29 万姫と若汐
早朝、夏宮で身支度を整えていると、バタバタと廊下を掛ける足音が聞こえてきた。
「万姫様!」
勢いよく部屋に入ってきた女官にわたくしは鋭い視線を送る。
「何ですの? はしたない上に朝から騒々しいですわよ。静かにして頂戴」
「も、申し訳ございません!! 急ぎお耳に入れたいことがございまして!!」
息を切らす女官の様子に何かあったのだと察する。わたくしは「はぁ」と溜め息を付いて、身支度が整えられていく自身の姿を鏡で眺めながら「要件は?」と尋ねた。
「若汐が! 冬宮に仕えている宦官に連れて行かれたようです!!」
驚いてパッと彼女に顔を向ける。
「それで?」
「若汐は抵抗している様子だったようで、後宮の宮仕えではない宮女を中心に若汐が何かやらかしたのではないかと、噂になっております」
「貴女は若汐が連れて行かれるところを見たの?」
「いっ、いえっ! 万姫様の朝餉を取りに向かう途中で宮女たちが話しているのを耳にしただけでして……」
声が萎んでいく女官に直ぐ指示を出す。
「直ぐに確かめて頂戴! くれぐれも誰にも気付かれないように!! ですわよ?」
「畏まりました!!」
言うや否や行動に出た女官の背中を見送れば、心に焦りが滲む。
若汐に冬宮を探らせていることがバレたのかしら?
昨日の煌月殿下と香麗様が冬宮を訪ねていたことも若汐から得た情報だった。それ以外にも彼女には冬宮の様子を見張らせて、会話の内容は勿論のこと何か動きがあれば報告させている。
もしも、若汐が何か余計なことを話していたら…………
いいえ。所詮は下級宮女の戯言。わたくしに仕えさせているけれど、夏宮の外では宮仕えではないただの宮女ですもの。何とでもなりますわ。
“このような宮女など知らない”と否定すれば良いだけ。下級宮女とお妃候補であれば、みなわたくしの言葉を信じるに違いありませんもの。丁度、三日後に若汐へ報酬を渡す予定だったけれど、そうなればそれも必要ありませんわね。
「静芳、若汐への報酬は止めて頂戴。それと、若汐と関わりがあると分かるものがあれば全て始末して」
指示を出すと夏宮の筆頭女官であり、わたくしが一番信頼している静芳が「畏まりました」と了承する。直後、静芳は下級女官や宮女たちに指示を出して動き始めた。
*****
「様子はどうですか?」
若汐を部屋に呼び出したわたくしは、鈴莉にお茶を用意してもらって、彼女と向かい合って座っていた。
「……理由は分かりませんが、私がよく話し相手になっていた宮女が東宮の北にある離れの方に連れて行かれているようだと、宦官から聞きました。と言っても、私が特別親しい者はこの後宮にいませんが……」
少し緊張しているのか、若汐は机の上で両手を包み込むように握って視線を俯かせていた。
「万姫様のこと、気になります?」
尋ねれば若汐が表情を強張らせる。
「…………私は昨日、貴女の言った通り、天佑様に無理やり連れて行かれるフリをしました。……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「若汐、口の聞き方に気をつけなさい」
鈴莉が目を細めて若汐を見る。窘められた若汐が不服そうに鈴莉を睨んだ。わたくしが鈴莉を見ると、それに気づいた鈴莉が少しバツが悪そうに黙り込む。そして、わたくしは二人のやり取りには敢えて口を挟まず、先程の若汐の質問に答える。
「そうですわね。最終的にどう事が進むかは、わたくしにも分かりかねます」
答えると若汐がガタッと椅子から立ち上がった。
「なっ! 嘘でしょ!? 貴女が自信満々に私に提案してきたから話に乗ったのよ!!」
「落ち着け! 若汐!!」
天佑様が若汐の肩を掴むと、椅子に座り直すよう促す。
「わたくしと万姫様、そして若汐、それぞれの思惑が絡まって事は進んでいきます。それだけではありません。この件に関わる女官や宮女もそれに含まれます。予想外の出来事が起こることも念頭において置かなければなりません」
告げると、フンッと鼻を鳴らした若汐がフィット顔を背ける。
「雪花様はいいですよね! 結果がどうであれ、貴女は失敗しても何も変わることなくここで暮らしていけるんだから!」
言い終わると、椅子に座り直した若汐は不貞腐れたように言葉を続ける。
「……でも、私は違う。これが失敗したら万姫様からの報酬どころか、噂のせいで後宮に居られなくなるかもしれないのよ」
「それは心配しないで。冬宮の宮女として仕えてもらうと言ったでしょう?」
「はははっ!! どうですかね? 雪花様だって、味方のフリして実は私を騙すつもりってこともあり得ますよね?」
若汐が自嘲するように笑うと、首を傾けながらわたくしを見た。
若汐の心配も最もだわ。この後宮は嘘で溢れている。わたくしだって逆の立場だったら警戒することでしょう。
「……そうですね。結果が出るまではそれで構いません」
告げると不意をつかれたように若汐が目を見開いた。
「っ、……ええ! そうさせてもらいます!」
勢いよく宣言するとゴクゴクとお茶を飲む。
若汐の言葉遣いとわたくしへの態度を見て、鈴莉がギリリと手を強く握って耐えている。他にも美玲や蘭蘭たちが何か言いたげな表情で笑顔を貼り付けていた。先ほどは一度、鈴莉が口を挟んだものの、若汐の多少の言動は見逃すようにとみなには伝えていたから、彼女たちはその場を耐えてくれたのだった。