12 春の風
山々に降り積もっていた雪が溶け始めた頃。春を連れてくるように後宮に一人のお妃候補がやって来た。
「初めまして。本日から春宮に入ることになった桜家の香麗と申します。同じお妃候補として、どうぞよろしくお願いいたします」
冬宮にわざわざご挨拶にいらした香麗様。鈴莉が席に誘導すると、彼女は着席する前に恭しくご挨拶にされた。
「香麗様、初めまして。冬家の雪花と申します。こちらこそよろしくお願いします」
わたくしも一度立ち上がって挨拶すると改めて彼女を見る。
どこかふわりとした話し方に、ふわふわと柔らかそうにうねる薄桜色の髪。わたくしと年はあまり変わらないようだけれど、女のわたくしから見ても彼女はとても愛らしいお妃候補だった。
珍しい髪で思わず視線が釘付けになっていると、彼女が「あっ」と声を上げる。
「わたくし癖っ毛ですの。この髪、変でしょう?」
「あ、いえ!! 変だなんて!! そうではなくて! 可愛らしくて見惚れてしまいました。申し訳ありません」
苦笑いする香麗様に慌てて返す。同性を相手にして見惚れるなんて初めてで恥ずかしくなっていると、香麗様が恥じらうように笑った。
「この髪を褒めて下さったのは、家族以外だと雪花様で三人目です。ありがとうございます」
「……?」
三人目? こんなにも可愛らしい香麗様であれば、もっと周りから褒められて羨ましがられるでしょうに。どういうことでしょう?
不思議に思っていると「あの……雪花様、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」と控え目な香麗様の声がする。
「本来、このようなことを雪花様にお聞きするべきではないとは承知しているのですが、………煌月殿下は、その……、敵国の女や子どもを惨殺しただとか、後宮内では女官や宮女たちに手酷い仕打ちをしていると、噂でお聞きしました。これらは本当のことなのでしょうか?」
「え?」とわたくしは目を丸くして驚く。
桜色の衣を身に着けた香麗様付きの女官が「香麗様っ!」と慌てて止めに入った。
わたくしも煌月殿下の初陣での噂は知っている。けれど“女官や宮女たちに手酷い仕打ちをしている”なんて噂は初めて聞きいた。
「先ほど煌月殿下にお会いしてきました。とても爽やかでお優しい方でした。だから信じられなくて。……ですが、噂が本当だとしたら、優しかった殿下が急に恐ろしく思えたのです」
カタカタと香麗様の肩が小刻みに震えている。よく見れば震えを抑えるように右腕を左手で押さえているようだった。だから「香麗様」となるべく柔らかく名前を呼んで話し出す。
「わたくしも最初は香麗様と同じで、とても緊張しました。煌月殿下が噂通りの方だったら……と。ですが、香麗様も感じられたように煌月殿下はお優しい方です。わたくしは香麗様より数ヶ月先に後宮入りしましたが、殿下が女官や宮女に手酷い仕打ちなどされているところは見たことがありません。所詮、出処不明な噂ということです。香麗様はご自身の目で見たものを信じれば良いのですよ」
「雪花様……」
うるっと彼女の目元が揺れる。
「それと、分かっていらっしゃるとは思いますが、滅多なことはなるべく口にされない方が良いと思います。ここは後宮。何処に耳や目があるとも知れません」
例えば、煌月殿下が密かに付けてくださっている宦官もそうです。護衛は勿論、恐らくですがわたくしたちの様子を殿下にご報告されているのでしょう。きっと殿下のことですから、香麗様にも宦官を付けているでしょうし。
「それに、わたくしが誰かに告げ口してしまうかもとは思われなかったのですか?」
ハッと口を開けた香麗様が目を見開く。
「…………そのようなこと、考えもしませんでした」
その発言に「あらまあ……」と、今度はわたくしがポカンと口を開く。
「申し訳ございません。わたくし、何でも分からないことは口にしてしまうんです。ここへ来る前、父と母にも気を付けるよう注意されたばかりですのに……」
「そ、そうでしたか」
「でも、それを注意してくださるなんて。雪花様ってお優しいのですね」
「えっ?」
「だって、わたくしを騙すつもりであれば、わざわざ教える必要ありませんもの」
にこりと、香麗様が微笑む。彼女はとても純粋な人なんだと、気付かされた。
香麗様の真っ直ぐに人を信じるお心はとても素晴らしい。けれど、この後宮では命取りでもあるように思えた。
香麗様はたぶん、騙されやすい御方だわ。
だからでしょう。香麗様付きの女官がこの部屋に入ってきたときより、少し疲れたお顔をしていらっしゃるわ。
「香麗様は素直で真っ直ぐなお方ですね。初めてお会いしたわたくしのことをそんな風に思ってくだって嬉しいです。わたくし、そんな香麗様が羨ましいです」
叔父様のことがあってから、わたくしにはすぐに人を信じることができないから。
「雪花様……? どうかなさいましたか?」
わたくしが暗い顔をしていたのか、香麗様の可愛らしい眉が顰められる。
「何でもありません」
香麗様の不安を掻き消す為にわたくしはにっこりと笑みを作ると、お茶菓子を勧めた。
*****
冬宮からの帰り。新しい我が家となる春宮を目指して、広い後宮内を歩きながら香麗は考えていた。
────わたくしはどちらの言葉を信じるべきでしょうか。
それは数時間前、冬宮の前に夏宮を訪れたときのこと。
『香麗様、雪花様に騙されてはいけませんわよ? あのお方は冬家の者。初代皇帝陛下の時代に苦楽を共にされた夏家のご先祖様を蔑ろにして、冬家の者が皇后の座に就いたのです!!』
そう語った万姫様は感情的に冬家や雪花様の話をしていた。
後宮において夏家と冬家の仲が悪い話は、4大家門の中ではよく知られた話だった。けれど、地域の境目で争いを起こさないことやお互いの体裁を保つため一般的には伏せられている。
何より、後宮での出来事はうっかり言いふらして良い内容ではない。しかし、桜家では後宮へ上がる前に当主様がこっそり教えてくれた。
万姫様の様子からして、きっと恨みを持っている側の夏家では、幼い頃から聞かされている話だったのでしょう。と香麗は考えた。けれど、万姫様が聞かせてくださった様々なお話が本当だったとしたら、わたくしは雪花様を警戒しないといけない。
でも……と、足を止める。
『香麗様はご自身の目で見たものを信じれば良いのですよ』
雪花様のあの言葉に嘘はない。わたくしがこの目で見た限り、その様に感じた。何よりわたくしのこの髪を褒めてくださった数少ない方。
煌月殿下のことを不安に思っていたのは事実だったけれど、見極めるためとは言え、雪花様を試すような真似をしてしまいました……
少しの罪悪感を抱えていると「香麗様、どうかなさいましたか?」と声がする。
「何でもないです。行きましょう」
付いて来てくれた女官にそう返して、香麗は再び春宮へ歩みを進めた。