実方向子
顕彦が壁の開閉器をパチリと倒すと、蔵の中は俄かに仄明るくなった。
実方本家の蔵の中は、ヒンヤリしている。
里に電気が通ったのは昭和三十年の事だ。
親類である、向子の母方の祖父の坂元吉雄が里を出て、細君である和以の兄達の興した電気会社に勤めた縁で、此の辺鄙な場所にも電気が通う様になったのだ。
祖父母の吉雄と和以には、向子は会った事が無いが、父経由で、時々手紙や贈り物が届く。
新しい物好きだった父方の祖父、実方忠顕が、昭和二十七年に亡くなってしまったのは残念だった。受像機放送や電灯を、祖父は喜んだだろうと思うからである。七十七歳まで生きてくれたから、平均寿命よりは相当長く生きてくれた、とは思うものの、忠顕が亡くなってから、物事が妙な風に動き出した様に、向子には思えてしまう。
向子は、髪を束ね、顕彦が渡してくれた襷をかけた。
顕彦は笑って、よし、と言った。
「向子。其処の箱の中身、全部出してくれ。屑が入っていたら、こっちの紙袋に入れて、中身は其処に並べてくれ。埃を払う」
「はい」
向子は屈んで、木箱の蓋を開けた。
顕彦が手拭いを渡してくれたので、口を覆う。
顕彦が、腕組みしながら、五十路とは思えない、若々しい表情で微笑んで、言った。
「で?何があった?」
「え?」
「分かるよ。御前最近、嫌な事があると、辰の所に行くじゃないか」
「御父様には御見通しなのね…」
「御前が辰を心に懸けているって言うなら何だが、そうでも無さそうだからなぁ」
「…御父様は、サキに甘いわね。叱らないの?男の部屋に行った、って」
遅くに出来た末娘の向子に、両親も兄も甘い。
しかし流石に辰顕の寝台に滑り込んでいると知ったら、どんな顔をされるか、と思うので言えないが。
顕彦は明るく笑って言った。
「一応注意しただろ?何回か。で、言っても聞かないからには理由が有るのかもしれないな、くらいには思っちゃいるが。俺は、御前っていうより、辰を信頼しているからなぁ。別に、世間が思う様な事は無いだろうから、其れなら、頭ごなしに叱っても逆効果だからさ。ま、理由くらい聞かせろよ」
箱の中身を出しながら、向子は思わす、吹き出した。
「御父様。あはは、サキより、辰兄の方を信頼なさっているの?」
「そりゃ御前、悪いが、あいつとの方が御前より付き合いが長いからさ。昔は、あいつの襁褓替えまでしてやったからなぁ。俺の可愛い甥っ子だよ。あいつは、妙な事はしない」
顕彦は、で?と、笑いながら言った。
「何があった?」
「…性懲りも無く、永に求婚されたのよ。年々嫌になっちゃって…」
「…懲りねぇなぁ!」
感心すらぁ、と、言って、顕彦は大きな目を瞬かせた。
父より十一歳も年下の、母の安幾が、此の父にベタ惚れだったというだけあって、此の世代の人にしては相当な長身で、男前だと向子も思う。
加えて、話が分かる人なのだ。
向子は、聞かれれば、父には一応、全て話そうとは思っている。
母は駄目だ。
可憐なのだ。
見かけだけでなく、中身も、何処か繊細なのだ。
華奢な、あの美しい人に、向子の中身を曝け出して負わせるのは忍びない。
「…サキね、結局、永を最後まで拒否出来ないのよ。哀れになってしまって」
「向子」
「哀れだと思う事自体が傲慢だという事にも気付いているわ。そんな気持ちになるものだから、余計に永が苦手になるのよ。会う度相手を憐れんで、態々、自分の事を傲慢だって、毎回再認識したくはないものだわ。でも、あんなに冷たくしても来るのだもの、嫌になってしまう。でも、分かるの。サキは恵まれているのよ。永より、ずっとね。だから…。永には、サキが輝いて見えるのよ。でも、結婚出来ないでしょう?サキと永は」
「まあなぁ」
四年前、同じ年だが、向子より三ヶ月後に生まれた、学年が一つ下の幼馴染、瀬原永一は、里の長になった。
向子の住む瀬原集落は、所謂隠れ里である。苗の神教、という宗教を守る為に、故意に外界との交流を断絶してきた里なのだ。
学業以外で隠れ里を出て移住する、というのは、二度とは戻らないという覚悟が必要な事であるらしい。
だから、祖父母の吉雄と和以も、出たきり戻って来ない。
