第三話:家庭
走りたかったけど、真っ暗で全力疾走はさすがに怖い。ケータイの光だけじゃ、全然あたりの様子がわからないし。小走りで、近未来のドアまでたどりついた。静かに重いドアを開いて、サンセットシネマの夢のような世界から舞い戻った。映画を見たあとはいつも、どこか異世界から戻ったような気持ちになっていた。一日の、それも二、三時間のはずなのに、何日も過ごしたような気持ちになるのだ。それこそ浦島太郎のような気持ち。でも、ずっと隣りにいてくれたおじいちゃんと、その手の温かさによって、私はいつも、返ってきた、自分に。今日は映画を見ていないけれど、どこか異世界に行っていたような気持ちだ。でも、私はずっと、私だった。おじいちゃんの手がなくても、私、ここに、いるよ。むしろ、とても久しぶりに、自分に返ってきた気がした。
オトモダチと楽しい時間をすごしたマックにとめた自転車に鍵を差し込んで、またがり、急いでペダルをこいだ。別に門限があるわけじゃない。時間を決められているわけではないのだけれど、無言の協定のようなものが存在していて、私はあたりが暗くなる前に、そして、夕御飯の前に帰ることになっている。高校生なのに、変な門限、とオトモダチには言われるが、むしろ、私が決めたといってもいいくらい、私にとっても都合がいい協定だった。家に帰る口実ができるから。
「ただいま。」
「おかえり。」一番にお父さんの声がした。カバンを部屋に置いて、制服を脱いで、着替えてダイニングに行くと、すでにごはんの準備がほぼ整っていた。
「今日は少しいつもより遅かったね。」弟が言った。
「でもお姉ちゃんももう高校生だものね。」まだキッチンに立っているお母さんがこちらを見る。
「今日はちょっといつもと違う友達といたの。」残りの食器を運ぶのを手伝う。
「たまには、友達とご飯を食べてきてもいいんだぞ。」お父さんがビールを片手に言う。
「ううん。家のご飯が好きなの。」
お父さんは、失業中だ。ついこの間、お父さんが務めていた会社が倒産した。それから、お父さんのためいきは止まらない。でも、お父さんは、いつも私たちを笑わせようとした。小学生の弟はよく笑った。私には、少しもおもしろくない冗談や話だったけれど、私も笑った。私もおもしろいことを話した。お母さんはパートを増やした。それでいて、家の仕事もしている。
食卓に並ぶ料理はどれもお母さんの手作りだ。私はお味噌汁が一番好き。お味噌汁なんてどこでも同じだと思っていたけれど、小学生になって初めて給食でお母さん以外のお味噌汁を飲んで、そのおいしさに驚いた。具のバラエティーの多さ、お味噌と出汁のバランス。とてもおいしい。私は体が丈夫な方ではなくて、よく熱を出しては食欲をなくしたけれど、お母さんのお味噌汁だけは食べられた。おいしそうな御飯の香りが満ちた、いつもの部屋。蛍光灯の白い明るさの中に、お父さんもお母さんもいて、弟がうれしそうにはしゃいでいて、たまにお父さんがちらりとみるだけの野球中継が流れていて、ここに帰ってこないで、どこでご飯を食べるというんだろう。あの油のにおいが充満したファストフード店?隣の人の声も聞こえない雑踏のなかのようなコーヒーショップ?聞きたくもないオトモダチの声が流れ続けてるカラオケボックスの中?そこには何がある?たとえ、何万円もする高級料理の夕食を高級料亭で食べれるとしても、私は家に帰って来てご飯を食べる。ここに帰ってくるだけで、十分高級料理以上の価値がある。私の席と決められているわけではないけれど、そこには私の座る場所がある。家族のみんながそれを知っていて認めているように、当たり前にその場所を開けておいて迎えてくれる。お金を支払わなくても。泣きたくなるほど、この家族が好きなんだ。本当に。理由なんてわからないけれど。お母さんもお父さんも、弟も、みんながいて、この場所がとにかく好きなんだ。大好きなの。
「そうだ。サンセットシネマ、閉館したんだね。」
「知らなかったの?」お母さんは目を見開いた。
「ずいぶん前だよな、確か。」お父さんがテレビから目を離して話しだす。
「みんな知ってたの?」
「僕は知らないよー。」
「うん、だって結構有名な映画館だったからねえ。ほら、おじいちゃんもよく行ってたでしょ。昔からあった映画館だったの。」
「娯楽といえばあの映画館、みたいなところがあったからなあ。お前もおじいちゃんとよくいったんじゃなかったか。」
「うん。行ったね。」
「僕は?」
「正人もいったんじゃないかな。でも幼稚園前だったからね。覚えてないでしょ。」
「アニメでも見たんだろ。」
「覚えてるよお。」弟は悔しそうに頬を膨らませる。
「あそこ、どうなるの?」
「今はねえ…時々イベントみたいなことをしてるみたいだけど、ほとんど何に使ってるのか分からないわね。」
「聞かないなあ。何も。あ、あれか。一回サンセットシネマで映画のロケがあったとか言ってたぞ。」
