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冷光  作者: 有栖川市子
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第六話:冷たい色の炎

次の日朝ごはんを食べて学校へ行くまでの間、仏壇の前に座った。今日はおじいちゃんの月命日だからだ。おじいちゃん、サンセットシネマ好き?私、好きだったけれど、今はもっと好きになったの。ううん。好きになってたんだけど、昨日で大嫌いになっちゃったの。おじいちゃんはあのバルコニー席に座った日、どうして私を連れて行ったの?おじいちゃんにも、大切な人がいた?その大切な人は、おばあちゃん?私、サンセットシネマが好きだったよ。映画が好きだったし、お出かけが好きだったよ。そして何より、おじいちゃんが好きだったよ。それからね、哲子さんも好きだったの。私の勝手な憧れだったかもしれないけれど、やっぱり、信じてみたかったんだ。わかりあえる努力をしたいと思う相手がいるって、思いたかったのかな。サンセットシネマを嫌いになりたくない。

はじめて学校をさぼった。学校をサボるなんて、したことなかった。そんなことはしてはいけないことだと思っていた。いや、できないことだと思っていた。強制されているわけでもないのに、私の足と自転車と腕はまるでそこへしか行けないレールの上にでも乗っているかのように、いつも学校へ忠実に向かった。だけど、それが幻想でしかないことに今日初めて気がついた。私の足は、私の腕は、そして私のあやつる自転車は私の意思と決定で動くことを知った。学校がすべての世界ではないこと、学校の外でも世界が動いていること。私はサンセットシネマの前に自転車をとめた。暑い。まだ午前の早い時間なのに、太陽がサンサンと照っているせいで、額から汗が落ちてきた。近未来の階段を一段づつ上っていく。少し前まで忘れていたこのサンセットシネマに気づいたあの日、もともと好きだった黒い重いガラス戸を通れなくてがっかりしたけれど、今はこの階段になじみすら感じた。たった数日でこんなにも好きになれたのはやっぱり哲子さんのおかげだと思う。昨日感じたドキドキはショックにつぶされてしまったけれど、それでも、この階段は光っている。昨日とは反対側から照らされて、私は光を背負って階段を上った。


バルコニー席の扉を開いて哲子さんが来ているか確かめる気もなかった。だって、こんな時間に来ているとは思えない。だけど、今日は哲子さんより早く来て、哲子さんに会おうと思った。哲子さんのいないひとりのサンセットシネマを感じたかった。淋しさを、感じてみようと思ったんだ。ワイン色はもしかしたら張り替えられてブルーになっているかもしれないし、色褪せて重いワイン色ではなくて軽薄な赤になってしまっているかもしれないことを今まで考えずにワイン色と信じて通っていた自分に軽い含み笑いをしながら、やっぱり私にとっては重厚なワイン色の絨毯の上を歩いて、階段を下りる。一階の天井がとても高いので、二階と一階をつなぐオープンな階段は段数が多い。一段一段を黒いローファーで下りていく。なんだかとても落ち着いていた。息がしやすかった。昨日、別れの言葉を勝手に告げて閉じた音のしない扉の取っ手を持ち手前に引く。するとなかにブルーの光が見えた。どうして…。

哲子さんの泣くような声がした。今度は本当に泣いているようだ。鼻をすする音までする。哲子さんのブルーのライトがある客席の中央に近づいていく。ああ、なんて小さい人なのだろう。椅子にそのまますっぽり隠れてしまいそうなほど、やはり華奢だ。その体をタイトな白黒の衣服で守っている。ようやく哲子さんのいる客席の列までついた。哲子さんはこちらを向いていない。小さく丸まって、手のひらも丸めて顔に押し付けて声を殺して泣いていた。

これほどブルーのライトが悲しく見えたことはない。

「哲子さん。」声にびっくりしたのか、哲子さんはびくっとなって、顔を覆っていた両手を浮かせた。そして真っ赤になった瞳でこちらを見た。それから、またすぐ両手を顔に戻して、泣くのを必死になって止めていた。

「どうしたんですか。」

「えへっ、どうしたのって、私のセリフなんだけどな。が、学校は、どうしたの。」哲子さんはいつもと違うふにゃふにゃした声だった。泣くのを急にやめたから、喉が戻ってこないんだ。

「さぼりました。」

「うそ。沙羅ちゃん、そんなことしちゃあだめじゃん。」泣いているくせに、笑ってそう言った。

「昨日、あれから何かあったんですか。」

哲子さんはまた両手を顔から話して、赤く腫れた目をこちらに向けて見開いた。

「き…昨日って…」いたの?とでも言うようにおろおろしていた。ああ、哲子さんでも取り乱すんだな、なんてぼんやり思った。

「すみません。偶然見ちゃったんです。昨日来たら、その、哲子さんと彼氏さんが、ここで…。」

「そっかあ…見られちゃってたか。あは、あははは」もうその頬に涙はなかった。

「それで、私、ここに来ていたことが馬鹿らしくなってしまって。急いで帰りました。すみませんでした。いつも彼氏さんと会うの邪魔してしまっていて。でも、なんていうか、それならそうと言ってもらいたかったっていうか…。」口にしていたらだんだんまた昨日の怒りがこみ上げて来てしまった。それを哲子さんが遮った。