しかし、最近では、宗教的な風習が幾らか残る地域、という程度で、然程、他の土地との違いが有る様には向子には思えない。
其処の里の長、永一の父、瀬原修一が、四年前に胃癌で亡くなった。
長の補佐をしていた永一の母方の祖父、荻平も、あまり間を空けずに、事故で亡くなった。
永一は、十一歳にして里の長になり、今は、荻平の前に長の補佐だったのだという吉野保親という人物に擁立されている。
里には、永一の父が布いた婚姻統制、其の名も『水配り』というものが有った。
自由参加の制度だが、其処に参加すれば、長が、血が濃くならない様な組み合わせで結婚相手を考えてくれる、という制度だ。
しかし、実方家と坂元家は参加していない。
だから、『水配り』の制度の中心に居る永一と、実方本家の娘の向子では、抑、結婚出来ないのだ。向子が『水配り』に参加すれば話は別だが。
「御前を独断で『水配り』に参加させる、って事かねぇ。ま、抑は、里の内での婚姻で血が濃くなり過ぎない様に考案された、新しい制度だからなぁ。御前が入りたいなら止めやしねぇが…御前、嫌そうだなぁ」
「だって。物心ついた時から求婚されていて、其の度に断り続けているのよ。顔を合わせれば求婚されるから、もう朝の挨拶くらいに思っているけれど。…まぁ、何はさて置き、女癖が悪いでしょう?永って」
「…もてそうな面はしているけどな。女好きっていうか、構ってくれる人間にホイホイ寄って行っちまうところが有るからなぁ。しかし、よくもまぁ、婚姻統制を布いた長の後継のくせに、其の婚姻統制を無視して、よりによって実方本家の娘に言い寄ったものだと思うが。本家って言ったら御前、言いたかないが、一応里でも地位は有る心算だし、実方家は、里の学校経営も病院経営も弁護士事務所経営もやって、里に尽くしている心算だが。せめて其処の娘に求婚するなら、手順を踏むか、他の女と手を切ってから来てほしいよな」
見境無ぇなぁ、と顕彦は言った。
本当よねぇ、と向子も言った。
「里の内での婚姻で血が濃くなり過ぎない様に、っていう理由として考案された制度と考えると、サキも、参加したくはないけど、合理的だとは思っているのよ。なのに、其れを後継者が台無しにしているのですものね」
向子の住む瀬原集落は、隠れ里、という辺鄙過ぎる土地柄のせいか、名字が五つしかない。
其の五つとは、坂元家、実方家、清水家、吉野家、瀬原家である。
それぞれの家に所属する人々は、衆、または一門と呼ばれる。
『水配り』は、昭和初期に出来た新しい制度、という事も有り、里の中でも戸数の少ない実方衆と坂元衆の参加は皆無であるが、集落内でも戸数が多く、狭い、百戸程の集落内で婚姻関係に行き詰り始めている瀬原衆と吉野衆の参加は多い。
最近は、里では中立の立場の清水衆も参加しつつあるとは聞き及んでいるが、此れも、理由は、里の中で戸数が多い方の家だからであろう。
里の人口比として、抑、瀬原衆と吉野衆が多く、其の次に多いのが清水衆で、実方衆と坂元衆は数が少ない。坂元衆に至っては、もう、向子の従兄達の家である、坂元本家しか、里には残っていない。
坂元家と実方家の二家で学校や病院の経営をしているから、里の中でも一目置かれている家だが、坂元衆の里での立場は、諸事情で、大正十五年から微妙なものになってしまった。
しかし、実方衆と坂元衆は、婚姻関係も有り、懇意なのだ。
実方衆は坂元衆を庇うし、実方衆は、坂元衆が参加しない限りは、『水配り』に参加しないであろう。
坂元本家の当主、向子の叔父で、里の数少ない医師である、坂元栄が、『水配り』に反対だからである。
兎に角、今現在、実方衆は『水配り』に参加していない。
だから、未成年である現在は、長とは言え、実権を、ほぼ、後見人の吉野保親に握られている永一には、二十歳になるまでは、『水配り』で、里の住人の結婚相手を決める事は出来ないとは言え、『水配り』を布いた先代の長の息子なのに、『水配り』を無視して、よりにもよって、実方本家の娘の向子に求婚する事は、実は大問題なのだ。
其れに、彼方此方の女に手を出しているという噂が本当なら、其れも『水配り』を無視しているのと同じで、大問題なのである。
