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冷光  作者: 有栖川市子
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第五話:他者

夜眠る前にいつも思い出す光景がある。光景という言い方は少し違うかもしれない。クリーム色のまっさらな中に、茶色の点があって、そこからどんどんズームアウトしていって、それは大きな象の瞳だったというイメージ。そして、それが見えるとき、同時に、原色と蛍光色とネオンのようにちかちかするペンで幼い子がぐちゃぐちゃに描き殴ったようなイメージが挟まる。穏やかな気持ちと異常なほどの衝動が私の中をかき回していくような感覚がして、実際に布団の上でのたうち回る。すると疲れて眠れるんだ。

 目が覚めるときは、夢から無理やり引き剥がされる。脳みそをグイッと引っ張られるような感じだ。そして現実に張り付けられる。べっとり。

夏の制服は、どこかだらしない気がする。哲子さんのタイトさと比べて、だらしなく見えるのも、そのせいな気がしてきた。シャツは白くてぺらぺらしていて、安っぽそうな感じ。極めつけが片胸のあたりについたポケット。何も入れやしない。スカートなんて、グレー。退屈な色な上に、なんの締まりもない色だ。せめて紺色にしてほしい。シャツはスカートから出すことになっている。普通、ブラウスはスカートに入れること、と校則にあることが多いんだけど、私の通っている学校は、ブラウスの裾が市販のブラウスと少し違っていて、直線で、ばっさり切られた前髪みたい。その裾はスカートから出すことになっている。暑い夏を乗り切る策ってとこなのかしら。

「まじあちー。」下敷きをぱたぱたさせてシャツの下から風を送るオトモダチ。

「エアコン動かないとかなんでだっつーの。」

「点検だっけ?」

「もう点検とかいいからエアコンつけてほしー。」

「そういえばさ、沙羅、就職ってホント?」

「え?」

「ずっと前の課題さー出してなかったので呼ばれて、提出に行ったとき、担任が言ったの。お前らのなかで、沙羅だけだぞーって。」

かわいいね、かわいいよ、その口調ね、それと声ね、高くてかわいいよ。くるくるの髪も、目を大きく見せてる太いアイラインとつけまつげも、かわいいからさ、その口を閉じてよ。

「まじで?短大いかないの?」

「うん。」顔を伏せた。

「えーすごくない?沙羅すごい!あたし絶対無理。」

机と顔と、それを囲む腕の間に蒸し暑さが増す。

「まだまだ社会にでらんないよねー。」

「まだまだ子供だもんね、あたしら。」

「沙羅ァ?すごいじゃん!沙羅?どした?」

重いな、頭が重いな。こんなに自分の頭が重いとは思わなかったな。少し汗ばんだおでこを腕から引き剥がして、顔をあげる。

「暑くて、だりー」と自然に口からでた。するとトモダチがへらっとして、「おでこ、赤くなってるし!」と下敷きであおいでくれた。


今日もオトモダチとの楽しい時間をパスして、サンセットシネマに足を運んだ。哲子さんに会いたかった。あのどこか周囲と違うような空気が、他の誰とも違う空気を吸って生きているような感じが、私を安心させるから。一昨日はさみしく冷たく見えた金属の階段が今日はとても輝いて見えた。真夏の太陽がそれをいつもよりじりじりと照らしている効果もあっただろうけれど、それよりも私の気持ちが高ぶっていた。今にも、叫びだしたい。それを哲子さんに聞いてほしかった。


熱くなっていた取っ手をまわして、鉄のドアを開く。初めて入ったときのように、ケータイのディスプレイでほんの少しだけあたりを照らして、バルコニー席を開けて、哲子さんが来ているか確認する。ブルーの光が見えたから、いる。

ワイン色の絨毯を歩いて、一階に下りる。一階席への入口の音も出ない重いドアを開くと、声がした。哲子さんが泣いているのかと思ったけど、まったく違う声だということにすぐに気がついた。動物が、二匹いた。互いの欲望を満たすその行為を、初めて見た。いや、正確には見えてないのだけれど、見たことのない男の後ろ姿があって、その前に哲子さんの切りそろえられた黒髪が揺れて見え隠れするのが見えて、あとは、泣くような、声。


音がしないドアでよかった。


さようなら、サンセットシネマ。

さようなら、近未来の階段。

さようなら、哲子さん。


私の勝手な憧れは、馬鹿だったと思う。私は、やはり、以前哲子さんの言った、マスなのだ。物語に出てくるような、素敵な人を哲子さんに勝手に思い描いていた。そして勝手にがっかりしている。哲子さんにしてみればいい迷惑だっただろう。恋人と愛し合うために来ていたのに、そこへ私がのこのこ現れて、それを邪魔して、挙句どうでもいい話をしようとした。早く帰れといつも思っていたに違いない。 馬鹿らしい!馬鹿!馬鹿!馬鹿!

