3.巻き戻しの怪物
迷宮はあらゆる世界に繋がっています。楽しくて居心地の良い夢のような世界もあれば、悲しくて怖い悪夢のような世界もあります。そして、歩む者たちをそれらの世界まで繋ぐ迷宮はというと、非常に美しい場所でした。
光を受けるとステンドグラスのように輝くその場所は、歩いているだけで誰も彼もキラキラとしたおとぎの世界の住人になってしまいます。特にその場所が美しくなるのは夜です。日が沈み、空が暗くなると、自ら発光する植物や鉱石の明かりで、幻想的な世界が出来上がるのです。さらに、青く輝く鍾乳洞からは、月のしずくと呼ばれる神秘的な雫がいつもしたたり落ちていましたので、迷宮の中はひんやりとして、澄み切った空気で満たされていました。
皆さんも、もうお分かりの通り、月のしずくはヘカッテの魔力の源です。メンテの命を繋ぐ栄養でもありますし、魔法薬の材料でもあります。一度に採取できる量は限られていて、そのくせ長持ちするわけではありません。雫には期限があり、あまり放っておくと傷んでしまうのです。絶対に毎日採りに行かねばならないわけではありませんが、行ける時には行っておくのが賢い生き方ではあるのです。それでも、ヘカッテは毎日採りに行くのではなく、何日かに一度は必ずお休みして、迷宮を歩くための準備の日に決めていました。何故なら、この迷宮は綺麗なだけではなく、危険でもあったからです。
何がそんなに危険なのか。それは、ヘカッテたちが迷宮に足を踏み入れてものの数分もしないうちに分かります。多くの旅人たちが歩くだろう道すがら、クマのように体の大きな何者かが不気味な呻き声をあげながらうろついていたのです。
ヘカッテは息を飲みながら、そっとメンテの鳥かごを抱きしめました。こういう時のために、鳥かごにはカーテンが付けられています。
いつもはヘカッテを守る明かりも、こういう時は危険を呼び寄せてしまうのです。お腹に巻き付けているカロンと鳥かごを同時にぎゅっと抱きしめながら、ヘカッテは気配を殺し続けていました。そして、時折、物陰からそのクマのような不気味な生き物を見つめ続けていました。
その生き物こそが、迷宮に怪物です。探し物をしている人の前に現れるモノ探しの怪物、恋をして浮かれている人の前に現れる恋わずらいの怪物、真実を知りたくてしょうがない人の前に現れるまことの怪物。そして、いま、ヘカッテの傍をうろついているのが──。
「……ちゃんと覚えているよ」
ほんの小さな声で、ヘカッテは呟きました。
「あれは巻き戻しの怪物。時計のねじを巻き戻したい人の前に現れるって、図書館の本にそう書いていたって、前にカロンが言っていたの」
鳥かごをぎゅっと抱きしめたまま、ヘカッテはため息を押し殺しました。ため息が出てしまうのは、緊張と恐怖のせいだけではありません。巻き戻しの怪物が現れた理由に、落ち込んでしまうからです。
時計の針を巻き戻せたら。それは、確かに今のヘカッテの悩みでした。今日、こうなることが分かっていたら、昨日はきっとカロンとケンカなんてしなかったでしょう。面倒であっても、昨日のうちに迷宮に行って月のしずくを採取していたら、今頃きっとカロンは目を覚ましていたはずです。
けれど、時計の針は戻せません。戻せる魔女もいるかもしれませんが、少なくともヘカッテには戻せません。後悔しても仕方がない。ヘカッテはぎゅっと両目をつぶって、自分自身に言い聞かせました。
「今はとにかく前へ進まないと。反省会は月のしずくを手に入れてから。無事にお家に帰ってからやらないと」
そして、再び気持ちをふるいたたせると、ヘカッテはそのまま物陰に潜む小さな精霊たちに混ざって、先へと進んでいきました。絶対に巻き戻しの怪物に見つからないように、隠れ潜みながら移動していったのです。
ヘカッテが習得したあらゆる魔法の中には、恐ろしい敵と戦える攻撃的なものもあります。実際に、怪物と戦って追い払ったりしたこともありました。
