘れてしまっていた。
「いつものことですから、慣れましたわ」
「そうなのですか?」
わたくしは「えぇ……」と頷きながらも、本当に慣れたのかと言われるとそうではない。やはり生まれ育った北部の土地を悪く言われるのは、居心地の良いものではなかった。
「万姫様はこれからどうなるのでしょう? 昨日一昨日と煌月殿下が春宮へいらした時は、一先ずは北の離れで過ごされると聞きましたけれど、正式な沙汰を出すのは暫く延期になったと仰っていました」
「それはわたくしもお聞きしました。きっと煌月殿下には何かお考えがあるのでしょう」
今のわたくしにはこれ以上のことは言えなかった。殿下が万姫様とその周辺について、憂龍様に頼んで調べている事については、あの日あの場に居たわたくしたちの秘密だからだ。
「雪花様は怖くないのですか? その……一週間経過したら万姫様は夏宮に戻られて、正式な沙汰が出るまでは今で通りです。夏の宴も雨乞いの舞にも参加されます。またあのような事が起きたらと思うと……」
そこまで言うと、香麗様がキュッと唇を引き結ぶ。きっと、あの時の事を思い出しているのでしょう。
「……そうですわね。正直、怖くないと言えば嘘になってしまいそうです」
あの時のことも万姫様の怒ったお顔も、まだわたくしの脳裏に焼き付いている。
「ですが、わたくしたちの傍には女官も宮女もいますし、煌月殿下が遣わせてくださった宦官もいます。いざというときは守ってくださいますから、過度に心配する必要はありませんよ」
にこりと笑いかけると、「そう、ですよね……」と呟いた香麗様が少し安心されたような表情になる。
不安な気持ちを抱えたままだと、舞の稽古にも集中出来ないだろうと考えたわたくしは、このまま彼女を元気付けようと話題を変える。
「香麗様、まだ起こるかも分からないことに不安を覚えるより、今は楽しいことを考えませんか? ほら、もう少しで夏の宴も始まりますし!」
「夏の宴……。そう言えば、ご一緒する約束でしたね」
「えぇ。以前も申しましたけれど、香麗様の故郷で流行っているものを紹介してくださいね。わたくし、西部には一度も行ったことがないので、楽しみなのです」
「まぁ、そうでしたか。……あっ! でしたら、お勧めしたいお茶菓子がありますの。丁度、わたくしの手元にあるお茶菓子なので、明日の舞のお稽古の時に持ってきますね」
話題が明るくなると共に、徐々に香麗様の表情が明るくなっていく。わたくしも香麗様のお勧めのお茶菓子と聞いて、純粋に会話を楽しみ始める。
「良いんですか?」
「えぇ。出店で売られるかは分かりませんが、とっても美味しいので是非。わたくしの好きなお茶菓子なんですけれど、よく永福と一緒に食べた思い出のお茶菓子でもあるんです」
「香麗様の好きなお茶菓子ですか! それは楽しみです。……ところで、永福様と言うのは? 香麗様のご兄弟? それともお友だちですか??」
わたくしは疑問に思ったことを口にした。すると、「あ……」と声を上げた香麗様。
「その、……永福は幼なじみです。彼の家はお祖父様が商いで成功されて、わたくしの家の近所に住んでいたので、幼い頃から良く遊んでいまして」
「まぁ、幼なじみの方ですか! 良いですね! わたくしにはそういった方が居ませんでしたから、羨ましいですわ」
お名前からして男性でしょうか? 香麗様の幼なじみ。どんな方か気になりますわね。
興味が湧いたわたくしは「どういったお方なですか?」と尋ねていた。
「とても、優しい人でした。わたくしを桜家の娘だと知っても、そのまま仲良く遊んでくれて。癖っ毛が原因で苛められていたわたくしを他の子達から庇ってくれたり、薄桜色で苛めの原因だった癖っ毛なこの髪を“可愛い”と褒めてくれたんです。お互いに名前を呼び捨てで呼ぶくらいには、仲良くしていました……」
永福様のことを語る香麗様は優しい眼差しをしていた。それ程、同じ時間を一緒に過ごしてこられたのでしょう。
懐かしむような眼差しに、少し紅潮した頬。寂しさの混じった香麗様の表情はどこか嬉しそうに見える。
「素敵な方ですね」
「えぇ。とても。わたくしには勿体ない人でした」
「……? そんなに素敵な幼なじみでしたら、お友だちとして香麗様に勿体ないなんてことないと思いますわ。寧ろピッタリではありませんか」
自分で言っておきながら、わたくしは「あれ?」と違和感を覚える。“お友だち”よりも、もっとしっくりくる言葉があるような気がして。けれど、それをこの後宮で言葉にすることは少し憚られた。それに永福様のお祖父様が商いで成功されたということは、彼の家は商人の家。つまり、永福様ご自身が商人の可能性があるということ。
わたくしは思い返す。
『それにしても、夏の宴で国中から商人を呼ぶなんて凄いですよね! わたくし、今からとっても楽しみですわ』
『故郷のお店も出店するかもしれないと思うと、楽しみなのです』
以前、刺繍の会で香麗様が仰っていた言葉だ。赤くなったお顔で黙ったままの香麗様。そのご様子にわたくしは「もしかして……」と彼女の顔を覗き込みながら尋ねる。
「今度の行商で永福様が来るかもしれないと、期待されていますか?」
香麗様の目が大きく見開かれる。けれど、それに比例して口元はキュッと強く閉じられた。そんな彼女のお顔はやはり赤い。
少しの間そうやって、頑なに口を閉じていた彼女だったけれど、耐えきれないという様子で言葉を紡がれる。
「あっ、会えないことは分かっています! ですが、夏の宴でも文官や武官向けに後宮の外の庭園にも商人たちは出店する筈ですから、もしかしたら近くに居るかもしれないと思うと、居ても立っても居られないのです」
益々赤くなった香麗様のお顔。だけどその表情は少し歪んでいた。
「香麗様は、永福様のこと────」
きっとお慕いしているのですね。
表情が歪んでいる理由は、煌月殿下以外に好いた男性が居ることを知られたかもしれないと恐れているからだと推測できた。それはこの後宮では弱みになり得る話だ。だけど、それを敢えて言葉にするのは無粋というものでしょう。
「────幼なじみとして、とても大切にされているのですね」
ニコッと笑いかけると、少し驚いた表情の彼女と目が合う。話の流れからして、わたくしは香麗様の気持ちを分かっている筈なのに、どうして問い詰めないのか不思議に思っているに違いない。
「きっと、香麗様が後宮へ上がったこと、永福様もご自慢でしょうね」
わたくしがそう続けると一瞬戸惑いを見せながらも「え、……えぇ!!」と香麗様が頷く。
「わたくし、お父様とお母様は勿論、永福様にも誓いましたの。『必ず幸せになります。後宮へ上がるからには正妃の座を手に入れてみせるから、見守っていてね』と」
それを聞いてハッとする。香麗様が正妃の座を目指すのは、永福様の為なのかもしれないと、わたくしは気付かされた。
「ふふふっ、わたくしの前でそんなことを仰るなんて、宣誓布告ですか?」
くすくす笑うと「あっ」と香麗様が声を上げる。
「えっと、……そんなつもりはありませんでしたが、煌月殿下の正妃の座は雪花様にもお譲りするつもりはありませんから。……結果的にそうなりますわね」
「まぁ!」
どこかすっきりしたお顔の香麗様にわたくしは目を見張る。後宮へ来てから隠してきた気持ちをさらけ出したことで、何か吹っ切れたのかもしれない。
お互いに笑い合いながら、わたくしにはそんな風に思った。