「へえ。そうなの。」何の映画なの?ああ、あれ。見たことないわ。それより今度…とお母さんとお父さんで話が盛り上がっちゃった。なんだ、みんな知ってたのか。なんで私、気付かなかったんだろう。また、行きたい。サンセットシネマに。もちろん、今のサンセットシネマに。
昨日のサンセットシネマが夢のように、次の日も学校が待っている。オトモダチとの楽しい時間。十分間の休み時間が、こんなに長く感じるのはなんだか不思議だ。一日はとても短く感じるのに。
「昨日のさあ、あの歌、あれから着うたでとっちゃったよ!あの歌、まじいいね。なんて言う題名だったかな。」
「それよかさー。今日どこ行く?」
「えー今日はあたしパス。」
「えーなんでー。ユリカ来ないとつまんないー。」
「だってえ、今日はデートだもん。」
「そういやさ、願書どうするよ?どこにだす?」
「えーやっぱ、女短?」
「だよね。あたしも女短。」
「面接だけでいけるっしょ、女短なら。」
「ねえ!沙羅は?」
「私?私は…」口ごもっていたら、ユリカの彼氏の話に変わった。私は、就職。ほとんど、就職しない学校だから、就職活動の連絡はほとんどない。一クラスだけ、就職のクラスが設けられている。だけど、私のクラスはそのクラスではない。私は、親戚の人の口利きで、東京の小さな会社に就職することができただけだ。
頭が整然と並んでいる。教室の後ろから眺める景色は気持ち悪い。黒や茶色の頭が、一列になって並んでいる。前には黒板の前に立って、教室内で唯一言葉を発している先生がいる。だれも、強制されていないのに、一定の方向に向かって座っている。気持ち悪い。だけど、私も、その一部。エアコンが効いていて、涼しい室内と、激暑の外の空気を隔てる窓はびっちり閉まっている。窓の外はひどく明るい。だけど、太陽が遠い。夏は、太陽が遠い。暑い。けど寒い。夏に感じる寒さは、冬の寒さとは違うらしい。小さい頃お母さんに聞いたんだっけ。おばあちゃんが死んでしまったのも、夏。おじいちゃんは静かにおばあちゃんの仏壇の前に座っていた。お父さんと一緒にお散歩した。街を抜けて、お城跡の公園に行った。いつも飲み物を買ってくれた。そのときのジュースが楽しみで、大好きだった。おじいちゃんと行った、サンセットシネマ。夏は、限定で冷えたラムネが置いてあった。今日もサンセットシネマに行こうかな。
放課後、サンセットシネマの近未来の階段の前に立った。でも、足が進まない。おじいちゃん、おじいちゃんの温かい手が、懐かしい。懐かしいのに、その感触を忠実に思い出せない。どこかぼんやりとした淡いイメージでしかない。哲子さんは来ているかな。あの暗闇のなかにひとりでいるのは怖くないのかな。さみしくないのかな。だけど、この冷たい金属の階段を、今日はどうしても登れない。早く家に帰りたい。家についたら、お母さんにいちばんにただいまを言いたい。おじいちゃんの温かい手を握りたい。弟と一緒に遊んで、夕御飯の香りがしてきたら、弟と一緒にお母さんの元に駆けていく。夕御飯の食器を運んで、お父さんが帰ってくる。みんなでご飯を食べながら、今日あったことを話す。仲のいい友達が膝をすりむいて泣いたこと。一緒に保健室にいってあげたこと。お絵描きをして、とてもよく描けたこと。早く家に帰ろう。さみしい誰もいないサンセットシネマに、足を踏み入れたら、今日は出てこられなくなりそうだ。
家に帰ると、お父さんがいちばんに笑顔でおかえりを言ってくれた。お母さんはまだパートから帰ってきていなかった。今日は私が夕飯を作ろう。弟はお父さんと一緒にゲームをしている。ゲームでわざと負けたお父さんが、こちらに来て、ご飯の準備をしている私を見て、今日のおかずは何だ?と言った。私は、あるもので作るから、あんまり期待しないでと言った。お父さんは、腕をこちらに伸ばして、これ、と言った。そこには缶ジュース。透明のサイダー。どうしたの?と言うと、正人と散歩に行ったんだよと笑いながら言って、途中で休憩したときに、私の分も買ったと言った。もう、ぬるくなっちゃってるけどな、と最後に付け加えた。なんで、冷蔵庫に入れなかったのと笑いたかったけど、ありがとうと言って受け取るのが精一杯だった。あと、何年、ここにいられるのかな。あと何年かしたら、この場所は私の場所ではなくなるんだろう。どこか別に私の場所を作って、そこにいかなければならなくなるのかな。たまらなく悲しい。大好きなんだ。大好きなの。こんなに好きな場所を、自分から去らなければならないなんて、ひどく残酷な気がした。だけど、どんな動物も、巣立ちをするのかな。ひとり立ちして、できなければ生き残れない。
就職を決めたのは、私だ。だって、お父さんは失業中で、学費を払ってもらうわけにもいかない。生活費だって、必要でしょう。弟はまだ小学生で、これからたくさんお金がかかる。お母さんはパートと家事を一生懸命にしていて、私は健康が心配だ。お父さんもお母さんもそのくらいの貯えはあるよっていってくれたけれど、私は働きたい。学びたくもないことを学んで、ただモラトリアム期を伸ばすことを、私は選びたくない。だけど…だけど…。




