38 香麗の想い人
桜家の集まりでわたくしがお妃候補に決まった時、お父様とお母様は泣いていた。初陣で逆らった敵国の女や子どもを惨殺したとの噂から“冷酷無慈悲”と呼ばれる皇太子の元へ、一人娘であるわたくしが送られることになったから当然だ。
『お父様、お母様、泣かないでください。後宮へ上がるからには正妃の座を手に入れます。わたくしは必ず幸せになります』
そう宣言をして、それから本家のお屋敷でお妃候補として後宮へ上がる為の教育を受けた。
『永福、話があるの……』
一日の教育を終えたわたくしには夕方に少しだけ自由に出来る時間が与えられていた。実家からも近い本家の近くにある川辺で、家業の手伝いを終えた永福と週に一度こっそり会っている。それは本家で教育を受け始める前からの習慣だった。時の流れとは早いもので、この時は教育を受けてから2ヶ月が過ぎていた。
彼は近所に住む桜家とは縁もゆかりも無い、平凡な青年だった。商いで成功された永福のお祖父様が財を築かれて、広い土地に家を建てた。そこがたまたまわたくしの家の近所だったというわけである。
『どうした?』
何時ものように尋ねる彼はわたくしが何を話し出すのか全く知らない。
お妃候補として後宮へ上がることは、まだ桜家の者しか知らなかった。けれど、そのうち噂となって西部の地域を駆け巡ることでしょう。だからその前に永福には自分の口から伝えたかった。
『わたくしね、煌月殿下のお妃候補になることになったの。後宮へ上がるのよ』
『えっ』と永福の目が驚きで見開かれる。それから目を泳がせて、何か言わなければ、と彼の口がパクパクと動く。
『……それは、おめでとうございます。……流石は香麗様です』
微笑む永福の姿にズキンと心が痛む。
違う。わたくしは貴方からそんな言葉が聞きたかったわけじゃない。感情のままにポロポロと流れ落ちるわたくしの涙を見て永福が『香麗様!?』と慌てふためく。
『わたくしっ、………永福が好きなの』
想いを口にすると永福がハッと息を呑んで、それから静かになる。
『……わたくし達がまだ幼くて、永福がわたくしを“香麗”と呼び捨てにしてくれていたあの頃から、ずっとよ』
『……香、麗…………』
ぎこち無く呼ばれて、少し俯いていた顔を上げる。
『癖っ毛の髪が原因で苛められていたわたくしを貴方は他の子達から庇ってくれた。薄桜色の癖っ毛なこの髪を見て、“可愛い”と褒めてくれたのは永福、……貴方だけ』
キュッと自身の手を握りしめる。
『……本当はこの気持ちは言わないつもりだったの。でも我慢できなくなってしまったわ。……ほら、わたくしって、思ったことや分からないことはすぐ口にしてしまうでしょう?』
告げて、目元を手巾で拭うと永福に微笑みかける。
『わたくしは桜家の娘だから、……わたくしの旦那さまになる方を決めるのはお父様か本家のご当主様のどちらか。……それでも、友人として貴方に会えるならそれでいいと思ってたの。でも後宮に入ったら、そうはいかない。……だからお願いよ。貴方の気持ちを聞かせて』
また溢れてきた涙を目元に浮かべて永福を見つめる。『えっと……』と永福は目を泳がせて困ったように口籠った。
『……本当に、……後宮に?』
『えぇ』と頷く。
『もう会えなくなるの?』
『そうよ』
『いつ、行くの?』
『四ヶ月後よ』
永福は混乱しているようだった。わたくしが後宮に上がる話と、ずっと永福を想っていたことを一気に伝えたのだから無理もない。
そもそもわたくしが永福を想っていても、永福も同じとは限らない。もしかしたら永福には他の想い人がいるかもしれないし、ただの友だちだと思っていたわたくしに急に好きだと伝えられても困るだけかも知れない。そう思うと段々悲しくなってきた。
ただただ、永福を困らせてしまっまたわ……
『永福』と彼の名を呼んでわたくしは立ち上がる。
『困らせてごめんなさい。来週、またここへ来るわ。その時に返事を聞かせてちょうだい。……だけど、貴方にわたくしへの気持ちがないなら来なくていいわ。そうしたら、わたくしはもう二度とここへは来ない。貴方にも、もう二度と会わないから安心して……っ』
それだけ告げて、わたくしは逃げるように走り去った。『香麗様!!』と永福が呼ぶ声がしたけれど、振り返ることはなかった。
一週間後、わたくしは約束の川辺へやって来た。この日までずっと気が気ではなかったわたくしは教育を受け終えると、走ってこの場所までやって来た。
お陰でいつもの時間より、少し早く付いてしまった。
ドキドキと鳴り止まない胸は走って来たからなのか、それとも永福がここへ来てくれるか分からないからなのか、判断が付かなかった。
待っている時間が長く感じる。川辺で三角座りをしながら身を縮めて顔を埋める。その間に息も落ち着いて、ドキドキも少し収まってきた。すると、今度は不安が募っていく。
…………永福は来てくれないかも知れない。
わたくしだけが彼を想っていたのかも知れない。そう思うと、じんわりと目元が潤んでくる。
『香麗!!』
聞き覚えのある声が背中から聞こえてきて、ハッとしたわたくしは顔を上げる。走って来る足音が聞こえた。
永福が…………来てくれた!!
パッと立ち上がって振り返ると、彼は丁度わたくしの目の前まで来ていた。
ハァハァと息を切らす永福。
『永福……』
『……遅くなってごめん』
『いいの。……来てくれてありがとう』
嬉しさで目の周りが熱くなる。
『香麗、あのね……』
そう口にすると、永福が背中に隠していた手をわたくしの前に差し出す。そこには綺麗な花が握られていた。名前も分からない、小さくて可愛らしい薄桃色の花だった。
『これは……?』
『僕もずっと香麗が好きだった!』
『!!』
『この一週間、ずっと考えてた。身分が違うからずっと隠してきたけど、香麗も僕を想ってくれていた事が分かって本当は嬉しかったんだ!! 叶うならずっと君と一緒に居たい。けれど、それは香麗を困らせるだけだから、せめて残り四ヶ月だけでいい。……僕と一緒に居てくれないかな?』
これが永福の答え。“様”付けじゃない、あの頃と同じ呼び方でわたくしを呼んでくれている。
想っていたのはわたくしだけじゃなかった。それがすごく嬉しかった。
『えぇ。勿論よ。わたくしも貴方と一緒に居たい』
答えると永福は笑顔で頷いてくれた。