表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜胆 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
5/22

実方辰顕

「何?また向子を嫁に貰う相談にでも来たの?」


 例の白っぽい仮眠室で握り飯を食べていた辰顕は、御茶を飲みながら()道化(どけ)て、そう言った。


 (おさ)が来たというのに、立つ事もしなかった。


 しかし、永一(とういち)は全く辰顕の非礼を気にした様子も無く、腕組みしながら其れも良いな、と言った。


「まぁ、振られっ放しだからな。其れで貰えるなら、相談に乗ってほしいくらいだが」

 永一は、淡々と、そう言った。


 辰顕は明らかに冗談で言っているのだが、永一は(やぶさ)かでも無さそうだった。


 馬鹿丸出しだわ、と思い、向子は、そっと辰顕に耳打ちした。

「流石に、そろそろ気色悪(きぞわる)、って言っても構わないかしらね?」


「…数学より難しい事聞くねぇ。…言ったら傷付けそう、って迷う(よう)なら止めておいたら?」


 辰顕は、そう言うと、困った(よう)に笑って御茶を飲み干し、白衣を脱いで、紺色の襟締(ネクタイ)を緩めた。仕事中だったらしい。


 向子は申し訳なくなって、ごめんなさいね、と言った。


「今、御昼御飯だったの?御邪魔したわね。昨日御電話差し上げた心算(つもり)だったけれど」


「いや。午後に(おさ)と来ると聞いてはいたから、午後から休診にして、こうして、此処で食べて待っていたわけ。おやつを持って来てくれたなら、皆で、此処で食べたら良い。先刻(さっき)御茶を持って来てもらえる(よう)に頼んだから。(そう)、沢山歩いて偉かったなぁ。御腹が空いたろう」


 宗顕は、辰顕に向かって、嬉しそうに微笑んだが、永一は沈んだ声で言った。


「良いなぁ、宗顕は。褒められて」


「…うーん、(おさ)を褒めるのも不遜(ふそん)ですからねぇ。第一、九歳の子が歩ききれた距離を歩ききって偉いね、なんて言われても、馬鹿にされている気にならない?十四でしょ?もう、身長も俺とそう変わらないでしょうに」


 永一は、何だか拗ねた(よう)な顔をして、黙った。


 ええー?と辰顕は、小さな声で言った。


「あ、えっと。こんな小さな子の手を引いて、里から歩いて来てくださるなんて、偉いですねぇ、(おさ)。思い遣り深い御方です事で。…さぞ御腹が空いたでしょうねぇ」


 辰顕の、如何(いか)にも御義理の褒め言葉に、永一は、少し気を良くした様子で、微笑んだ。


 辰顕は、もう一度、小さな声で、ええー?と言った。


 永一は、純粋に褒められたいだけだったらしかった。

 向子は、呆れを通り越して、少し永一が怖くなった。


―丸きり子供なのだわ。見掛けばかり、五尺八寸と、辰兄や了兄と変わらないくらい大きくなったけど。(そう)より、もしかしたら子供だわ。こんな人間が、里の何を舵取りしようというの?空恐ろしい。


 此の人間が、何を言っても向子を全く諦めない、という事が、(なお)恐ろしかった。

 如何(どう)して、何度も断っているのに此方(こちら)の気持ちを汲んでくれないのかが、向子には理解出来ずにいた。


 何時(いつ)か何か起こりそうな気がして、向子は再び総毛立った。


 向子は今後一切、気紛(きまぐ)れにでも永一を褒めない事を、今決めた。




 辰顕は、気を取り直した(よう)に、何時(いつ)もの(よう)に爽やかに微笑んだ。

「其れで?何か御用で?」


「俺の親が誰か知らないか?」

「ええー?」


 辰顕は、心底驚いた顔をして永一を見た。


―ま、そりゃ、そんな用件で、御団子持って、行き成り職場訪問されると思って働いていないわよね。驚くでしょうよ。


 向子は辰顕に同情したが、永一は、団子を遣るから、と言った。


 其れは瑛子が作った物だが、という言葉を、向子はグッと飲み込んだ。


 仮に団子が本当に永一からの手土産だったのだとしても、外科医を団子で懐柔(かいじゅう)して自身の出生の秘密を聞こうと本気で思っているのなら、色々と考え直した方が良いというものである。せめて、包むなら金子(きんす)であろう。


「や、先刻(さっき)向子が(ほど)いてくれた風呂敷、明らかに実方本家の風呂敷だったけど…?あ、いや、はい。分かりました。もう良いや。教えるから。御掛けください。はい、椅子が足りないから、向子と宗は寝台の上に腰掛けて良いよ」


