国王の誤算
この国を統べるウルフ王がどんな王かと聞けば、10人中8人は「良い王だ」と答えるだろう。
国境の小さな小競り合いは頻発しつつも強欲な隣国の侵入を許さず、王都だけでなく地方の道や施設を整えるなど、彼の治世は国が安定している。
ウルフは生まれた時から王位が約束されていたわけではない。
彼には母が違う弟が二人いた。しかし幼い頃から才覚を発揮して父王や重臣たちからの期待が大きかったウルフに対し、弟たちは王子という身分に胡坐をかいていて特別秀でたところがない。
さらにウルフが成人を迎えると状況が変わる。立太子を目指すウルフは箔をつけるために軍に入り、そこでめきめきと軍才…ではなく筋肉が発達した。
生母は国防を担う辺境伯家の出身なので、そちらの血が出たのだろう。身長は二メートル近くに伸び、筋骨隆々の偉丈夫となったウルフに周囲は慌てた。
はっきり言って、ウルフは熊だった。狼という名の筋肉グリズリーだった。
失言をした側近をデコピンで五メートル以上吹っ飛ばした次の日、弟二人は慌てて臣下に下り王都を離れた。別に脅したつもりはなかったのだが、父王も慌ただしく身辺を整理し始め、ウルフに王位を譲って愛人たちと一緒に隠居したのだった。
さて、無事に王になったウルフは、重臣の勧めで他国から王妃を娶ることになった。それが友好国のミラ王女だ。輿入れのために国に来たミラ王女は夫となる男が筋肉グリズリーであることに目を丸くしたものの、特に問題なく婚姻は結ばれた。
そして生まれたのが第一王子のザンダーだ。だがザンダーが生まれたのを境に、王と王妃は寝室を共にしなくなった。ミラは確かに美しかったが、かなり気が強い性格だった。か弱い女性が好みだったウルフ王は、ザンダーの誕生で役目を果たしたとばかりに愛人を囲うようになった。
「ザンダー王子は大変優秀でいらっしゃいます。まだ十歳だというのにすでに三か国語をマスターしました」
「先日ザンダー王子が狩りでキジバトを15羽も仕留めました。剣だけでなく弓の腕も優れています」
「あの国の大臣が外遊したときの第一王子の対応は素晴らしかったですなぁ。相手の国の言葉で話すのはもちろん、料理にまで気を配られ、奥方が体調を崩した時はさりげなく女官に命じて休憩室へ誘導させて…」
「側近だけでなく従者や侍女にまで気を配って下さっていますわ。ザンダー王子が雇用条件を見直して下さったおかげで、本当に働きやすくなりました」
「夜会で初めてザンダー殿下にお目にかかりましたわ。…なんと美しい殿方なのでしょう。王妃様に似たのでしょうね」
「ポーレット嬢が羨ましいわ。眉目秀麗で優秀で心優しいザンダー王子の婚約者なのですから。あの方に娶っていただけるのなら、世界一幸せな花嫁になるでしょうね」
両親の不仲をよそに、息子のザンダーは美しく賢く成長していた。
最初は王子が優秀であることに満足していたウルフ王だったが、次第に複雑な気分になっていく。あまりにザンダーは出来過ぎていたのだ。悪く言えば可愛げがなかった。
「まあ陛下。大きな眉間の皺ですこと」
甘ったるい声でしなだれかかってきたのは側妃のカミーユだ。元は愛人の一人だったが、第二王子を産んだことで側妃に取り立てられていた。
「ザンダー王子は相変わらず人気者のようですわね」
「優秀過ぎてつまらんがな。失敗の一つでもすれば可愛げもあろうものを」
「それは頑張っているザンダー様がさすがに可哀想ですわよ」
まるでザンダーを慮っているような言動をするカミーユだが、その実は自分が生んだキース王子を王位につけようと色々画策をしているのをウルフ王は知っている。だが表向きは愛らしく慎ましく振る舞っているし、大きな散財をしたり上位貴族との軋轢を起こすような馬鹿もしないので、見て見ぬふりをしていた。
「失敗というのでしたら陛下、ザンダー様を例の国境へと派遣したらいかがですか?」
「なんだと?」
