36 始まりの儀
その後、準備が整い会場へ呼ばれたわたくしたち。少し前まで言い争っていたのが嘘のように、始まりの義はつつがなく終わった。
儀式中、わたくしたちは煌月殿下と共に盃を酌み交わした。まだ数回しか口にしたことがないお酒は少量だったけれど、スッキリとしていて飲みやすい味わいだった。
儀式終了後は、交流を深めることを目的として食事の席が用意されていた。机の上にはどれも祝の時に出される豪華な料理がズラリと並んでいる。
「梨紅様は東部のどの辺りのご出身ですか?」
皇貴妃様が後宮入りを果たしたばかりの梨紅様へ話しかける。
「唐永《タンヨン》です」
「唐永と言えば、閻淵の近くだな?」
「そうです。流石は皇帝陛下でいらっしゃいますねぇ」
「なに、弟の煌雷に閻淵を任せているのでな」
「わたくし、煌雷殿下とは何度かお会いして良うして頂いたんです。わたくしが後宮へ上がる話が出る前は、煌雷殿下が御冗談でご子息の花嫁にと、よう仰ってはりました」
シーンと場が一瞬静まり返る。
煌雷殿下と言えば、一時は皇帝の座を狙っていた野心家だ。皇帝の座を巡る争いに敗れて辺境の地を治めることを任されているのは、4大家門の者なら誰でも知っている事実。それなのに、梨紅様は躊躇なく煌雷殿下と親しいことを口にされた。誰もが次に口を開くことを躊躇う中、「ハハハッ!」と皇帝陛下の笑い声が響く。
「あれは、お世辞も冗談も殆ど言わんぞ。恐らく本気で言ったのだろう。あやつがそう言うのであれば、梨紅は間違いなく良い妃になるだろうな!」
「お褒めに預かり光栄にございます」
梨紅様が微笑む。
一歩間違えれば、皇帝陛下を不機嫌にしかねないやり取りだった。
態となのか、それとも本当にご存じなかったのか……いえ、梨紅様の事です。恐らく前者でしょう。
結果的に梨紅様は皇帝陛下の印象に良い方向で残られたようだ。
「それはそうと梨紅様は昨日後宮へ上がられたのにも関わらず、他のお妃候補へ挨拶をされなかったと聞きましたよ。これはどういうことかしら?」
今まで黙っていた皇后陛下が梨紅様に問いかける。それだけで、后妃様方やわたくしたちお妃候補に緊張が走った。ただ一人、万姫様だけはこの瞬間を待ちわびていたとばかりに口角を上げる。
「明日にはお会いできると分かってましたから、皆様には始まりの儀の前にご挨拶しました」
「それで良いとお思いなのかしら? 後からやってきた者としてきちんと礼儀を尽くすべきですよ。東宮とはいえ、ここは後宮です。品位を落とす様な行動は控えて頂戴」
「皇后陛下、お言葉ですがわたくしは礼儀を軽んじることも、品位を落とすようなことも決して行っとらしません」
「!」
梨紅様の発言にお妃候補は勿論のこと、控えている女官や宦官たちも驚いたようで、場がザワつく。梨紅様は控室で話していた通り、本当に皇后陛下の前でもご自分の意志を通されている。
「挨拶を後回しにする貴女の何処がそうだと?」
苛立ちを滲ませた低めの声で問いかけた皇后陛下。それでも梨紅様は毅然と話を進める。
「わたくしが後宮へ着いたのは丁度お昼です。そこから皇帝陛下と皇后陛下、ほんで煌月殿下へ挨拶をして秋宮に着いた頃には陽が傾いておりました。そないな中で春宮から夏宮、冬宮へ挨拶に向かったら日が暮れてしまいますさかい、それこそご迷惑になるかと思った次第です」
それを聞いた皇帝陛下が「成る程」と頷いた。
「梨紅は他者を想いやれる良きお妃候補だ」
にこにことご機嫌な皇帝陛下。陛下のお言葉で部屋の空気が少し明るくなる。けれど、それを良しとしない人物がいた。
「そんなの! 過ぎた後からでは幾らでも理由を述べられますわ! ただご自分が疲れていたから、ご挨拶されなかったのではありませんの?」
万姫様だ。控室でのことといい、今日の万姫様は何時もより冷静さが無い様子だった。
「万姫」と皇后陛下が万姫様の名を呼んで窘める。
「皇后陛下、良いのです。わたくしは新参者やさかい。どう思われようと仕方あらしませんので」
「おぉ、梨紅は心も広いのだな」
「ハハハッ!!」とまたしても皇帝陛下が機嫌よく笑う。
その様子にわたくしは勿論、香麗様や万姫様も何も言い出せなくなってしまった。
梨紅様はこの食事中の短期間で皇帝陛下に気に入られた。まだ後宮入りしてわずか二日目。わたくしたちは確実に梨紅様に遅れを取った。危ない橋を渡るような展開だったにも関わらず、梨紅様はどれも上手くやり過ごされたのだ。
「母によう言われてました。母の祖父は心優しく民想いの皇弟だったと。ですから、わたくしもご先祖様を見習いたいんです」
「ほう、そなたの母君は王家縁の者だったか」
基本的に王家縁の血筋はそれだけで尊い者として認識される。4大家門の者には珍しくないことだ。けれど、4大家門の中では冬家が1番王家との縁が薄いと言えた。
ここしばらくは公主が降嫁されたという記録はなく、ご先祖様の中に久しくいらっしゃらないからだ。
「陛下、万姫の祖母も大長公主ですよ」
皇后陛下がここぞとばかりに口を挟むと「そうであったな」と皇帝陛下が頷く。
「ご先祖様の血を分けた者を縁に持つお妃候補が二人も私の元へ来てくれたこと、とても光栄です」
煌月殿下がそう口にすると皇帝陛下が頷いた。
「煌月、そなたの代は安泰のようだな」