 辰顕は、呆れ顔をした後、諦めた(よう)に、テキパキと座る位置を指示した。


 何だか診療の前みたいだわ、と思いながら、向子は素直に辰顕に従った。


 永一も、素直に辰顕の前の椅子に腰掛けた。


「はい、御茶が来ました」

 辰顕が、そう言い終えると、仮眠室の扉を叩く音がして、白衣の看護婦が御茶を持って入って来た。


 実方分家の賢顕(のりあき)の妹、弥生(やよい)だった。

 向子と五つしか違わないのに、資格を取って立派に病院で働いているので、向子は尊敬している。


「ま、(おさ)?サキちゃんに(そう)ちゃんも。いらっしゃいませ。此方(こちら)、御持たせで恐縮ですけれど」


「弥生姉、御久し振り」


 向子の挨拶に、弥生は微笑んで、其々(それぞれ)に、御茶と取り皿と黒文字(くろもじ)を配って、忙しそうに去って行った。

 キビキビした動きが素敵だと向子は思った。


 忙しいであろうに、去年、清水分家の若者と縁付いた所帯持ちでもある。


 人手不足なので、身重になるまでは働いてくれるとの事だった。

 其の点に於いても、向子は弥生を尊敬していた。


「はい、皆、おやつを取って。平等にね。十八個入りだから、一人四つまで。二つ残して弥生にあげよう」

 辰顕が、診療録(カルテ)を読み上げるかの(よう)に事務的に、そう言うと、皆、検温の結果でも伝えようとするかの(よう)に、ウロウロと、辰顕の傍に在る御重の周りに集まった。


 辰顕は本当に、(おさ)であろうと、永一を特別扱いする気は無いらしい。


 永一も黙って、薩摩芋(カライモ)と餅粉と、夏に沢山採って乾燥させておいた、(よもぎ)の粉で出来た蓬団子(よもぎだんご)を、取り皿に取った。

 全く辰顕に丁寧にされていないのに、馬鹿にされたとも思っていない風なのが、向子には、よく分からなかった。


 じゃあ、御話しましょうかね、と言って、辰顕は、自分も蓬団子を食べた。


 向子は其の動作に、全く、常日頃、辰顕が来客に接する(よう)な丁寧さを感じなかった。

 辰顕にとっては、此の場に居る全員が、最近生まれた、二、三歳くらいの人間に思えるのであろう。


「一応聞くけど、今話すと、向子は()(かく)(そう)にも知られちゃうけど、良いの?」


 辰顕は確認を取ったが、永一は、構わん、と言った。

宗顕(むねあき)、言わないよな?誰にも」


「…はい」

 宗顕は困った(よう)に、そう言った。


 本当に良いの?と向子も思ったが、永一は、其の点については全く気にした様子が無かったので、向子は余計に、永一の事が分からなくなった。


―…普通、知られたくない話だと思うのだけれど。


「じゃ、誰から聞いたか知らないけど、俺が知っている事を御話しましょうかね。十四なら、もう知っていても良い頃だ。俺の頃には従軍している者も居たくらいだから、大人だ」


 今年の五月二十六日には、五年後には東京五輪開催する事が決まったというのに、其の認識は時代に合っていない気がする、と、思ったが、向子は黙っていた。

 向子の中でだけ戦争が遠くなっただけなのだ。

 辰顕は、()だ昭和二十年の夏に閉じ込められているのだろうから。


「君のお父さんは、()(ばる)(そう)(いち)。前の長の息子だよ。お母さんは、荻平さんの長女の瑠璃(るり)さん。君は、前の長の孫、というわけだ」

「辰顕さん…その、綜一、という人は?」


 待って、と、向子は、思わず永一の言葉を(さえぎ)って、言った。

「戦死した、という人?成姉(みちねぇ)に聞いた事が有るわ。綜一さんって、長の息子だったの?」

「ああ、成子(みちこ)から聞いたの?…まぁ、そんな(よう)なものかな。()(かく)、君は其の人の息子」


 坂元成子(さかもとみちこ)は、とある事情で里から居なくなってしまった、了の姉だった。

 辰顕の従妹でもある。


 辰顕は、少し沈んだ顔をしたが、永一が黙っているので、向子は続けた。


「戦死した方に奥様がいらしたって事なの?」


「いや、御察しくださいよ、向子(さきこ)さん。其れで、長の孫で通さない理由をさ。婚前交渉が有ったわけだ。婚外子なわけだよ、此の子は。祝言を上げる前に亡くなった息子の婚約者が、戦後に、妊娠している事が発覚したわけだ。大事(おおごと)だよ。『水配り(ミックバイ)』に参加していたら、夜這いは御法度。なのに、祝言前に長の息子の手が付いていました、じゃ、外聞が悪過ぎる。(おさ)実子(じっし)として戸籍の手続きをする為に、瑠璃さんの妊娠を隠して、形ばかり、長が後妻に娶って、早産で亡くなった、という事になっているが、正期産だよ」


「ちょっと、ちょっと、待って。五月生まれでしょう?(とう)は。その、妊娠したとしたって、終戦まで其れ程間が無いじゃないの。…えーっと、七月だか八月だかじゃないの?妊娠は。綜一さんって、戦死って事になっているけれど、本当に出征していたの?終戦は八月で」


