坂元了
「ま、長がいらしたの?」
「ええ」
古い銘仙を態々着て、丁寧に束ねていた髪を、やる気なく解きながら、向子は、笑顔の瑛子に、極力優しい声で答えた。
―昼食後病院集合だって言ったのに、昼食直後に此の家に来ちゃってね、永一の馬鹿が。…まぁ、そんな風に口に出せやしないけれど。
瑛子は悪くないのに、此の優しい義姉に、当たる様な言い方はしたくない。
腸は煮えくり返りそうだったが。
瑛子は自分の引詰め髪を撫でながら、地味な紬の襟と前掛けを直すと、優しく笑って言った。
「そうだわ、おやつの御団子、皆で召し上がって。病院に行くのでしょう?」
「宜しいの?瑛子姉」
ええ、と言って、絵本の挿絵にでも出て来そうな柔和な容貌の義姉は、丁寧に、御重に団子を包んでくれた。
宗顕も一緒に行きたがったので、向子は二つ返事で、遠慮する瑛子を他所に、有難く連れて行く事にした。
永一と二人きりで病院に向かうのは御免だった。
だからせめて、あまり気に入っていない銘仙を態々着て一緒に行く以外に、然したる反撃が思い付かなかったのであるが、子守りついでなら、宗顕も喜ぶし、渡りに船である。
「チビも一緒かぁ」
永一は、そう言って露骨に嫌な顔をした。
当時九歳だった宗顕は、困った顔をして、向子の手をキュッと握った。
瑛子に声が聞こえない所まで歩いていくと、向子は、キッと永一の方を振り返って、あんたねぇ、と言った。
永一は、青い顔をして、はい、と言った。
向子は強い語気で言った。
「昼食の後に病院で集合って言ったでしょうよ。待ち合わせ場所と時間が守れないって、あんた、子供の使いでもあるまいし」
「いや、道中、病院まで二人きりで一緒に行けるな、と思い直して、迎えに来たわけだ」
如何にも、良い思い付きだろうと言わんばかりの表情の永一に、向子は苦々しく言った。
「…其れが浅知恵じゃ無かったら、豆腐だって大豆から出来ていないし、其れが叡智なら赤子の寝言すらも哲学だわよ。豆腐の角をぶつけてやりたい頭だわね。何よ、あんた、スッカリ元気じゃないの」
「…もしかして、心配してくれたのか?」
永一は、意外そうな顔をして、言った。
向子は、何でも自分に都合の良い様に解釈する、此の幼馴染の脳天に、持っていた御重を叩き付けたい気分になったが、グッと堪えた。
「其れだけ言えるなら上等じゃないの。ほら、とっとと歩きなさい。御重持たせるわよ」
持とうか、と言って、永一は、実に良い笑顔で笑った。
向子は思わず、一瞬奥歯を強く噛み締めてから、深呼吸を一つして、ゆっくり言った。
「…こんなに、人間の笑顔が、腹が立つ日が来ようとはね。あんたは宗の手を握って歩きなさい。道中、里の子を気に掛けてやった、と知れたら、さぞ株が上がる事でしょうよ」
白張姿の永一は、成程、などと言って、素直に洋服姿の宗顕の手を引いた。
「宗顕、御前、貴顕さんも瑛子さんも綺麗な顔なのに、普通だなぁ。親に似ていない」
永一の言葉に、宗顕は、キョトンとした顔をした。
確かに、派手な顔の多い実方家の人間にしては珍しく素朴な顔立ちだが、向子にとっては可愛い甥である。
聞き捨てならなかった。
「気にしないのよ、宗。其の人、自分に言っているのだからね」
向子の其の冷たい言葉に、永一は咳き込んでから言った。
「御前…今の言葉は、キツイぞ」
「里の子には優しい言葉を掛けなさいよ。あんた、里の長なのに、態々、傷付ける様な事を」
「悪口で言った心算じゃ無かった。そうか、済まないな、宗顕。綺麗な顔じゃ無かろうが、親に似ていなかろうが、親に可愛がってもらえるというのは羨ましい事だ、と思ったのだ」
向子は、また永一が気の毒になってしまい、慰めの言葉を探した。
「あんた、前の長には、よく似ているじゃないの。可愛がられたでしょう」
「まぁなぁ。でも、宗顕は良いなぁ。サキにも優しくしてもらえるし」
向子は、返答に困って、溜息をついた。
永一は明るく続けた。
「サキが里で一番綺麗だよな、宗顕」
「そりゃ流石に言い過ぎよ、永。背だって、五尺四寸も有るのよ。こんなに背が高いと、嫌厭される事も有るでしょう?」
「でも、よく言われるだろう?」
向子は黙った。
実際、向子が望むと望まざるとに関わらず、そうなのだった。
了の母であり、向子の叔母である初も、向子の母の安幾も、若い時分には小町娘だったらしく、伝え聞いた話によると、年頃になれば、正月には晴れ着姿を一目見ようと垣根に若け衆が集まって大騒ぎになり、見合い話が降る様に舞い込んだらしい。
幸か不幸か、其の容貌を向子が受け継いでしまった事は確かだった。
何もしていないのに、垂れ目の流し目が色っぽい、などと言われる事は日常茶飯事で、流し目などしている心算も無い向子には、其れが大層迷惑だった。
永一は、尚も宗顕に語った。
「サキが一番綺麗で、優しくて、賢くて上品だよな、宗顕」
「はい」
「…あんた…うちの甥に何を言わせるのよ」
向子は、薄気味の悪い気持ちで、其の褒め言葉を聞いた。
