瀬原永一
あれは去年、昭和三十五年の、今頃の事だった。
サキ、と言って、十四歳の、あの日、白張姿の瀬原永一は泣いた。
御気に入りの絣を着て、御気に入りのリボンをし、自室で学校の宿題をしていた向子は、庭先から呼び出されて、心から嫌だと思ったので、よく覚えている。
「俺、父上の子じゃなかったらしい。孫だったって」
「…え?」
「如何しよう」
―…如何しよう、って。そんな事、今、相談されても流石に困るわよ。
向子は、何も言えず、縁側に、ただ座って、作業の為に一つに束ねた髪の、臙脂色の絹のリボンを撫でた。
永一は、何の遠慮も無しに、向子の隣に座ってきて、メソメソ泣いた。
向子は困り果てた。
―何時だと思っているのよ。そろそろ夕飯の準備が始まるし、其れまでに宿題を終えておきたかったのに。此方にも都合というものが有るのよ。
しかし、向子は、黙って縁側に座っていた。
両親揃っていて、兄弟仲も親戚仲も良く、弟の様にして、可愛い五つ下の甥と同居している自分が、隣で寂しく泣いている人物より恵まれている事は確からしかった。
女癖が悪いのが生理的に受け付けない幼馴染とは言え、流石に、自分の御産で母親を、十一歳で父親を、最近伯父を亡くした人間が、自分が父親の子では無かったと言って泣くのを、あっそう、の一言では片付ける気になれなかった。
「如何したいの?」
「え?」
「あんたは、如何したいの?」
そんな事初めて聞かれたな、と言って、哀れな十四歳の里の長は、淡褐色の瞳を大きく見開いて、向子を見た。
中身は子供なのに、見掛けばかり美しいのが、また哀れだった。
「今まで誰も、俺が如何したいのか、という事を聞いてくれた人は居なかった」
またも永一は、向子の同情心が刺激される事を言った。
本心では塩を撒いて、目の前の人間を帰らせたいのに、結局向子は、ただ縁側に座っていた。
―そりゃ、十一歳で長になりたかった筈は無いわよね。御飾りもいいところだもの。顔も良いし、チヤホヤされるから、女癖はスッカリ悪くなったけど、子供よね、未だ。
自分には御前の出生の秘密は関係無いので帰ってほしい、という一言を、向子は飲み込んでしまった。
永一は、全くの美しいものを見詰める目で向子を見てきた。
何時もの目だった。
向子は、うんざりした。
自分は、そんなに立派な人間でも無ければ、夕より美しくも無い、と思う。
「綺麗だなぁ。世が世なら巫女だったのだろうな、御前は」
ウットリとした顔の永一は、言ってはならない事を言った。
向子はカチンと来た。
「…今度、巫女とか、そんな事言ってみなさい。箒で縁側から塵と一緒に叩き出すわよ」
思わず低い声で言ってしまった向子に、永一は、青い顔をして、はい、と言った。
世が世なら、苗の神教の巫女だったかもしれない、というのは、向子が常に抱いている懸念で、巫女の二文字は向子には禁句だった。
絶対になりたくない。
其れが、どれ程過酷だったか、向子は、嘗て巫女だった叔母の初から聞いていた。教義が廃れて良かったというものである。
向子は、同情心も何もかも吹き飛んで、冷たい目で永一を見て、言った。
「あんたが誰の子かなんて関係無いわよ。嫌な事を言うなら嫌いだし、立派な人間なら敬うわよ。自分に如何にも出来ない生まれだけが、あんたの扱いに関係するとは思わない事ね。埖拾いの人だって、此処を綺麗にするのだという気概で遣っているのなら美しい心根の、誰よりも素晴らしい人物だし、見掛けばかり立派でも、埖を拾う人を馬鹿にして、此れでも拾えと埖を放る様な人間が居たら、そいつが埖よ」
如何したいの、と向子は続けた。
「長でも辞めたいわけ?」
「…いや…」
「結局、知っても今の生活に変わりはないのなら、忘れなさいよ。知らなくても良い事だったって事よ。御父様には可愛がっていただいたのでしょう?」
「ああ…可愛がっていただいた…。でも」
俺の親は誰だったのだろう、と、永一は呟いた。
―流石に、知らないわよ、って言っても構わないかしらね?
そう毒づきたい向子だったが、悄然とした様子の永一に、思った儘の言葉は投げつけられなかった。
良いわ、と向子は言った。
「こうしましょう。あんたが本当は前の長の息子ではなくて孫だった、って事なら、前の長には、息子が居たのだわ。其れが多分、あんたの父親でしょうね。誰か信頼出来る人に聞きましょうよ。憶測が一番不安を生むわ。明日、辰兄にでも聞きましょう、一緒に。明日昼食を食べたら病院に集合。今日は、もう解散。鰹節を削らないと」
「か、鰹節?長の俺が来ているというのに、味噌汁の用意なんかを優先させて、俺を追い返そうというのか?」
行き成り押しかけて来て、自分の話ばかりする奴、と思い、向子は出来るだけ嫌そうに言った。
「此れから我が家が味噌汁の出汁の用意をするって分かっているのなら、もっと早い時間に来なさいよね。夕飯の支度の前に突然来るから、私、宿題終わらなかったじゃないの」
如何してくれるのよ、と向子が言うと、永一は、青い顔をして、はい、と言った。
「はい、解散」
「サキ」
「まだ居る気なら厨を手伝わせるわよ。隠元豆の筋取りくらいなら、あんたでも出来るでしょう」
「…長の俺に、か?」
自分が長だから、自分が偉いから、自分が悲しいから、という事で正当化し、夕飯の支度時に来た非礼を詫びる気も無いらしい、と思い、向子は吐き捨てる様に言った。
「夕飯の約束をしていたなら別だけど、黙って突然押し掛けて来て、夕飯の時間まで居る様なら客じゃないわ。キッチリ働いてもらうわよ」
「御前なぁ」
「こっちの方が年上ですからね。少しは敬ってもらわないと」
「年上ったって、たった三ヶ月だろう?」
「学年は、こっちが一つ上。先輩よ。五月生まれさん」
此の遣り取りは何時もの遣り取りだった。
何時もの様に、永一は悔しそうに唇を噛んだ。
永一は、五月十八日、何と、二月十八日生まれの向子と、本当に、殆ど三ヶ月違いで生まれてきたのだ。
「ふん。何時もの遣り取りが出来る様なら上等じゃないの」
向子の言葉に、永一はハッとした顔をした。
向子は続けた。
「大体、急に来て、明日、自分の出生の謎解きに付き合ってもらえるなんて、かなり親切にされている方だとは思わないわけ?あんたも早く帰って何か食べなさいよ」
此処から起きる事は向子も知っている。
何時もの、あのウットリとした目で見られるのだ。
真っ平御免だわ、と思い、向子は踵を返しながら言った。
「病院に集合って言ったからね。明日よ。忘れないで頂戴よ。はい、解散」
向子は絶対に後ろを振り返らなかった。
其れでも、背中に永一の視線が突き刺さって来る様な気がした。