どこまでバカなんだ!もういい加減に懲りればいい!大人になればいい!他人とは永遠に完全にわかりあうことはできないのだから、少しでも分かってもらおうと努力するなんて、馬鹿なことだ!わかっていたはずだ。わかってくれないんじゃなくて、決してわかりあうことなどないことを知っていた。小学生の時、仲の良かった友達が私を一瞬で仲間外れにして無視できたこと。仲のいい友達がほかの子の悪口をたくさん言うのに対して、それはあまり良くないと思うよと、手紙を書いたからだ。そして悪口の矛先は私にも伸びた。中学の部活動で、スタメンに選ばれて、たくさん影口を言われた。私は必死で耐えたけれど、耐えていることなど、誰も気づかなかった。友達と同じ人を好きになったとき、友達に先に相談されて、言えずに協力した。とても苦しかったけれど、友達のためだと思って、黙っていた。よく、本当のことを言いあった方が友達でしょ?とテレビや漫画にあるけれど、私はそれを信用しなかった。本当のことも言っていいことと悪いことがある。この場合は、言ってはいけないことなのだ。案の定、その友達は付き合うことができた。そしてやっぱり友達は私の悩みに少しも気づかなかった。恋愛関係で悩んでいた人、友人関係で悩んでいた人、そういう人はよく保健室で相談をしていたけれど、あれは卑怯だと思った。私はこんなに悩んでいるよと見せつけているようだからだ。そんなパフォーマンスができる人が悩んでいるとは思えなかった。だから必死で隠したんだ。悩みなんてないかのようにしたんだ。それは完全に行われたようだった。だって、誰も本当に気付かなかった。よくこう言われた。「悩みなんてなさそうでいいね。」「あたしも沙羅みたいになりたい。」私は図太い奴というレッテルが張られた。世の中の憂さに気づいていないやつだと、めでたい奴だと言われた。私からすれば、お前たちの方がよっぽどめでたいと思った。いいな、とさえ思ったんだ。でも、それでいいと今は思っている。人間は決して完全にわかりあうことはできない動物なのだということを、知ったからだ。それを知ることで一歩先に進めるということも。それを知ってもなお、人とわかりあっていきたいと思い、その相手を慎重に選び、話術で不断に努力するか、決してわかりあえないのだから、そんなことはしようとしないと判断するかのどちらかの選択肢しかないということも。そして私は後者を選んだ。今、哲子さんが言ったマスには前者が賛美されているし肯定されている。むしろそうした不断の努力を人間らしさと言っている。メディアに扇動されているのかどうかは知らないけれど。だけど、どちらかしかなくて、それを私が選べるのなら、断然後者だ。なぜって、私はこれまでの経験からそうすることに慣れているから。わかりあうことをあきらめて、誰にも気づかれずに、それこそ相手にわかりあっていると思わせて、ふるまうことができたから。これならできる。生涯できる。私は私を傷つけずに、生きていけると思った。

なのに!サンセットシネマを見つけたとき、哲子さんと、話したとき、私は哲子さんに勝手に憧れを抱いて私はやっと理解しあえる人に出会えたんじゃないかと、思ったんだ。なんて馬鹿なことを!そして気付いた。私だってマスじゃないか。

おじいちゃんのあたたかい手は、私を包み込んでいた。あの頃、こんなこと考えなかった。こんなことは愚かな行為だ。きっと、私は退化しているに違いない。だから無駄に悩みたがるんだ。戻れ、戻れ、戻れ!戻ればいい。もっともっともっと幼かった頃に、いや、動物に。動物に戻りたい。食べて、食べられる、それを気味悪がらない動物に戻りたい。死から目を逸らし続ける遊びをしない動物に戻りたい。この間違った世界の認識の仕方を忘れて、言葉もわすれてしまいたい。私は人間として動物に戻りたい。

哲子さんに対する怒りか、はたまた自分に対する怒りか、ものすごいスピードで自転車を漕いでいた。気がついたら、汗がびっしょりだった。もう、日が傾いた。家に帰ろう。


「沙羅、ちょっといい?」お母さんが、部屋のドアを開く。マンガ雑誌が転がっている絨毯に足を進めて、扉を閉じた。

「沙羅、本当に就職でいいのね?」お母さんは腕を組んで、真剣な顔で問いかける。その手は荒れていてしわが増えていた。

「当り前じゃん。自分で決めたんだから。」椅子を机側に戻してお母さんの顔を見ないようにした。やってもいなかった古典の教科書をひろげた。

「そう。」

時計の音がうるさい。だいたいこの時計は前からうるさいんだ。寝ていてもカチカチカチカチ聞こえてくる。秒針の大きさのせいかな。それとも、有名なキャラクターをあしらっているせいで、著作料がかかりすぎてどこか手抜きされてるのかな。ああ、うるさいな。止まってしまえ!

「ありがとうね。沙羅。」

おかあさん。今ほどお母さんに抱きついて泣きたいときはないよ。お母さん。人間は決してわかりあえないはずなのに、どうしてお母さんは私のことがわかるの?だけど、お母さんのほうを向けない。私は今、卑怯な顔になっているから。お母さんにそれを見せたくはないの。ドアの開く音と、閉じる音が聞こえた。私の古典の教科書が、濡れていた。


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