瀬原綜一
永一が帰って暫くしてから、向子が、宗顕と一緒に、御重を片付けていると、急須と湯呑を机の端に片寄せしながら、辰顕は、呆れた様に言った。
「しかし何だって、そう、向子に拘って求婚するかねぇ。未だ婚姻統制の権限を持っていないとはいえ、あの子は前の長の後継で、…いや、既に長だし。だから、保親さんが『水配り』で選んだ相手を娶らなければ、他の『水配り』の参加者に示しがつかないだろうに」
其れどころか、と向子は言った。
「彼方此方で女の子に手を出しているわよ。サキも流石に知っているわ。女癖は悪いの。其れなのに『水配り』に参加してもいない実方家の、しかも本家の娘に言い寄っているのよ?頭が悪いにも程が有るわ。…いえ、物事を何処まで理解して行動しているのかしら。結果を考えていない気がするのよね。結局また、自分では尻拭いをしないのではないかしら」
「あ、噂には聞いていたけど…本当に?向子に付き纏っている時間以外は、他の女の子を取替え引替え、って」
困ったね、と辰顕は言った。
「向子は何か知ってる?其の…手を出している、と言っても、どの程度か…」
向子は、うーん、と言った。
「婚前交渉の有無という御話?…其れがねぇ…特に知りたくもないから、知らないのよね」
ああ、ごめん、と辰顕は謝った。
「そりゃそうだ。間抜けな事聞いたな、我ながら。そりゃ、永一と如何なのですか、とは、女の子一人一人捕まえて聞けないしね。まさか現場に踏み込むわけにも」
「そうなのよね。結局、言い方は悪いけど、現場に踏み込む事でも無ければ、当人同士にしか分からない事ですものね。でも、洒落になっていないわよね。里に永の子供がゴロゴロ、だなんて。『水配り』の意味が無いじゃない?ま、婚前交渉が有ったら、の話だけど」
其の辺りの事情は、白か黒かで言うと、向子にとっては灰色だった。
何せ、向子も永一も一応十四歳で、中学を出てもいない。
少なくとも向子は今、婚前交渉をしない。
自分がしない事を、相手がしている、という想像も出来なかった。
そう、向子は、口で言う程、男女間についての想像は出来ない。
そして本当に、永一の其の事情に興味が無かった。
「認知されていない永一の子がゴロゴロ…知らずに結婚して兄妹婚、だなんて、笑えないよな。今思うと、其の為の夜這い禁止も有ったのかもしれないな。…此れでは本当に、前の長が考案した『水配り』は形骸化も良いところだ。まぁ、あの性格じゃ、長になって、永一が一番上、となっては、誰が注意しても聞かないよね。でも一応、向子の言う事は聞く風ではあるね」
辰顕は、確認する様にそう言った。
其れがねぇ、と向子は言った。
「多分、サキが怒っている、という事に対して反応しているだけなのだと思うの。サキが怒っている、如何しよう、というくらいのものね。其の証拠に、はい、としか言わないの。如何して向子が腹を立てているか、という事が分かっていないから、何度でも同じ事をすると思うわよ」
其れは問題だなぁ、と辰顕は言った。
「親に対する反応も、何だかねぇ」
「え?」
「例えば、だ。記憶喪失の人間っていうのは、自分の失った記憶を必死に求めるらしい。『自分が何者か』という事が分からない、思い出せない、というのは、其の人にとっては恐ろしい事だから。親の話も、そうじゃないか?『自分が何者か』なんだよ。どんな親から生まれて、どの国の人間で、って、気にならないか?向子は、仮に自分の親を知らなかったら、知りたくならないか?例えば、母親が早くに亡くなってしまった、とかだったら」
「…そう言えば、そうね。名前は何かしら、どんな人だったのかしら、って思うわね」
「そうだろう?其れを知る事の意味が無い、って、如何いう事なのかな、と思って。生きていなければ自分を可愛がってくれないし、自分を可愛がってくれないなら、其れ等を知る事に意味が無い、というのが、ちょっと俺には理解出来なかった。…まぁ、俺だって二親揃っていて、未だ存命だから、あの子の気持ちが分からないのは仕方が無いかも知れないけど。『意味が無い』って、不思議な言葉だと思って」
「…言われてみれば。自分が親に可愛がってもらえるか否か、という事と、自分の親の事を知りたい気持ちって、別の事の様な…」
「そう、憎んでいる親の事だって、知りたいと思う人は居るかもしれないよね。『自分が何者か』を知る事に意味が無いとは、俺は思わないのだけれど…。可愛がってもらえたか如何か、って、結果だよね。其の結果が無ければ意味が無い、という問題だろうか、本当に」
「言われてみれば、永って、妙に結果を気にするわね。徒競走だって、勝たなくちゃ意味が無い、って言うし」
「ああ、途中の努力とか経過には興味を示さないって事?…口癖なのかね、『意味が無い』っていう言い切り方は。…自己中心的で独創的、か。…あの子、攻撃性は有るかい?」
「…何とも言えないわね。私以外に人間に如何接しているか、殆ど見た事が無いから」
だからこそ、宗顕への態度には向子も驚いたのだが、此れだけ長い付き合いで、永一が向子以外の人間に如何接しているか、向子が殆ど見た事が無い、というのも問題の様な気がした。