まぁ、どの身分の人間であろうと、彼方此方の女に手を出しているという噂が流れる事は、褒められた事では無いのであろうが。
「兎に角もう、うんざりしているの。…如何しても永を好きになれないのよ。でも、其れを分かってもらえる気がしないの、幾ら言っても」
「…ああ、あいつが他の女と手を切って、正式に求婚して来ても嫌か」
「…長に、そんな事をされたら、流石に実方本家だって断れないと思わない?其の点は、永の頭が悪くて助かった、と思っているの。あ」
しまった、と向子は、手拭いの上から、思わず口を押えた。
顕彦はケラケラ笑った。
「本音が出ちまったなぁ」
「…反省するわ。傲慢の最たるものよ。サキだって、自分の頭が良いとは思わないのに」
「でも、本音は、そうだろ」
顕彦の指摘に、向子は白状した。
「…ええ。父親は、教員免許を持っていて、里に学校を建てた後、病院経営の為に計理士になって。伯父二人と従兄は医師よ。遠縁も、医師、看護婦、弁護士や教員ばかり。貴兄も了兄も、昭和三十四年に宅地建物取引員の資格を取得したじゃない?其れ程難しい試験では無かったって二人共言っていたけれど」
「まぁ、そうだが」
「辛いのよ。頭の良い人に囲まれて、其れに憧れて育ったのに、如何して態々、あんな頭の悪い人間に嫁がないといけないの?話していて楽しいと思った事なんか一度も無いわ。…怖いのは、永が、学校の成績は良いって事よ。勉強と其れは別だなんて、恐ろしい話だわ。一生、永と分かり合える気がしないの。何か、話していて、壁を感じるのよ。其れが何なのか分からないけれど、何時か酷い事になるかもって思うと怖いのよ」
「…分からんでもないのが辛いところだなぁ。あれで長だからな…」
「本当よ、余計怖いわ。永が二十歳になったら、里の全ての権限を、擁立している保親さんから移行される予定、って、永が里の何を仕切れるというのよ」
まぁ、他人の事は良いが、と顕彦は言った。
「其れで、御前は?こうして家の手伝いばかりで構わないのかい?行きたきゃ、里の外の女学校に通わせてやると言ったのに。そりゃ、月のものも来て、中学校も出た、家事手伝いだ、となりゃ、永一からだけでなくとも縁談が来ても変じゃない。そんな、結婚の話が現実的になってくる時期なのは、賢い御前なら分かるだろう。執行猶予っていうのさ。甘い、贅沢だと他人は言うかもしれんが、ちょっと里の外に出て、考える時間、稼ぎな。一年遅れだって女学校に」
「そんなの、永が納得すると思う?仮に、保親さんが納得したって…」
「え?御前、まさか其れで?」
里の外での就学には長の許可が要るのだ。
先代の長の頃なら未だしも、向子と離れる事を永一が許可するとは思えないし、納得させる為には、恐らく親戚総出で永一を説得しなければならなかった筈だ。
忙しい親族達に其処までさせたい程の向学心を、向子は持ち合わせていなかった。
「其れだけじゃ無いわ、別に。貴兄も了兄も、あんなに頭が良かったのに、中学校を出たら里の為に働いて、十八になったら結婚して、跡取りを儲けて。里の若者の為に、雇用を作ろう、って、不動産業を起こそうとしてくれているじゃない。今は未だ大きな会社では無いけれど、サキは二人を尊敬しているの。二人が行かなかったのなら、サキだって行かないわ。家の事を手伝うの。何時か、貴兄達の会社の手伝いが出来たら、とは思うけど」
「向子…」
「…サキ、了兄が好きだったの」
向子の突然の告白に、顕彦は目を剥いた。
御存知無かったでしょう、と向子は言った。
「物心ついた時には好きだったの。何時好きになったか分からないくらい、自然に好きになっていたの。でも、了兄と何があったわけじゃ無いの。サキが生まれる前には、了兄には既に婚約者が決まっていて。…お夕さんって、とっても素敵な人で。敵いっこないって、何時も思っていたわ。サキ、七つも年下なのだもの。きっと妹くらいにしか、此の先も、ずっと思われないのよ。オマケに従兄妹じゃ、此の土地にいる限り結婚出来ないし。戸籍上は結婚出来たって、従兄妹婚を嫌う土地柄ですものね。…サキは、初めて人を好きになった日に、失恋が決まっていたの」
顕彦は、神妙な顔をして向子の話を聞いていた。
向子は腹を括って続けた。
