61 万姫様の様子
雨乞いの舞の合同稽古が行われた日の夜。夕食を済ませたわたくしの元に煌月殿下が訪ねてきた。
「雪花!」
部屋に入るなり、煌月殿下はわたくしを見つけると駆け出して抱き締めた。突然のことに「きゃ」と小さく悲鳴を上げるわたくし。だけど構わず、殿下は早口に告げる。
「話は聞いた! 先程、万姫にも会ってきた! そなたに怪我がなくて良かった!!」
「煌月殿下……」
どうやら、わたくしはまた殿下に心配を掛けてしまったようだ。ぎゅっと殿下が強く抱き締めてくる。
「……く、苦しいです」
伝えると気付いた煌月殿下が「すまぬ」と言って、抱き締める力を緩める。それでも離してくれるつもりは無いようで、わたくしは殿下に抱き締められるがままに体を預ける。
「……私はどうすべきか分からなくなってしまった。雪花のことはとても大事だ。だが、万姫のこともまた大事なのだ。そんな万姫が雪花に手を上げようとしたことが信じられぬ。一部の家臣からは、“万姫を夏家へ送り返すべきだ”と言う意見が出た」
苦しそうな声。煌月殿下はお優しいから、万姫様の処罰に迷っておられるのだわ。きっと、こうしてわたくしを抱き締めたまま離して下さらないのは、それのせいもありそうですわね。
「わたくしは大丈夫です。それに、事は未遂で終わりました。万姫様はわたくしに危害を加えてはおりません。夏宮にいる宮女のお陰です。可晴が庇ってくれました。煌月殿下が夏宮に遣わせた宮女です」
「……可晴が」
「はい」
返事をすると煌月殿下がわたくしの顔を覗き込む。
「可晴には、そなたと万姫の仲を取り持つように頼んでいたのだ」
「そうなのですか?」
だから彼女は今回、そして前回とわたくしを助けてくれたのかしら?
「可晴は私の頼みを守ってくれたのだな」
そう呟いた煌月殿下の表情が少しだけ和らぐ。
「そのようですね」
少しして煌月殿下は少し落ち着いたようで、漸くわたくしの体を離してくれた。わたくしたちは机に向かい合って座ると、殿下が万姫様の様子を教えてくれる。
「万姫には一先ず、東宮の北の離れに移ってもらった。……夏宮へ憂龍たちと共に向かったら、彼女は静かに座って待っていたよ。憂龍の説明が終わったあとは、反論することもなく宦官たちの指示に従って、離れへ向かってくれた」
「そう、ですか。……あの、東宮の離れではお食事が1回だなんてことはありませんよね? それと──」
わたくしが言いたいことを察した煌月殿下が「案ずるな」と、わたくしの言葉を遮る。
「雪花の時が異常だったのだ。離れでの生活は一週間。食事もきちんと出るし、宮仕えではないが宮女も1人付けている」
その事にホッとする。わたくしが体験した辛い離れでの生活。とてもではないけれど、万姫様が堪えられるとは思えなかった。
「しかし、万姫はどうしてしまったのだろうか。……少し我が儘で気が強い一面があるのは確かだが、甘え上手な彼女が人に手を上げるなど……」
甘え上手……
どちらかと言えば、演技上手なお方のような気もしますが……と思いながら、わたくしも煌月殿下と同じ様に違和感を覚えていた。
「わたくしも、少し不思議に思うのです。わたくしが後宮に来たばかりの頃と今の万姫様はどこか違う気がしていて」
「違う?」
「えぇ。……何と言うか、感情を抑えることが出来なくなられた様な気がします」
「感情か」と殿下が呟くと、少し間があってから言葉を続けられる。
「確かに、今回の件はカッとなって思わず手が出たのだろう」
「始まりの儀で控室でお妃候補の皆さまとお話ししていた時も似たような印象を受けました。今思えば、あの頃辺りからでしょうか? 万姫様が変わられたように感じたのは」
煌月殿下が顎に手を当てる。どうやら思考を巡らせているようだった。
「少し調べる必要がありそうだな」
呟いた煌月殿下が「憂龍」と呼ぶと、憂龍様が「はっ!」と応える。
「夏宮に付けた宦官たちと協力して、万姫やその周辺を調べてくれ」
「畏まりました」
「くれぐれも内密に頼む」
「心得ております」
「雪花を含めて、ここに居る者も今の話は他言無用で頼む」
「はい」とわたくしは返事をする。
今この部屋にいるのは鈴莉と美玲、蘭蘭、麗麗、それから若汐の5人だ。それぞれ了承すると恭しく頭を垂れる。
「雪花のお陰で頭が冷静になってきたようだ。そなたと話して、私のやるべきことが少し見えてきた」
「煌月殿下のお役に立てたなら良かったです」
お役に立てたことが嬉しくて笑顔を浮かべると、煌月殿下が立ち上がる。
「遅くに押し掛けてすまなかったな」
「いえ、煌月殿下にお会いできて嬉しかったです。それに、わたくしも漸く一安心できました」
未遂だったとは言え、万姫様にぶたれると思ったあの瞬間、体が動かなくなるほどには恐怖を覚えたのは確かだったから。
「今日は慌てていた故に、贈り物の準備が出来ていなくてな。これで我慢してくれ」
何でしょうか? と思っていると、向かい合って座っていた殿下がわたくしの隣に歩み寄って、わたくしの手を掬った。そして流れる様な動作で煌月殿下の唇が私の手の甲へ吸い寄せられる。
温かくて柔らかなその感触に、かぁっと顔に熱が籠もる。真っ赤なわたくしの顔を確認して、悪戯な笑みを浮かべた殿下は「また来る」と一言残して部屋を出ていった。
その日の夜。帰る間際の殿下の表情が頭から離れなかったわたくしが中々寝付けなかったのは言うまでもない。