例の国境、というのは、先日から緊張が高まっているとある隣国との国境線だ。鉱山を含む肥えた土地で、ウルフ王の曽祖父の代から所有権を争っていた。ウルフ王は隣国が侵攻のために軍を出したという情報をいち早くキャッチし、すでに国境に兵を配備している。そしてそのままにらみ合いに突入していた。
「ザンダーは王太子ではないが、二人しかいない王子の一人だ。いつ戦火が切られるとも分からない場に派遣はできない」
「ザンダー様が戦争に参加される必要はありません。すぐに帰還されればよろしいのですわ。そうなれば『戦争を恐れて尻尾を巻いて逃げた』と揶揄する者が現れるでしょう」
「ふむ…」
ウルフ王は考え込んだ。
キースを王位に就けたいカミーユだが、ザンダーを王都の外で暗殺などと大それたことは考えていないだろう。彼女の実家は力が弱く、有能な手駒はない。おそらくは今言った通りの展開を本気で狙っているのだ。
ザンダーが何もできずに王都に帰還すれば、社交界で「第一王子は戦場を前に逃げた臆病者だ」という噂をばら撒いてザンダーの立場を少しでも弱くしようとするつもりに違いない…むしろそれしかできないのがカミーユという女だった。それくらいならば、ウルフ王もカミーユに一枚噛もうと思った。
まだまだザンダーにもキースにも王位を譲るつもりはない。だがザンダーの今の勢いならば、あと数年で重臣たちやミラ王妃の祖国から譲位を迫られるかもしれないと思っていた。
実の息子であるザンダーに「負け犬」というレッテルを貼るため、ウルフ王はザンダーを戦場に送り込んだのだった。
…それがこの結果なわけだ。
あの決断から五年後、ウルフ王は思うように動かない身体をベッドに横たえて自嘲していた。毒のせいで著しく衰弱し、皮膚は変色し、内臓は腐り始めている。
「情けないお顔をなさらないで下さいな」
カミーユとは違う、凛とした声にウルフ王は顔を上げた。うつらうつらしている間に、正妃のミラが部屋に入っていたらしい。自分が意識を取り戻すのを待っていたのだろう。
「カミーユは…?」
「滞りなく刑は執行されましたわ。最後までキース殿下の命乞いをしていましたが…『陛下にお伝えする』と伝えると、潔く毒をあおりました」
「そうか…」
ミラ王妃らしい配慮だと思った。
先日まで彼女は亡き先王が使っていた離宮に追いやられていた。その追いやった当人であるカミーユに復讐する機会を敢えて手放したようだ。
「キースはすでに死んでいると伝えてやれば、絶望して見苦しい姿をさらしたかもしれんぞ」
「私はそこまで暇ではありません。…それとも、カミーユ妃に裏切られたことがそんなに腹立たしかったのですか?」
「そうか…そうだな」
あの時のウルフ王とカミーユ妃の思惑は外れた。ザンダーはすぐには帰還しなかった。
彼が国境に到着する前日にとうとう両国の火ぶたは切られ、そのまま指揮官として戦場に身を投じたのだ。一度は国境の内側まで侵入した敵を、ザンダーは数か月かけて押し戻した。
その功績だけでも大したものだったが、今回の敵国は本気で国を取りに来ており、どんどん援軍を投入していた。戦況は二年ほど一進一退だったようだが、三年目からザンダー率いる我が国の軍が優位に立ち始めた。
ウルフ王の身の回りに変化が起き始めたのもその頃だった。不審な事故に見舞われることが増えたのだ。
馬が暴れたり、外遊中に頭上に物が落ちてきたり、執務室でボヤ騒ぎが起きたこともある。そして毒見役が死亡した時、ウルフ王はようやく命を狙われていることに気が付いた。秘密裏に調べた結果、犯人はケンプ大公…臣下に下った弟の一人だと分かった。非の打ち所がない後継者であるザンダーが死地に赴いたことで、王位への野心が再燃したようだった。
しかもケンプ大公に、実の息子であるキース第二王子が加担していた。王宮内に裏切り者がいるとは思っていたが、とんだ食わせ物である。
怒りに燃えるウルフ王は、ケンプ大公とキースを投獄すると、大公は数日のうちに主犯として処刑した。キースももちろん処刑するつもりだったが、さすがに実の息子が父王を殺そうとしたというのは外聞が悪い。どうやって「病死」にしようかと悩んでいたところ、カミーユ妃の訪問を受けた。
