4.恥ずかしがらずに言葉にして
月のしずくは、月のつららと呼ばれる鍾乳石のような結晶からしたたり落ちてきます。
時間をかけていつも一つの小瓶に入れるのですが、この度のヘカッテは、その小瓶を二つ持ってきていました。一つは持ち帰るためのものでしたが、もう一つはこの場で使うためのものです。どうしてもヘカッテは、取れたてのしずくでカロンを目覚めさせたかったのです。
あまり賢いことではありません。何故なら、巻き戻しの怪物を追い払ったといってもなお、恐ろしい怪物たちは他にもたくさん迷宮をうろついているからです。それでも、ヘカッテは待ちきれませんでしたし、メンテもまたそんなヘカッテの気持ちに寄り添い、励ましていました。ヘカッテなら大丈夫だと。
ぽとり、ぽとり、と、したたるしずくを二つの小瓶いっぱいに入れて、蓋をすると、片方は大事にしまって、もう片方を手元においたまま、ヘカッテはお腹にくくりつけていた紐を解き、カロンを地面に寝かせました。
ただのぬいぐるみが生き物のようになるその魔法。カロンに与えられた命は、ヘカッテが作り上げたものではありません。カロン自身にもともと宿っていたけれど、生き物でないから目覚めることのなかった魂なのです。
これを読んでいる皆さんも一度は聞いたことがありませんか。ぬいぐるみや人形などのモノにも魂が宿るのだと。だから、大切に扱わなければいけませんよと。それはどうやら本当の話のようです。ヘカッテの魔法は、その魂を目覚めさせるものでした。魔法は解けてしまいましたが、かけなおせば元のカロンの人格が戻って来るはず。
しかし、不安もありました。初めてカロンに魔法をかけて以来、もう何年もの間、カロンは問題なく動いていましたので、この魔法を使うのも久しぶりだったのです。ちゃんと成功するだろうかと不安になりつつも、ヘカッテはひとまず覚えている通りに呪文を唱えました。小さなころに読んだ魔女の教科書通りに、一言一句間違えずに、呪文を唱え、カロンの身体にごくわずかな月のしずくを垂らしました。
そして、最後にヘカッテは、心を込めて命じました。
「さあ、カロン。目を覚まして」
今よりずっと幼い頃のこと、ヘカッテはこの手順でカロンを目覚めさせたのです。あの頃よりもヘカッテは立派になっているはずです。あの頃は出来なかったことがたくさんできるようになりました。体や心が成長した分、魔力も成長したはずです。だから、失敗することなんてあり得ないはずでした。
けれど、どうでしょう。カロンは目を覚ましませんでした。
「え……どうして?」
ヘカッテは焦りつつ、もう一度、同じ呪文を唱えました。月のしずくをさらに垂らして、祈りを込めて唱えます。
「さあ、カロン。目を覚まして!」
しかし、やっぱりカロンは目を覚ましません。
「どうして? 教科書通りのはずだよ。ちゃんと覚えているもん。前はこれでちゃんと成功したんだよ?」
メンテが心配そうに見守る中、ヘカッテはますます不安になってしまいました。
月のしずくさえ手に入れば、魔法さえ使えば、カロンは元通りになると信じていたのです。けれど、カロンが起きる様子はありません。
間違っているはずはないのに、幼い頃には出来た魔法なのに。どうしたら、どうしたら、という焦りは悲しみと不安、そして怒りを生みました。そうしているうちに、ヘカッテは段々と忘れかけていた後悔にさいなまれていったのです。
──ああ、もしも時間が戻せたら。
その時でした。恐ろしい遠吠えと共に迷宮の何処からかより巻き戻しの怪物が姿を現したのです。一度は遠ざかったはずの怪物は、今度こそヘカッテの居場所をはっきりと見つけてしまいました。じわじわとにじり寄って来るその怪物を前に、ヘカッテは絶望してしまいました。
──どうしよう!
恐怖で身が震えたその瞬間、ヘカッテの手元にいたメンテが、光り輝きました。竪琴のような音で奏でる子守歌が、一瞬だけ時を止めます。恐ろしい怪物の動きがぴたりと止められてしまうほど強力な魔術の中で、メンテはヘカッテにとって懐かしくて仕方のないこの子守唄をひとしきり歌い続けました。そして歌が終わると、メンテはヘカッテに優しく語り掛けたのです。
その音を丁寧に聞き取って、ヘカッテは心の中で呟きました。
──恥ずかしがらずに言葉にして?