九歳の子供にしては割合大人しい宗顕が、長程の目上に、そうだろう、と念を押されたら、はい、と言うしかない。
其れは確かに、此の甥は、自分を可愛がっている向子に懐いているが、子供は滅多に、幾ら懐いていても、自分の叔母が『一番綺麗で、優しくて、賢くて上品』とは敢えて言わないであろう。
其の『言わせている』という感じが、まるで宗顕の意思を永一が操作しようとしている様に感じて、向子は嫌だった。
しかし、永一は、当然の様に自分の意見の正しさを主張した。
「子供は素直だから理解している。だから此れは本当の事だ」
「其れは有難い御話ね。…でも私、あんたとは一緒にならないわよ?」
「また振られた。良いか、宗顕。顔が綺麗でも、此の様にして振られるのだ」
「…自分の顔が綺麗だと言えるうちは元気じゃないの?其の自慢も、もう聞き飽きたわね」
前の長は、ちょっと如何かしているくらい美形だったのだ。
五十歳で亡くなったが、とても五十路には見えなかった。
気の毒にも、崇高とも言える先代の中身を、永一は全く受け継がなかった。
が、外身だけは、色素が薄めの髪や瞳から何から、前の長に酷似していた。
「元気じゃないさ。ちょっとでも微笑みかけてほしいのに、キツイ事ばかり言われて。でも、ちょっとでも此方を見てほしいから、睨まれても構わない。ちょっとでも話し掛けてほしい。な、宗顕。サキと暮らせて、御前は良いなぁ」
「はい」
向子は背筋がゾクリとし、鳥肌が立った。
睨んだり、キツイ事を言ったりするのは、永一が嫌だからなのだが、まるで理解してくれている様子が無い。
物心ついた時から此の遣り取りは続いているが、欠片も永一の対応に変化はない。
微笑みかけてほしいのなら、他にも方法があろうに、向子に接する態度に工夫を凝らす事すら無く、何時も一方的である。
―流石に、気色悪、って言っても構わないかしらね?
そう毒づきたい向子だったが、思いがけず、宗顕の手を引きながら楽しそうな様子の永一に、思った儘の言葉は投げつけられなかった。
普段より、うんと楽しそうだったからだ。
―よく分からないわねぇ。私も、永が理解出来ないから御相子かしら。
理解出来ない上に、其れ程永一を理解したくも無い時点で、向子には露些かも永一を伴侶に選ぶ気持ちは沸いてこない。
相手も向子を理解する気が恐らく無い。
そんな気持ちで結婚したところで、一体、御互い如何する心算なのか、と思うと、余計に向子には永一が理解出来ない。
「あ。サキ。宗も。おや、長まで。何方へ?」
声を掛けられた方を見ると、愚図っている紀を抱いた了が、自分の家の庭先に立っているところだった。
着流し姿が、如何にも粋だった。
「あ…病院の本館に。辰兄の所」
向子の言葉に、そう、と言って了は微笑んだ。
昭和初期には、此処、坂元本家の敷地内の別館が病院本館だったらしい。
だから今も、坂元家と実方家の人々は、慣習で、病院を本館と呼ぶ。
―今日、了兄に会えるなら、一番御気に入りの服を着てきたのに。…ううん、馬鹿な事を。何の意味も無いわ、そんな事。
了は三年前、婚約者だった夕と結婚して、次の年に紀が生まれたのだった。向子の初恋は、十一にして、スッパリ諦めなければならない物思いに変わってしまったのだった。
―従兄妹同士じゃ、此の里じゃ結婚出来ないし、最初から駄目だって分かっていたけれど。
そうなのだ。
美しく装っても、小町娘だと誉めそやされても意味は無い。
今のところ、自分の美貌から、向子は何一つ恩恵を受けていなかった。
初恋一つ実らず、思ってもいない相手には毎日の様に求婚されるのでは、向子には、恩恵より弊害が多いという気すらしていた。
向子は、なるべく、小さな紀の着物姿だけを見る様にして、微笑んで言った。
「紀ちゃん、御昼寝前?」
「そう、愚図っちまって。こうして日向で揺すってやったら、大分機嫌が直ったよ」
そう言って笑う了の視線を、まともに受けて、向子は、青竹の林の下を歩いている時の様な、爽やかな気持ちになり、心が伸びやかになるのを感じた。
―もう諦めているけれど、こうして会うと、自分自身に戻れる様な気がするわね。十一の時みたいな、伸びやかな気持ちの頃に戻ったみたいな。
不毛でも、向子にとっては大事な物想いだった。
向子は、了と紀に、微笑んで手を振って、再び歩き出した。
「さ、此処の御宅を越しても、もう少し歩くわよ。宗は大丈夫?」
宗顕は、はい、と言ったが、永一は何故か、其れから黙ってしまった。
「何?病院が近付くや、無口になっちゃって。外科医に、其の軽口を叩く口を纏り縫いにされる心配でもしているの?」
「怖っ。怖い事言うな、御前」
永一は、向子の言葉に、青くなって、やっと口を聞いた。
如何したの?と向子は言った。
「辰兄は優しい人でしょう?怖がらなくたって大丈夫よ」
「…ああ、辰顕さんは、そんなに嫌いじゃないよ」
割と優しいよな、と、永一はポツリと言った。
そしてまた其れきり黙ってしまった。
何なの、と思ったが、向子も黙って其の儘、病院まで歩いた。
永一の機嫌を取る程暇ではないからである。