まぁ、俺は、そうした事は専門外だけれども、と、辰顕は意味有り気に前置きしてから言った。
「何はさておき、あの子が自分の親の話を聞きたいのなら、全てを離す準備が有ったのだけれど。意味が無いと言うのなら、態々聞かせる必要も無いね」
そうね、と向子は言った。
「あの…綜一さんって、どんな方だったの?何だか、サキの方が興味を持ってしまったわ」
「ああ、もうねぇ、あれは、何ていうか。真面目でねぇ。顔は、前の長そっくりだったけど、優秀で、でも不器用で。…婚前交渉の話だって、聞いた時は驚いたくらい。まさか、って」
「其の点は、永には似ていないのね…。女癖が悪い、というわけでは無いのね。婚前交渉だなんて聞いて、真逆の印象を持ってしまったけれど」
「…まぁ、本当にね。今でも、如何して、ああいう事になったのかな、って思う事が有るくらい真面目だったから。でも、色々有ったから。…全部の事が上手くいっていたら、永一は生まれなかったかもしれないけど、皆、未だ生きていたかも知れないなぁ」
辰顕の声には、懐かしい時間を尊ぶ様な響きが有った。
「辰兄、其の方と仲良しでいらしたの?」
辰顕は、穏やかに微笑んで、返事をしなかった。
向子は何となく、胸に迫るものが有った。
仲が良かった、という一言では片付けられない何かを感じたからである。
そして、其の人間は死んでしまったのだ。恐らくは、若くして。
「…そんな真面目な人に、如何して中身が似なかったのでしょうね、永は」
向子の言葉に、辰顕は笑って言った。
「頭の良い人や美形を掛け合わせ過ぎたのかね。綜ちゃんの持っていた良いところも、瑠璃さんの持っていた良いところも、掛け合わさる事で薄まってしまったのかな」
辰顕が綜一を『綜ちゃん』と呼んでいる事を、向子は聞き逃さなかった。
―絶対に、懇意だった筈だわ。一言も、そんな風には仰らないけど。
向子は其の時、辰顕の心の傷に触れた気がしたのだが、辰顕は、何時もの様に爽やかに笑って言った。
「いやぁ、うちの妹の静も、綜ちゃんが好きでさ」
「え?そうだったの?」
「瑠璃さんも、小さい時から綜ちゃんが好きだったらしいし」
「人気者じゃないの、綜一さんって方」
向子は驚いたが、そりゃそうだよ、と、辰顕は笑って言った。
「想像して御覧よ。前の長そっくりなのに、永一と性格が真逆でさ。真面目で不器用で。でも、子供好きだったなぁ。物静かで、口数は少ないけど優しくて、面倒見が良くて、何時も損していて…。瑠璃さんとの事も、本当に、空襲とか、色々、思い詰める様な事が有った時期で、俺は、綜ちゃんのせいだけで、ああいう事になったわけでは無い、と、今でも思っているのだけど。本人は責任取って婚約まで漕ぎ着けたしね。…そりゃ、あんな、笑う事とか、冗談が下手な人間の、嘘偽りの無い優しさを、女の子達が知ってしまったらさぁ」
「…嫌だ、仮に其の人に求婚されていたら、ちょっと気持ちが揺らいだかもしれないわ」
向子の戸惑いの声に、辰顕は、あはは、と笑って言った。
「うん、だからねぇ。永一がそうじゃない、っていう事も大事な事かもしれないよ。本当に向子も一緒になりたくなってしまったかも。幼馴染で結婚さ。そしたら長の嫁だ」
「そう聞くと…何だか残念な話ね。そういう素敵な話はサキには無かったのだもの」
辰顕はゲラゲラ笑って、違いない、と言った。
「残念の一言だね。遺伝の神秘だろうかねぇ。顔が似ている分、余計残念だな。其れよりも気になるのは」
「何か?」
「あの子は一体誰に、今更、自分が前の長の子ではない、と聞いたのだろうね」
「…そう言えば、其の辺の説明も、永からは一切無かったわね」
永一に興味が無さ過ぎて、其の辺りの事情も問い質さなかった事に、向子は思い至った。
「まぁ、保親さんだろうけどねぇ」
辰顕の言葉に、其れはそうだろうな、と向子も思った。
「結局、保親さんって、荻平さんの前に長の補佐だったから、永を補佐している、って事?」
「まぁ…其れがさ。綜ちゃんの亡くなった御母さんって、吉野本家の人だったんだけど、一応、保親さんの妹でさ。綜ちゃんの伯父だっていう事で、無理に、里の中で幅を利かせてたってだけなんだよ」
「あら。では…一応、保親さんは、永の遠縁の親戚なの?保親さん自体は、其れを知っているのかしら」
成程、と辰顕は言った。
「自分で調べたとしたって、知っている人間は口が堅いから、保親さんなんかに言いっこない。言ったとしたら、前の長なんだろうな。…永一を『可愛がって』もらうためなんだろうな」
「え?」
「あの人はあの人で、自分の娘と綜ちゃんを結婚させて、里の中での自分の権力を固めようとしていたからさ。ま、従兄妹同士だって事で、頓挫した計画だったんだけど…。だから、荻平さんの娘さんの存在は、面白くなかった筈なんだよ」
「ああ…。成程、『瑠璃さんの子』って言うか『自分の甥の子』っていう風に可愛がってもらおうと思ったって事?」
「…そうかもしれない。荻平さんも交通事故死したし」
何だか含みの有る言い方、と思ったが、やはり、如何しても永一の事に、其れ以上興味が持てなかったので、結局、向子は、ふぅん、とだけ言った。