就職
中学も卒業し、春休みも終わった頃、蔵の整理をしながら向子が泣いていると、顕彦が、如何した、と声を掛けてきた。
「庭に粗塩がゴッソリ撒かれていたが、何事だ。如何した、向子」
御父様、と言って泣きながら、向子は顕彦に駆け寄ると、しがみ付いて泣いた。
「永が、求婚ついでに病院の悪口を言ってきたのよ。許せないわ。今日という今日は塩を撒いたわ。長だけど、二度と来ないで欲しいわ」
顕彦は、はぁ?と言った。
「…分からん。いや、求婚だろ?求婚するなら相手の女に気に入られようとするものじゃ無いのか?そんな事言ったら、うちの兄上達や辰に懐いている向子が怒るに決まっているのに、何だって、そんな、頭の螺子の外れた様な事言うかね?」
一つも分からん、と言って、顕彦は首を傾げた。
「…本当なの?戦時中の人体実験に、実方医院が協力していたって」
「あいつ長なのに、そんな事言ったのか?」
まぁ、本当だよ、と、顕彦は、向子が拍子抜けするくらいアッサリ認めた。
「こんな隠れ里に病院作るには、そんな風にして軍に協力しなきゃならん時期が有ったのさ。でもま、外聞の良い事じゃないから、御前も黙っておけよ。違う人間からも、そんな悪口言われるかもしれん。…いや、あいつ…。事によると、悪口で言った心算も無いのかもしれないぞ。如何して向子が怒っているのかも分からないのだとすると…」
困ったな、と顕彦は言った。
「ちょっと俺、兄上に相談してみるわ。向子、御前、病院で、住み込みで働かせてもらえ。ちょっと、あいつと距離を置こう。此れだけ断っているのに毎日求婚してくるのも何だか異常だ。病院なら、里から、ある程度距離も有るから頻繁には寄れないし、親戚の家業の手伝いだとなれば、永一も文句は言えまいよ。さ、就職だ、就職」
「そりゃ災難だったなぁ」
向子の伯父の俊顕は、気の毒そうに、そう言うと、向子の頭を撫でてくれた。
「毎日求婚とは恐れ入ったね。こんなに別嬪に生まれたから、余計な税金取られている様なものだなぁ」
美人税だな、と、言って、俊顕は、同じく、向子の叔父の栄に同意を求めた。
栄は、苦笑いして言った。
「実在したら酷い税ですけど、こうも実害が有るのでは、長から高い税金を取り立てられている気分にはなりますよね」
こうして、向子は、普段は、従姉の静や冴が使っていた部屋を使わせてもらい、貞操を守るという防犯の為に、俊顕と景夫婦の寝室で寝泊りさせてもらう事になった。
娘二人が家を出て久しい伯父夫婦は、当然の様に向子を猫可愛がりしてくれた。
向子は、毎晩安心して眠りについた。