懐柔
実家に居る時より頻度が激減しているとはいえ、度々の永一の来訪に、受付嬢で居る事にも限界を感じ始めた頃、周囲が向子を気遣って、雑用係兼、辰顕の秘書の様な位置に配置換えされる事となった。
「情けないわ」
向子が、辰顕の仮眠室の椅子に座って溜息をつくと、机に向かっていた辰顕が、向子を見て、気の毒そうに言った。
「如何して?皆助かっているよ。ちょっとした郵便の手配とか、書類の整理とか。薬棚の清掃や、消毒とかね。本家の娘さんに雑用ばかりさせて申し訳ないけど、意外に、そんな事は手が足りていないから。そりゃ、最初は受付嬢で、という事だったかもしれないけど、向子は給金分の仕事はしているだろう?小遣い程度の給金で悪いけどさ」
「いえ、でも、此れでは…御小遣いを貰って、更に辰兄を護衛に付けてもらっている様なものだもの。申し訳なくて。私さえ永の事を我慢すれば、受付くらい…。そりゃ、来客の度に完三さんに受付を代わって頂いていたのは申し訳ないけれど」
眼鏡を掛けた、如何にも事務員風の人の好い瀬原完三と、其の母で、完三によく似た細身のテイが、食事や御茶の支度をして出してくれる、受付兼事務室の雰囲気は、病院にしては家庭的で、向子も好きだった。
其の雰囲気を、向子が壊してしまうのは、嫌な気がした。
「止しなさい」
珍しく、少し強い口調で、辰顕は言った。
「自分さえ我慢すれば、なんていう気持ちは危険だ。周りが見ていて、向子が不憫だと思ったから配置換えになった。其れは確かだ。でも本当に心配だったよ。みるみる痩せて。体を壊してまで遣らせる様な仕事は無い。我慢は美徳じゃない」
「辰兄」
辰顕の様子に、向子が驚いていると、よう、と言って、開け放たれた仮眠室の扉から、俊顕と景、顕彦と安幾、栄と初が顔を出した。
「御父様、御母様」
向子は、母に駆け寄って、ひし、と抱き付いて、シクシク泣いた。
珍しく訪問着を着た安幾が、そっと向子を抱き返して啜り泣いた。
背広姿の顕彦が、向子と安幾を纏めて抱き締めた。
ほら、と辰顕は優しく言った。
「親の顔を見て泣き出す様じゃ、やっぱり我慢しているよ」
サキちゃん、と言って、安幾は、宝物を見る様な目で、疾うに自分より背が伸びてしまった愛娘の顔を見上げた。
「聞きましたよ。受付の御仕事、頑張っていたのにねぇ。こんなに痩せて」
そう、安幾は、心配して、何度も受付まで足を運んでくれていたのだった。
御母様、と言って、向子は余計に泣いた。
「向子。何が、そんなに辛かったか話して御覧」
俊顕が、優しくそう言った。
辰顕が、仮眠室に人数分の椅子を持ってきてくれた。
景が煎れてくれた御茶を飲みながら、向子は、初めて永一と病院の応接室でした話をした。
聞いている七人の大人が、揃って唖然とした顔をした。
「…私、欠片も永の事を好きでなくて、此れ程良かったと思った事は無いわ。永の事を少しでも好きな女の子が聞いたら絶望したでしょうよ。『里で一番綺麗で優しくて賢くて上品』な『実方向子』は、永の頭の中だけの存在よ。『私』じゃない。でも、聞いてくれなかったのだわ。永は自分に都合の良い私の姿しか頭に残さないのよ。十年以上、私は、如何にか私を諦めてくれないかって、無駄な努力をしてきたの。だから絶対に諦めてくれる気が無いのだって、分かってしまったの。何時になったら、私は、そんな都合の良い存在じゃないって分かってくれるのかしら?私が本当に『里で一番綺麗で優しくて賢くて上品』とやらではなくなった時、私は、どんな目に遭わされるのかしら?永の中の私の姿を裏切ったと言われるのかしら。其れでも、変わってしまった私を認めずに、私から離れる気を起こさないのかしら。其れとも、いっそ顔に傷でも付けたら諦めてくれるのかしら、って、考えても仕方が無い事を延々考えてしまって。…違うの、食べているの。食べているのに、何故か痩せるのよ。こんな、皆に心配掛けたかったわけじゃ。そりゃ、食べる量が多かったとは言えないかもしれないけれど」
「…いや、そんなもんに付き纏われたら食欲無くすわ。十年以上って。尋常じゃないだろ」
俊顕が、そりゃ心配するわ、と言った。
怖ぇ、と顕彦は身震いしながら言った。
「こんな絶望的な恋愛話は聞いた事がねぇなぁ。いや、抑、此れは恋愛なのか?」
女性三人は、生理的嫌悪感を露にした表情をして押し黙ってしまっていた。
気持ち悪いだろうな、と思い、向子は三人に共感した。
辰顕が、転地療養は如何でしょう、と言った。
「広義の家事手伝いで、貴達の会社にでも送れませんかねぇ。此の子に仕事を手伝わせようとして、宅地建物取引員の資格を取らせようとはしていらしたのでしょう?今も向子は勉強しているのだというし、実地で業務を手伝わせるのが少し早まっただけ、と考えて、此処から出してやれませんか。あんまり気の毒です。可惜若いのに、そんな事で悩ませて。顔に傷、なんて発想、余程の事ですよ。健全ではない。駄目なら、吉雄さんの所とか」
「吉雄さんの所じゃ目立ち過ぎてしまう。また、坂元に関係する娘が、と言われてしまうぞ。貴達の会社に遣るのも、ちょっと早過ぎる。資格を取ってから此処を出ないと、里を出る条件としては流石に弱い。許可が下りないかもしれない。そうでなくても、貴達の件では、実方本家も大分融通してもらっているからな」
俊顕は、そう言って、如何したものかな、と続けた。
「いっそ、里の外に嫁に行くか?強硬手段だが。…いや、そんな事で結婚させてもなぁ。宅地建物取引員の資格試験に行く、資格を生かして兄の仕事を手伝う、という手順をキチンと踏んだ方が穏便かもしれん…。厄介だな。誰の言う事なら聞くかな、あの長は」
「ま、吉野本家の保親さんの言う事なら、少しは…。荻平さんが居てくれたらなぁ」
辰顕が、そう言って腕組みをすると、顕彦が、うーん、と唸った。
「あ」
初が、閃いた、という顔をした。
「保親さんの方を懐柔出来ないかしら」
其の場に居た全員が驚きの表情をした。
景が、ハナちゃん?と言った。
お景さん、と言って、初が景に耳打ちした。