60 あの時の宮女
「万姫様、お止めください!」
夏宮の宮女が万姫様の手首を的確に掴んで止めていた。
彼女の直ぐ側に居たわたくしと梨紅様は、それぞれの女官や宮女たちに引かれて数歩下がる。わたくしの前には天佑様を先頭に蘭蘭と麗麗が前に出て庇ってくれた。
「何をするのっ!? 宮女は引っ込んでなさい!!」
「いいえ! 万姫様がお引きください!!」
「何ですって!?」
カッ、と赤くなった万姫様を夏宮で仕えている煌月殿下付きの宦官が「万姫様! 落ち着いてください!!」と、後ろから止めに入る。
「冷静になってください。万姫様はもう少しで雪花様に怪我をさせてしまうかもしれないところだったのですよ!?」
宮女が諭すと、万姫様が今の状況を理解したかのか、ハッとするとヘナヘナと床に座り込んだ。
「わ、わたくしは……っ!」
呟いた万姫様に夏宮の筆頭女官が彼女の肩を揺すって声をかけている。
「万姫様、今の行いは皇后陛下へご報告させて頂きます」
指導役だった女官がそう低い声で放つと、万姫様がビクッと肩を揺らす。万姫様は女官が部屋を出て行くのをカタカタと震えながら見つめたあと、勢いよく立ち上がった。そして、「お先に失礼いたしますわ!」とだけ言い残して、逃げるように走り去って行った。
夏宮の女官や宮女たちは「万姫様!」と彼女の名前を呼んで、筆頭女官を先頭にわたくしたちに礼を取ると、バタバタと彼女の後を追いかけて行く。唯一、夏宮の人物でわたくしを庇ってくれた宮女だけが、その場に残った。
それまでの緊張感と、ぶたれるかもしれないという恐怖から開放されたわたくしはホッと息を吐く。
「万姫様ったら、雪花様に謝罪もせんと行ってしまわはりましたね」
そんな梨紅様の呟きの後、天祐様が焦った表情で問いかけてくる。
「雪花様! お怪我はありませんか!?」
わたくしは「えぇ」と頷いた。
「あの宮女が庇ってくれたお陰です」
わたくしが言うと、夏宮の宮女が振り向く。その顔を何処かで見たことがある様な気がして少し考える。ふと、色素の薄い瞳の色が目に止まって、「あっ」と気付いた。彼女は春の宴で后妃様方にご挨拶に行こうとしていたわたくしに、『一緒に行く』と言った万姫様を説き伏せてくれた宮女だった。
「雪花様、並びに梨紅様。万姫様が大変失礼な態度をとってしまい、申し訳ありません! 万姫様に代わって謝罪させてください」
バッと彼女が深く頭を下げる。
「良いのです。顔を上げてください」
わたくしが声をかけると彼女がゆっくり顔を上げた。
「貴女に助けてもらうのはこれで二度目ですね」
告げると「私を知っているのですか?」と驚いた顔で尋ねてくる。
「えぇ。春の宴でわたくしが后妃様方へ一人でご挨拶出来るようにしてくれたのは、貴女だったでしょう?」
言えば、彼女も驚きの表情を見せた。
「覚えて下さっていたのですね」
「あのときは大変助かりましたから。……名前をお伺いしても?」
「可晴と申します」
「可晴、万姫様をお止めしてくれてありがとう」
「いえ。私の務めですから」
「煌月殿下は素晴らしい宮女を万姫様に遣わされたのね」
わたくしが微笑むと可晴が「と、とんでもございません!」と慌てながら顔を赤くする。
「雪花様、話がよう分からしませんのやけど、煌月殿下が遣わされた宮女というのは何ですの??」
わたくしと可晴の会話を聞いていた梨紅様が不思議そうに尋ねてくる。
「あぁ、それはですね、以前わたくしたちお妃候補に煌月殿下が宦官と宮女を遣わせてくださったことがありまして。彼女は夏宮へ配属された宮女の1人のようです」
説明すると梨紅様は少し驚かれていた。どうやら彼女の所には宦官のみが遣わされたらしい。
「今度、煌月殿下にお会いしたらわたくしの宮にも宮女をおねだりしませんと!」と、梨紅様は頬を膨らませた。彼女の可愛らしい一面を見たわたくしは、その新鮮さに思わずクスッと笑う。
「本当に申し訳ありませんでした。私は万姫様の元へ戻らなければなりませんので、これで失礼致します」
可晴はもう一度深々と頭を下げると、万姫様たちの後を追って部屋を出ていった。
「雪花様、梨紅様……大変なことになりましたわね」
万姫様の行動に驚いて、先程まで離れた所で休んでいた香麗様がわたくしたちの側に来る。
「そうですねぇ。未遂とは言え、万姫様があんな事しはるなんて」
「わたくしも、驚きました……」
もうお部屋を出られたけれど、指導役だった皇后陛下の女官は、皇后陛下に報告すると仰っていた。だとすると、わたくしが北の離れに軟禁されたときのように、万姫様にも何らかの措置を取られる筈だ。
「お妃候補として、振る舞いを問われる大事な時期やと言うのに……」
梨紅様の仰る通りだった。万姫様だってそれを分かっている筈なのに、どうしてご自分の評価を落とされるようなことを……? そう言えば、数ヶ月程前から、声を荒げられるようなことが何度かありましたわね。
万姫様は油断ならないお方ではあるけれど、演技のお上手な彼女なら感情を抑えることくらいお得意な筈。
何かあったのかしら?
「わたくしのせいで雪花様が危険な目に……申し訳ありません。万姫様から庇っていただいたのに、わたくし何も出来ませんでしたわ」
香麗様がシュンと肩を落とす。
「香麗様のせいではありません。気にしないで下さい」
わたくしは安心させるように笑顔を作った。けれど、香麗様は申し訳無さそうに眉を寄せるばかりだった。