実方辰顕
「何?また向子を嫁に貰う相談にでも来たの?」
例の白っぽい仮眠室で握り飯を食べていた辰顕は、御茶を飲みながら御道化て、そう言った。
長が来たというのに、立つ事もしなかった。
しかし、永一は全く辰顕の非礼を気にした様子も無く、腕組みしながら其れも良いな、と言った。
「まぁ、振られっ放しだからな。其れで貰えるなら、相談に乗ってほしいくらいだが」
永一は、淡々と、そう言った。
辰顕は明らかに冗談で言っているのだが、永一は吝かでも無さそうだった。
馬鹿丸出しだわ、と思い、向子は、そっと辰顕に耳打ちした。
「流石に、そろそろ気色悪、って言っても構わないかしらね?」
「…数学より難しい事聞くねぇ。…言ったら傷付けそう、って迷う様なら止めておいたら?」
辰顕は、そう言うと、困った様に笑って御茶を飲み干し、白衣を脱いで、紺色の襟締を緩めた。仕事中だったらしい。
向子は申し訳なくなって、ごめんなさいね、と言った。
「今、御昼御飯だったの?御邪魔したわね。昨日御電話差し上げた心算だったけれど」
「いや。午後に長と来ると聞いてはいたから、午後から休診にして、こうして、此処で食べて待っていたわけ。おやつを持って来てくれたなら、皆で、此処で食べたら良い。先刻御茶を持って来てもらえる様に頼んだから。宗、沢山歩いて偉かったなぁ。御腹が空いたろう」
宗顕は、辰顕に向かって、嬉しそうに微笑んだが、永一は沈んだ声で言った。
「良いなぁ、宗顕は。褒められて」
「…うーん、長を褒めるのも不遜ですからねぇ。第一、九歳の子が歩ききれた距離を歩ききって偉いね、なんて言われても、馬鹿にされている気にならない?十四でしょ?もう、身長も俺とそう変わらないでしょうに」
永一は、何だか拗ねた様な顔をして、黙った。
ええー?と辰顕は、小さな声で言った。
「あ、えっと。こんな小さな子の手を引いて、里から歩いて来てくださるなんて、偉いですねぇ、長。思い遣り深い御方です事で。…さぞ御腹が空いたでしょうねぇ」
辰顕の、如何にも御義理の褒め言葉に、永一は、少し気を良くした様子で、微笑んだ。
辰顕は、もう一度、小さな声で、ええー?と言った。
永一は、純粋に褒められたいだけだったらしかった。
向子は、呆れを通り越して、少し永一が怖くなった。
―丸きり子供なのだわ。見掛けばかり、五尺八寸と、辰兄や了兄と変わらないくらい大きくなったけど。宗より、もしかしたら子供だわ。こんな人間が、里の何を舵取りしようというの?空恐ろしい。
此の人間が、何を言っても向子を全く諦めない、という事が、尚恐ろしかった。
如何して、何度も断っているのに此方の気持ちを汲んでくれないのかが、向子には理解出来ずにいた。
何時か何か起こりそうな気がして、向子は再び総毛立った。
向子は今後一切、気紛れにでも永一を褒めない事を、今決めた。
辰顕は、気を取り直した様に、何時もの様に爽やかに微笑んだ。
「其れで?何か御用で?」
「俺の親が誰か知らないか?」
「ええー?」
辰顕は、心底驚いた顔をして永一を見た。
―ま、そりゃ、そんな用件で、御団子持って、行き成り職場訪問されると思って働いていないわよね。驚くでしょうよ。
向子は辰顕に同情したが、永一は、団子を遣るから、と言った。
其れは瑛子が作った物だが、という言葉を、向子はグッと飲み込んだ。
仮に団子が本当に永一からの手土産だったのだとしても、外科医を団子で懐柔して自身の出生の秘密を聞こうと本気で思っているのなら、色々と考え直した方が良いというものである。せめて、包むなら金子であろう。
「や、先刻向子が解いてくれた風呂敷、明らかに実方本家の風呂敷だったけど…?あ、いや、はい。分かりました。もう良いや。教えるから。御掛けください。はい、椅子が足りないから、向子と宗は寝台の上に腰掛けて良いよ」
辰顕は、呆れ顔をした後、諦めた様に、テキパキと座る位置を指示した。
何だか診療の前みたいだわ、と思いながら、向子は素直に辰顕に従った。
永一も、素直に辰顕の前の椅子に腰掛けた。
「はい、御茶が来ました」
辰顕が、そう言い終えると、仮眠室の扉を叩く音がして、白衣の看護婦が御茶を持って入って来た。
実方分家の賢顕の妹、弥生だった。