けれど、それは最終手段。どうしようもない時にだけ選択する手段であることを、ヘカッテの両親はいつもヘカッテに教えていました。戦わずに済む方法があるのなら、そちらを常に選びなさい、と。
怪物だって命はあります。痛みも感じますし、恐怖も感じます。ヘカッテはその事も知っていましたので、なるべく攻撃的な魔法を怪物に向けることがないようにしたかったのです。
それに、そもそも勝てるとは限りません。この迷宮を目的もなく自由気ままに歩けるのは、怖い者なしの戦士か、この世の全ての魔法を知り尽くしているような魔法使いくらいのものです。ヘカッテもいつかは後者のような魔女になれるかもしれませんが、そうだとしてもまだまだ先の事です。なので、警戒はし過ぎるくらいがちょうどよかったのです。
けれど、いくらヘカッテが見つからないように気を付けていても、巻き戻しの怪物はいつまで経ってもヘカッテのすぐそばをうろつき続けていました。
迷宮の怪物たちは、普通の魔物や猛獣たちではありません。ニオイも音もそして視界も、人間たちや普通の生き物たちに感じられるものとはだいぶ違うのです。巻き戻しの怪物もまた、普通の猛獣とは違う感性でヘカッテの気配を捉えていたようです。
「……どうしよう。このままじゃキリがない」
こっそりと呟くヘカッテに、メンテもまたこっそりと問い掛けました。
──巻き戻しの怪物は、どうやって獲物を見つけるのだったかしら?
その音を聞き取ると、ヘカッテは静かに思い出しました。
「確か……やり直したいっていう気持ちを読み取るのだったかな」
けれど、時間は前にしか進みません。後悔や反省は必要ですが、それもまた前に進むためのもの。後ろ向きな感情にとらわれたままでいると、永遠に前に進むことは出来ないのです。もちろんそれは、ヘカッテにだって分かっています。
「それでも、やっぱり後悔しちゃうのだもの」
小さくなげくヘカッテに、メンテは語りかけました。
──ねえ、ヘカッテ。カロンが目覚めたら何をしたい?
「え?」
──考えてみて。彼が目を覚ましたら、最初に何をするのか。
「えっとね……そうだね。まずはお話かな。カロンが眠っている間、大変だったよってお話をするの。あと、やっぱり月のしずくは昨日のうちに取りに行くべきだったねって」
──うんうん、それで?
「そのあとはね、いつもみたいに魔法の修行を見てもらおうかな。いつもみたいにカロンの感想が聞きたいな。そして、全部終わったら、いつもみたいに買い物に行って、図書館に行くの。あとはね──」
と、ヘカッテが考えていけばいくほど、ヘカッテのそばでは不思議なことが起こりました。あんなに離れてくれなかった巻き戻しの怪物が、だんだんと違う場所へと移動していったのです。ヘカッテがその事に気づいて、怪物に気を取られそうになった時、メンテはまたしても話しかけてきました。
──もっと教えて。
愛する花のおねだりに、ヘカッテはあわてて答えました。
「あとはね、カロンと一緒に計画を立てるの。旅行計画だよ。もちろん、メンテも一緒。いつもモルモとラミィが暮らしているランプラにお泊りしてみようっていう話は前にもしたよね。お話だけじゃつまんないから、本当に行ってみようって考えているんだよ。これまでも寝る前にどのくらいお泊りして、どのくらいお金がいって、どの時期に行って……って、そういうお話をしていたの。昨日は出来なかったけれどね。とにかく、カロンが起きたら、そのお話の続きをしないとね」
──そう。
メンテが頷くように答える頃には、巻き戻しの怪物はもうすっかりどこかへ去っていました。けれど、そんな事には全く興味なさげに、メンテはヘカッテに言いました。
──やりたい事がいっぱいね。それなら早く月のしずくを持って帰らないとね。
「うん……」
うなずいてから、ヘカッテは物陰から顔を出しました。
立ち上がってみても、メンテの鳥かごを隠していたカーテンを開けてみても、怪物が襲ってくる気配はありません。
あたりに広がっているのは、いつものように美しくて静かな迷宮でした。