「いつもじゃ、ないよ。」

「え?」

哲子さんの声はいつもの低い優しい声に戻っていた。

「昨日、初めてだもの。あの人をここに連れてきたのは。昨日が、最初で、最後。だから沙羅ちゃんのこと邪魔なんて思ったこと一度もないよ。」哲子さんの優しい低い声が身体中に染みわたった。

「それより、私のほうがごめんなさい。こんなに素敵な場所に、汚ない思い出つけちゃって。」へへ…とまた笑う。そんなこと、ないですよ、と言おうと思ったけれど、やめた。

「でも、あんなことくらいしかできなかった。」哲子さんの声が震えている。

「いきなり最後だって言われて、なにもできなかった。どこかに行っちゃうのをつなぎとめたかった。どこに行くかも言ってくれないんだもの。私があげたいのは体じゃなくて、こころだったことすら、気付かないままどこかに行っちゃうんだ。そんなの、いやだった。いやだったんだよ。ここは私の居場所で、私のこころを多く知っている場所だから、せめてここに連れてきたかった。それだけだったの。」もう十分赤く腫れた瞳から、涙があふれていた。まるで懇願するように痛い叫び声だった。人からもらい泣きしたことなんてなかった。でも、哲子さんの痛いその生きる叫び声は、私の胸のあたりを震わせた。どんな音楽を聞いても一度も震えたことのないこの胸が、震えたんだ。卑怯な顔じゃない、涙があるんだと思った。私の頬も濡れていた。

「いかないでって言ったのに。いなくなっちゃった。一緒に行くっていったのに、行き先も教えてくれなかった。どうして!一緒にいたかっただけなのに。」

哲子さんはぼんやりと空を眺めて涙を流していた。胸がいっぱいになる。感情がこみ上げる思考が追いつかない。感情から声になる。

「わ、私、私だって、行きたくないんです。ここからどこにも行きたくない。家族から離れたくない。大好きなのに。この町だって大好きなのに。ここしか知らなくてもいいくらい、ここにいたいのに。東京になんて行きたくない。憧れなんてひとつもない。ここが好きなのに。どうして離れなきゃいけないの。いい悪いじゃなくて、だって、就職しか考えられなかった。大好きだから。でも、離れたくないよお。ここが好きなんだよお。私だって、もっともっと甘えていたかったよ。社会になんて出る自信ないよ。女短だって行きたいしお母さんに甘えたい。でも大好きだから、そんなこと、できないよ。」声を張り上げて叫んだ。小さい子供が泣き叫んで訴えるように。サンセットシネマの防音と暗闇が優しく包んでくれた。


「ホントはね、彼氏ですらないんだ。」

二人ともさんざん泣いた後、目を腫らしてぼんやりとブルーの光を眺めていた時、哲子さんがつぶやいた。

「彼氏じゃ、ないの。」

「でも…」

「彼女じゃない人にああいうことできる人もいるんだね。私もびっくり。」はは、と笑った。

「でもね、私は好きだったから。どうしようもなかった。それしか方法がなかった。なんていうのかな。付き合ったりできる関係じゃなかったんだよね。でも好きになってしまって、それを相手に言ってしまって、そこからずるずるね…。いやな話でしょ。自分でもぞっとする。こんなこと本当にあるんだ、って自分でいつも第三者のような視点があった。それでも、好きだった。大好きだった。理由なんていらないんだって、本当に思ったんだ。」きれいな細い指で髪を耳にかける。

「私があげたかったのはこころなんだけどな。」へへっ、とまた哲子さんは笑ってこちらを見た。

「沙羅ちゃんは誰かを好きになったことある?」

「好きな人はたくさんいますけど…男の人として好きになったことは…あまりないかも。中学の時一度…。」

「そっか。そのとき、その人とどうなりたいと思った?どうしたいと思った?」

「どうって…仲良くなりたい、付き合いたいくらいかもしれません。でも、よく考えなかった気がします。考えないようにしていたというか…。」

「どうして。」

「ちょっと、いろいろあって…。自分の気持ちは切り捨てる状況だったんで。」

「そう…。」哲子さんは、眉を少しひそめた。その後で、また哲子さんは低い優しい声で話し始めた。

「私はね、何人かいままで好きになってきたんだけど、両想いになって、付き合って、ずっと一緒にいても、どこか空虚な感じがしていた。みんな私のこういうところが好きだよって、いろいろ言ってくれたけれど、どこか違うの。私じゃないの。その後ね、ある本を読んだの。ロラン・バルトっていう人の本でね。私にはちっともわからないの。文章のつながりがね。でもね、そこに一つとても私が納得した言葉があったの。〈こころこそ、わたしが与えたいと思っていたものなのだ。ところが、この贈り物が送り返されてくる。〉〈こころだけはなおもわたしであり続ける。〉私にしかないものは、私のこころで、それを愛した人に贈りたいくらい、愛しているのに、どうしても届かないのよ。だからいつも空虚。悲しいの。何度繰り返してもだめだね。」さみしい笑いを今日いったい何度したのだろう。口元だけで笑う哲子さんは、きれいだ。涙を流しては悲しい笑いをする。哲子さんは生きている。必死で生きていると思った。私の目にはそう見えた。私の目には哲子さんはマスにはとても見えない。そこから遠く離れた、哲子さんにしか見えない。