「永でなくても、サキは、誰とも一緒になる気は無いの、本当は。もう了兄でないと、そんな風には思えないって事が分かっているの。だから本当は、結婚なんて考えないで、自分も宅地建物取引員の資格を取って、貴兄達と働きたいのよ」
てっきり、そんな事を言ったら、嫁に行け、と、父親に叱られると思った向子だったが、見れば、顕彦は泣いて、手拭いで目頭を押さえていた。
「御父様?」
「…知らなかった。御前の何を見ていたのか。そうか、取ったらいい、資格くらい。勉強したい、とか、誰かを尊敬して、手伝いたいと思うなら、立派な事だ」
「…御父様を泣かせてしまう気は無かったわ。ごめんなさい。…そんな、立派だなんて言われたら、困ってしまうわ。…皆に沢山可愛がってもらっているけど、サキは、そんなに立派な人間じゃないもの。…サキは、居るだけで、沢山可愛がられるけど…」
そうなのだ。
終戦後、二月十八日、父の好む白梅の咲く頃生まれた向子は、恐らく、亡くなった人達の分も、うんと可愛がられたのだ。
戦没者、傷痍兵、戦後直ぐの、二度の台風による不作、と、荒んだ中で、無事に生まれた女の子だった向子は、居るだけで、不当な程に可愛がられた。
沢山の辛いものの中で、向子は、無事に育っては喜ばれ、綺麗な着物を着せられては楽しまれ、という風に、必然的に『綺麗なもの』として育てられたのだった。
其れは向子自身の力故ではないと向子は思っている。
顕彦は、涙を拭って、笑って、言った。
「成程、結局御前、戦争の後に生まれた希望扱いされるのが辛いわけだろ。戦争を知らないから。物心ついた時には飢饉も終わっていて、家も経済状況は持ち直していたし。大変な経験をした人達に対して、自分が楽をした様で、罪悪感が有るわけだ。そりゃ、辰なんて、戦後、医学部入学が二年遅れて、其の間、樵をやらせていたものなぁ。其の後も、あいつは働き詰めだ」
顕彦の言葉は図星だった。
やはり此の父には御見通し、と、向子は腹を括って言った。
「そうね。申し訳ないのよ。何も知らないし、何も覚えていないから、結局、辰兄にも、本当には寄り添ってあげられないのよ。甘えて、自分が辛い時に傍に寄って行っているだけ。大事な人には変わりが無いのだけれど、サキが辰兄に何かしてあげられるわけじゃないの。でも我儘を言っても許されるし、居心地が良いから甘えてしまうのよ。何時までも、サキを、子供だと思っていてくれるのが、そろそろ辰兄だけになりそうなのだもの」
「本当に他人に寄り添う、だなんて幻想は、捨てちまいな」
「え?」
「如何せ、人間、自分の事も完全には理解出来やしないで死んでいくのさ。自分でない人間を完全に理解しようだなんて傲慢は捨てな」
「御父様」
「大事に一緒に居よう、と思っていれば充分だよ。俺の可愛い甥っ子と、な」
「可愛い娘、ではなくて?」
皆可愛いよ、と言って、顕彦は笑った。
「生きていてくれたら充分だよ。御前が嫁に行きたくないって言うなら、俺は何も言わん。長に此処まで言い寄られていたら、抑、里の他の男は遠慮して縁談を持って来ないだろうし。良いよ、生きていてくれたら」
「御父様」
「大事な者は増えなくても特に構わないが、減ったら堪らないよ。何しろ死に過ぎた」
悲しい顔で笑う顕彦に、今度は、向子が何も言えなくなった。
結局向子は、戦争を知らない、という罪悪感から抜け出せない。
向子は父親の顔を見た。
顕彦は微笑んで言った。
「さ、煤払い、手伝っておくれ。あっちの箱まで遣ったら、今日は終わりだ。残りは明日。宅地建物取引員の資格は、俺から御前に取得する様に言ったって事にするよ。広義の家事手伝いだ、遊ばせておくのも何だから、ってな。了の話は内緒だ。さ、埃を掃除したら、風呂入って、夕飯だ」
「はい。有難う御座います、御父様」
向子は、父に言われるが儘、作業を手伝った。
良い子だねぇ、と、何でも無さそうに父は言った。
そう、此れを言ってもらえる自分が、どれ程幸せか、向子は知っている。
父は何時もの様に、穏やかに言った。
「銀も金も何せむに、優れる宝、子に及かめやも」
其の様に、どんな宝よりも子供が大切だ、と、父は言う。
向子は父を敬愛してやまない。