向子と五つしか違わないのに、資格を取って立派に病院で働いているので、向子は尊敬している。
「ま、長?サキちゃんに宗ちゃんも。いらっしゃいませ。此方、御持たせで恐縮ですけれど」
「弥生姉、御久し振り」
向子の挨拶に、弥生は微笑んで、其々に、御茶と取り皿と黒文字を配って、忙しそうに去って行った。
キビキビした動きが素敵だと向子は思った。
忙しいであろうに、去年、清水分家の若者と縁付いた所帯持ちでもある。
人手不足なので、身重になるまでは働いてくれるとの事だった。
其の点に於いても、向子は弥生を尊敬していた。
「はい、皆、おやつを取って。平等にね。十八個入りだから、一人四つまで。二つ残して弥生にあげよう」
辰顕が、診療録を読み上げるかの様に事務的に、そう言うと、皆、検温の結果でも伝えようとするかの様に、ウロウロと、辰顕の傍に在る御重の周りに集まった。
辰顕は本当に、長であろうと、永一を特別扱いする気は無いらしい。
永一も黙って、薩摩芋と餅粉と、夏に沢山採って乾燥させておいた、蓬の粉で出来た蓬団子を、取り皿に取った。
全く辰顕に丁寧にされていないのに、馬鹿にされたとも思っていない風なのが、向子には、よく分からなかった。
じゃあ、御話しましょうかね、と言って、辰顕は、自分も蓬団子を食べた。
向子は其の動作に、全く、常日頃、辰顕が来客に接する様な丁寧さを感じなかった。
辰顕にとっては、此の場に居る全員が、最近生まれた、二、三歳くらいの人間に思えるのであろう。
「一応聞くけど、今話すと、向子は兎も角、宗にも知られちゃうけど、良いの?」
辰顕は確認を取ったが、永一は、構わん、と言った。
「宗顕、言わないよな?誰にも」
「…はい」
宗顕は困った様に、そう言った。
本当に良いの?と向子も思ったが、永一は、其の点については全く気にした様子が無かったので、向子は余計に、永一の事が分からなくなった。
―…普通、知られたくない話だと思うのだけれど。
「じゃ、誰から聞いたか知らないけど、俺が知っている事を御話しましょうかね。十四なら、もう知っていても良い頃だ。俺の頃には従軍している者も居たくらいだから、大人だ」
今年の五月二十六日には、五年後には東京五輪開催する事が決まったというのに、其の認識は時代に合っていない気がする、と、思ったが、向子は黙っていた。
向子の中でだけ戦争が遠くなっただけなのだ。
辰顕は、未だ昭和二十年の夏に閉じ込められているのだろうから。
「君のお父さんは、瀬原綜一。前の長の息子だよ。お母さんは、荻平さんの長女の瑠璃さん。君は、前の長の孫、というわけだ」
「辰顕さん…その、綜一、という人は?」
待って、と、向子は、思わず永一の言葉を遮って、言った。
「戦死した、という人?成姉に聞いた事が有るわ。綜一さんって、長の息子だったの?」
「ああ、成子から聞いたの?…まぁ、そんな様なものかな。兎に角、君は其の人の息子」
坂元成子は、とある事情で里から居なくなってしまった、了の姉だった。
辰顕の従妹でもある。
辰顕は、少し沈んだ顔をしたが、永一が黙っているので、向子は続けた。
「戦死した方に奥様がいらしたって事なの?」
「いや、御察しくださいよ、向子さん。其れで、長の孫で通さない理由をさ。婚前交渉が有ったわけだ。婚外子なわけだよ、此の子は。祝言を上げる前に亡くなった息子の婚約者が、戦後に、妊娠している事が発覚したわけだ。大事だよ。『水配り』に参加していたら、夜這いは御法度。なのに、祝言前に長の息子の手が付いていました、じゃ、外聞が悪過ぎる。長の実子として戸籍の手続きをする為に、瑠璃さんの妊娠を隠して、形ばかり、長が後妻に娶って、早産で亡くなった、という事になっているが、正期産だよ」
「ちょっと、ちょっと、待って。五月生まれでしょう?永は。その、妊娠したとしたって、終戦まで其れ程間が無いじゃないの。…えーっと、七月だか八月だかじゃないの?妊娠は。綜一さんって、戦死って事になっているけれど、本当に出征していたの?終戦は八月で」
向子が指を折って数えながら、そう言うと、辰顕は頭を抱えた。
「…ちょっと頼むよ、向子。御前、賢過ぎて嫌になるねぇ。察し過ぎ。ま、色々有ったの」