「体だけしかあげられないのね。こころも体も返ってきちゃったけど。でも、もう平気。たくさん泣いたもの。ここに置いていける。」

「私も、おいて行きます。」

哲子さんがこちらを向く。

「私、卒業したら、就職で東京に行くんです。家族の事情もあるけど、自分で結局選んだんです。でもどうしても、この場所から離れるのが、家族と離れるのが嫌で、嫌で、たまらなくて、地元に残って遊び呆けるだろう友達が許せなくて、いらいらして…。ここが好きなんです。」哲子さんの方をちらと見るとうっすらと優しく笑って言った。

「いいところだものね。」

「いいところかどうか、わからないけれど、私の育った大切な町だから。どこを見ても、思い出すことがあって、幼い私も、家族の思い出もあちこちに蘇る、優しい町なんです。家に帰ると安心する。どんなに混乱していても、家に帰れば大丈夫だと思える。それに自分から手を振るなんて、できないと思った。」また涙があふれてくる。もう、泣きすぎて、目が痛いや。

「家族の優しさが、日に日に身にしみる感じがするんです。数ヶ月後には、すべてを失ってしまうと思うと怖くて…。でも、なんとなく、それは違うことに気づけたように思います。このサンセットシネマのように、からっぽにはならない。家族も、町も。どちらも、私のすぐそばにあって、いつもここにある。帰ってこられる場所が消えるわけじゃ、ない。止まらないものだから。私が好きなものはいつも変化して持続していくものだとわかったから。サンセットシネマが閉館しても町はなくならない。そうですよね。」

哲子さんはにっこりと笑っていた。

「私にも会えるよ。いつでも。私も沙羅ちゃんも変化して変化しない関係を持続したいな。私も、変化する。こころを、あげるよ、沙羅ちゃん。」

わかりあいたいと思った。少しだけでもわかりあったような気がした。それがたとえ幻でも、思いこみでもいいように思った。私も哲子さんも一緒にみている幻で思い込みだから、たとえそうでも、わからない。

「ねえ、私たち、すごい青春みたいなことしたと思わない?」哲子さんがすごく無邪気そうな笑顔をした。

「マスの、ですか?」とにやっとして言い返すと、哲子さんは一瞬「え?」という顔をして、またくすくすと笑って言った。「そうかもね。」

「でもやっぱりマスのとは少し違うかも。最近の若者は冷めてる、無気力って、よく言うじゃない。マスメディアのつくり出す熱い青春は〈最近の若者〉とはまるきり違くて、それが見てとれるように描かれるけれど、私たちのは違う。私たち、むしろまるきり逆じゃない。スポーツをしてるわけでもないし、熱く友情を語ってるわけでもない。むしろ世間を斜めに見る癖すらありそう。マスなんて言ってるしね。冷めてるって無気力って見られそうだもの。だけどね」哲子さんはこちらを向いて、一瞬だけどにやっとした。

「燃えてるんだよ。誰が冷たいなんて、冷めてるなんて言って定めてくるのかな。私たちは、もっと燃えてるんだよ。内なる炎が。私たちは冷めてないよ。」哲子さんは言い切った。


サンセットシネマにさようならをすると決めてきた。ここにいつまでもいてはいけないのだ。ここに包まれていたら、悲しみも淋しさも楽しさも優しさも忘れてしまいそうだ。ここは変わらない暗闇を背負っている。閉館してからずっと。どうかサンセットシネマがまた変化の持続をしますように。

サンセットシネマにはもう来ないことを言うと、哲子さんもそうだといった。

「哲子さんもですか。」

「うん。そのつもりで、昨日あの人と来たんだ。でも、沙羅ちゃんと今日会わなかったら、こんなにすっきりしたお別れじゃなかったと思うな。いやな思い出の閉じ方になるところだった。」

いつも哲子さんを残して映画館を出たけれど、今日は一緒に出る。扉に向かって歩いて、取っ手に手をかけて、後ろに光があることに気がついた。

「あ、哲子さん、ランプ、忘れてますよ。」とランプを指さす。

「いいの。あれはここにくるために作ったものだから。ここに置いていく。」

「そうなんですか…。管理人さんが見つけたら驚きそうですね。」

くすくす笑いながら、ランプを置き去りにして、鉄のドアを押しあけ近未来の階段を降りた。哲子さんとは連絡先を交換した。


それから約半年たって東京に立つ日が来た。哲子さんが見送りに来てくれた。あれ以来、私たちはよく会って話した。一番の友達だ。サンセットシネマは今も何に使われるでもなく、そこにある。赤い色の炎よりも、熱くて、冷たい色を放つブルーの光を内に秘めながら、そこに、ある。




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