 向子が指を折って数えながら、そう言うと、辰顕は頭を抱えた。


「…ちょっと頼むよ、向子。御前、(かしこ)過ぎて嫌になるねぇ。察し過ぎ。ま、色々有ったの」


「…戦死って事になっているってだけ、って事?従軍していたら計算が合わないわ?」


「向子。ちょっと。待ちなさい。あのね、誰しもが御前みたいに頭の回転が速くないの。此の子の気持ちを考えなさい。ちょっと、理解までに時間を与えてあげなさい」


 向子は、其れは婉曲に、永一の方が向子より頭の回転が遅いと言ってはいまいか、と思ったが、素直に、ごめんなさい、と言って、黙った。


 永一は、いいや、と言った。

「…どんな人だった…なんて、聞いても意味無いな」


「いや、良い人だったよ」

 辰顕は、そう言ったが、永一は、悄然(しょうぜん)として、そう、とだけ言った。


 向子は俯く永一の顔を覗き見た。

(とう)?」


「…いや、皆死んじゃったな、と思って。死んでいたら、どの道、俺を可愛がってはもらえない。どんな人か今更知ったって、意味が無い」


 病室は、水を打った(よう)に静まり返った。


 (ほだ)されそうになる、とは此の事だった。


 向子は必死で、永一に共感及び同情しないようにした。

 しかし、辰顕は、おや、という顔をして、永一の顔を見ていた。




 (やや)あって、今日は帰る、と永一は言った。


 困る、と辰顕は言った。


「御団子、食べられるだけは食べてから行ってよ。腐るだろ。俺一人で、こんなに食べられない。三十路の胃袋の大きさを考えてよ」


 永一は、拍子抜けした顔をして、はぁ、と言って、御重から蓬団子の御代わりを取ると、モソモソと食べた。


 向子と宗顕も、御重の周りに集まって、なるべく頑張って蓬団子を頬張った。




 食べるだけ食べると、美味かった、と言って、永一は仮眠室の扉の前に向かった。


 宗顕が、慌てた(よう)に、(おさ)、と言った。

「此処まで連れて来て頂いて有難う御座います。御心遣い感謝致します」


 幼い宗顕の丁寧な謝辞に、永一は、(いた)く自尊心が満たされた(よう)な顔をして、行き成り宗顕を抱き上げて頬擦りした。


 宗顕はキョトンとしていた。


 向子は其れを見て鳥肌が立った。


―急に。何かしら、其れ程親しいとも思えないのに、突然距離を縮める(よう)な行動を取る事が有るのよね。幾ら何でも頬擦りは行き過ぎではないかしら。此の子は、もう九歳よ?


 容姿が良いので、其の永一の、行き成り距離を詰める行動が、時として、里の女の子を惹き付ける魅力になり得る事は確かだった。


 だが、向子は、其れを無礼に感じ、一定の距離以上、永一に近寄られる事を好まない。


 向子にとっては、永一の距離感が既に嫌なのだ。


 辰顕も、驚いた顔をして永一の様子を見ていたが、永一は、実に満足そうに、宗顕を降ろすと、頭を撫でて、言った。

「うん、良いな、宗顕。宗顕みたいなの、作ろう。ずっと一緒に居てくれるものなぁ」

 宗顕は、終始キョトンとした顔をしていた。


 聞き違いかしら、と思ったが、向子は、よく考えると内容が凄く怖かったので、聞き返す事が出来なかった。


 永一は、邪魔したな、と言って、意気揚々(いきようよう)と帰って行った。


 永一は、結局、自身の出生の話をしてくれた辰顕に対して、礼一つ言わなかった。


 向子は、辰顕に、ごめんなさい、と言った。


「…急に御邪魔して。御電話差し上げたとはいえ、そりゃ、御仕事の休憩中よね。其れに、(とう)ったら、御話してくれた辰兄(たつにぃ)に、御礼一つ言わないのだもの。此方(こちら)が恥ずかしくなってしまう。あれで罪悪感ってものが無いのですからね。自分に非が有るとは思っていないのかしら。私、(とう)を連れて来て、本当に、辰兄(たつにぃ)に悪かったわ」


「いや、大丈夫。…ふぅん、約束の電話をしてきたのも向子で?団子も実方本家の物で、詫びを言うのも向子、ね」

 辰顕は、何か考え込む(よう)に言った。


 向子は、そうよ、と言った。


「悪気は無い(よう)なのだけれど、利己的というか、自己中心的というかね。自分の尻拭いってものをしないのよ。こっちが何かしてあげたからって、礼を言ったり、恐縮したりもしないし。いっぱしに、(おさ)になる前から王様気取りだったわよ。…実は、取り立てて嫌う程も(とう)には興味が無いのだけれど、そういうところ、苦手だわ。自分が何を言ったかも忘れるし、忘れるからなのか、小さな嘘を吐く事なんか、しょっちゅうだもの。其れで責めると、俺と御前の仲だろう、ときたものよ。取り立てて仲が良い心算(つもり)なんか、こっちには無いのに」


「へぇ、其れは…何と言うか」

 困るね、と言って、辰顕は湯呑に入っていた御茶を飲み干した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