「…戦死って事になっているってだけ、って事?従軍していたら計算が合わないわ?」
「向子。ちょっと。待ちなさい。あのね、誰しもが御前みたいに頭の回転が速くないの。此の子の気持ちを考えなさい。ちょっと、理解までに時間を与えてあげなさい」
向子は、其れは婉曲に、永一の方が向子より頭の回転が遅いと言ってはいまいか、と思ったが、素直に、ごめんなさい、と言って、黙った。
永一は、いいや、と言った。
「…どんな人だった…なんて、聞いても意味無いな」
「いや、良い人だったよ」
辰顕は、そう言ったが、永一は、悄然として、そう、とだけ言った。
向子は俯く永一の顔を覗き見た。
「永?」
「…いや、皆死んじゃったな、と思って。死んでいたら、どの道、俺を可愛がってはもらえない。どんな人か今更知ったって、意味が無い」
病室は、水を打った様に静まり返った。
絆されそうになる、とは此の事だった。
向子は必死で、永一に共感及び同情しないようにした。
しかし、辰顕は、おや、という顔をして、永一の顔を見ていた。
稍あって、今日は帰る、と永一は言った。
困る、と辰顕は言った。
「御団子、食べられるだけは食べてから行ってよ。腐るだろ。俺一人で、こんなに食べられない。三十路の胃袋の大きさを考えてよ」
永一は、拍子抜けした顔をして、はぁ、と言って、御重から蓬団子の御代わりを取ると、モソモソと食べた。
向子と宗顕も、御重の周りに集まって、なるべく頑張って蓬団子を頬張った。
食べるだけ食べると、美味かった、と言って、永一は仮眠室の扉の前に向かった。
宗顕が、慌てた様に、長、と言った。
「此処まで連れて来て頂いて有難う御座います。御心遣い感謝致します」
幼い宗顕の丁寧な謝辞に、永一は、痛く自尊心が満たされた様な顔をして、行き成り宗顕を抱き上げて頬擦りした。
宗顕はキョトンとしていた。
向子は其れを見て鳥肌が立った。
―急に。何かしら、其れ程親しいとも思えないのに、突然距離を縮める様な行動を取る事が有るのよね。幾ら何でも頬擦りは行き過ぎではないかしら。此の子は、もう九歳よ?
容姿が良いので、其の永一の、行き成り距離を詰める行動が、時として、里の女の子を惹き付ける魅力になり得る事は確かだった。
だが、向子は、其れを無礼に感じ、一定の距離以上、永一に近寄られる事を好まない。
向子にとっては、永一の距離感が既に嫌なのだ。
辰顕も、驚いた顔をして永一の様子を見ていたが、永一は、実に満足そうに、宗顕を降ろすと、頭を撫でて、言った。
「うん、良いな、宗顕。宗顕みたいなの、作ろう。ずっと一緒に居てくれるものなぁ」
宗顕は、終始キョトンとした顔をしていた。
聞き違いかしら、と思ったが、向子は、よく考えると内容が凄く怖かったので、聞き返す事が出来なかった。
永一は、邪魔したな、と言って、意気揚々と帰って行った。
永一は、結局、自身の出生の話をしてくれた辰顕に対して、礼一つ言わなかった。
向子は、辰顕に、ごめんなさい、と言った。
「…急に御邪魔して。御電話差し上げたとはいえ、そりゃ、御仕事の休憩中よね。其れに、永ったら、御話してくれた辰兄に、御礼一つ言わないのだもの。此方が恥ずかしくなってしまう。あれで罪悪感ってものが無いのですからね。自分に非が有るとは思っていないのかしら。私、永を連れて来て、本当に、辰兄に悪かったわ」
「いや、大丈夫。…ふぅん、約束の電話をしてきたのも向子で?団子も実方本家の物で、詫びを言うのも向子、ね」
辰顕は、何か考え込む様に言った。
向子は、そうよ、と言った。
「悪気は無い様なのだけれど、利己的というか、自己中心的というかね。自分の尻拭いってものをしないのよ。こっちが何かしてあげたからって、礼を言ったり、恐縮したりもしないし。いっぱしに、長になる前から王様気取りだったわよ。…実は、取り立てて嫌う程も永には興味が無いのだけれど、そういうところ、苦手だわ。自分が何を言ったかも忘れるし、忘れるからなのか、小さな嘘を吐く事なんか、しょっちゅうだもの。其れで責めると、俺と御前の仲だろう、ときたものよ。取り立てて仲が良い心算なんか、こっちには無いのに」
「へぇ、其れは…何と言うか」
困るね、と言って、辰顕は湯呑に入っていた御茶を飲み干した。