それは、両親の手紙にあった言葉でした。
ヘカッテが呟いた瞬間、時が再び動き出します。怪物が迫りくる中で、ヘカッテは焦りながらも横たわるカロンに向き合いました。
手紙を読んだ時は何のことかさっぱり分からなかったその言葉。しかし、切羽詰まった状況であっても、今のヘカッテには不思議と何のことなのか理解できた気がしました。
怪物が襲いかかってきていることは今だけ忘れて、ヘカッテは心を込めて唱えました。教科書通りの呪文ではなく、気恥ずかしさで言えなかった心からの言葉を。
「お願い、カロン」
ヘカッテは喧嘩をした時の事を思い出しながら言いました。
「目を覚まして。起きたらちゃんと謝りたいの。カロンが一緒に居ることも、おしゃべり出来ることも、全部当たり前だと思っていたけれど、そうじゃないんだってよく分かった。何気なく一緒に過ごして、何気なくお喋りして、つまらないことで喧嘩をしたり、言い争ったり、叱られたりすることだって、わたしにとっては幸せの一部だったんだって分かったの。だから、カロン。目を覚まして。わたし、まだまだ見習いだから、カロンがいないと困っちゃう。わたしには、これからもカロンが必要なの!」
その途端、カロンの身体がまばゆい光に包まれました。
光はヘカッテの身体を包み、さらにはヘカッテを背後から襲おうとしていた巻き戻しの怪物にまで届きました。そのあまりまぶしい光がつらかったのでしょう。巻き戻しの怪物は悲鳴をあげて後退しました。ヘカッテが振り返ると、怪物はよろけながら逃げ去っていきました。そして、その途中で、せき込むように何かを吐き出したのです。吐き出されたのは埃のような何かで、逃げていく怪物とは反対側へ──つまりヘカッテたちのもとへふわふわとただよってきました。
ヘカッテとメンテが見守る中、埃はそのままカロンの身体へと落ちてきて、すっと中へ吸い込まれていきました。そして、光が治まると、カロンは突然スイッチでも入ったかのようにむくりと起き上がりました。
「カロン!」
ヘカッテがその名を呼ぶと、カロンはバツが悪そうに頭をかきました。
そして、首をぶるぶると振ると、まっすぐヘカッテを見つめながら言いました。
「ああ、ヘカッテ。苦労をかけてしまったらしい」
「大丈夫だよ。あのね、カロン。昨日はごめんなさい。カロンの言う通りにしていればよかった。うるさいなんて言ってごめんね。カロンはやっぱりおしゃべりな方がいい」
ヘカッテはそう言いましたが、カロンはまたしても首を横に振りました。
「いいんだ、ヘカッテ。謝るのは私も同じだ。目を覚ませなくなってから、もう少し、君の気持ちを考えるべきだったと後悔していたのだよ。そうしたら、いつの間にか私は怪物のお腹にいた」
「それってさっきの?」
ヘカッテの問いにカロンは頷きました。
「夢を見ている間に身体から抜け出してしまっていたんだろうね。すまなかったね、ヘカッテ。いつも君に偉そうなことを言っておきながら、今回は君をとても不安にさせてしまったみたいだ」
「いいの」
謝るカロンをヘカッテはぎゅっと抱きしめました。
「また起きてくれたから、それでいいの」
言葉にしてみると、遅れて感情がこみ上げてきて、ヘカッテは静かに涙をこぼしました。泣いているところを見られるのは恥ずかしいと思ってしまう年頃ですが、それでもこらえることは出来なかったのです。そんなヘカッテに黙って抱かれながら、カロンはしばらく言葉を探していました。けれど、結局、気取った言葉は見つからず、仕方なくカロンは今の素直な気持ちを口にしました。
「ありがとう、ヘカッテ」
再会を喜び合うふたりを見守りながら、メンテは優しく歌いました。その歌のおかげでしょうか。迷宮の怪物たちは気配すら見せず、おかげでヘカッテたちは無事にお家まで帰る事が出来たのです。
背中にはリュック、片方の手にはメンテの鳥かご、そしてもう片方の手にぎゅっと握るカロンの手の感触を味わいながら、ヘカッテは静かに思いました。
これでまたいつもの日々が戻って来る。
きっと、これからもカロンとつまらないことで喧嘩をしたり、言い争ったりすることもあるでしょう。口うるささに耳を塞ぎたくなることだってあるでしょう。
けれど、ヘカッテは自分に言い聞かせました。
そんな時は今日の事を思い出そうと。
カロンが動かなくなって、必死になって元に戻した時までの、悲しくて恐ろしかった時間のことを覚えていよう、と。