「キースが仕出かしたこと、誠に申し訳ございません」
カミーユ妃がケンプ大公とキースの企みに加担していないことは調べがついていた。
キースは華々しい戦功をあげ続けるザンダーが王都に帰還すれば、自分が王位に就く可能性は万一もないと理解していたようだ。キースの方から大公に近づいたのか、逆だったのかは分からない。しかしキースはこの企みから母を徹底的に排除し、いざという時の火の粉は最小限になるよう気を使っていた。
「陛下、キースを許してくれなどと厚かましいことは申しません。ですがどうか…どうか苦しまない死を与えてやってはいただけないでしょうか」
ケンプ大公は毒での賜死だった。しかしその毒は特殊で、丸一日苦しみ抜いて、のたうち回ってから死ぬという代物だ。実際ケンプ大公は毒に耐え切れず、壁に自ら頭を打ち付けての無残な死だった。
カミーユ妃が息子に、せめて安らかな死を与えてやりたいと願うのは至極まっとうに思われた。
「カミーユ…分かった。キースを生かしておくことはできないが、大公と同じ毒は使わない」
「…ありがとうございます。それを聞いて安堵いたしました」
うつむいたカミーユ妃の表情は見えなかった。ウルフ王は誤魔化すように手元のワインを手繰り寄せ、ぐいっとあおった。
「!!」
一瞬苦みを感じた…毒!?
すぐに味の変化に気が付いて吐き出したが、相手はその隙を見逃さなかった。腹に熱いものを感じ、ウルフ王は自分に密着していたカミーユ妃を振り払う。華奢なカミーユ妃の体は紙のように宙に舞った。
「…、…っ!!」
「ご安心を。ワインの毒はただのしびれ薬です。毒に敏感なあなたが味に異変を感じたらすぐに吐き出すことはわかっていました。毒はこちらですわ」
幽鬼のように立ち上がったカミーユは、持っていたナイフをウルフ王に見せつける。血がべっとりと付いていた…ウルフ王のものだ。ワインの違和感に気を取られた瞬間、カミーユに腹を刺されたのだ。
「あなた…ここで死んでくださいまし。実の息子と言えど、あなたは確実にキースを殺す…でも慈悲深いザンダー殿下とミラ王妃ならば、キースの命だけは救ってくれるかもしれません。今の私はそれに賭けるしかない」
カミーユは再びナイフを構えた。
しかし…。
「側妃様!!何をなさっているのですか!」
異変に気が付いた近衛が部屋に押し入り、カミーユは取り押さえられた。
ウルフ王も一命はとりとめたものの、毒は内臓深くに達しており、医師からは余命宣告を受けたのだった。
「ザンダーは戻ったら驚くだろうな。自分以外の王位継承権を持つ者が全員死に絶えているのだから」
キースはカミーユ妃の凶行を知ると、その日のうちに牢の中で首を吊った。息子の死を知らないカミーユ妃は、毒を手配したのがトリスタン大公だと自白した…ケンプ大公と同じく、ウルフ王の弟の一人だ。
もちろんトリスタン大公も捕えられ、ケンプ大公と同じ毒が与えられた。その子供たちは全員未成年だったため、貴族籍をはく奪された上での修道院行きになっている。
トリスタン大公とカミーユ妃の刑の執行を任されたのは、離宮から舞い戻ったミラ王妃だ。意気揚々と戻ってきたのかと思ったが、ミラ王妃の表情は硬かった。
「あなたの判断ミスを嗤って、土下座させてヒールで踏みつけてやろうと思っていたのに…どうして死にかけているんですか。相変わらず間抜けですわね」
「早く言え。まだ体が動くうちに言ってくれれば土下座くらいしたぞ」
「もういいですわ。無理をしてザンダーが戻る前に死なれても困ります。どうあってもザンダーの結婚式まで生きていてもらいますよ」
「酷い正妃だな…」
「あら、だから遠ざけたのでしょう」
ミラ王妃はようやくにやりと笑った。淑女らしからぬ笑い方だ。
「お前には長い間苦労を強いた…。好いた男はいないのか?再婚でもなんでもしていいぞ。宰相には儂が死んだあと、個人財産や宝石をお前名義のままにするように伝えよう。今後、生活に困ることはない」
「馬鹿をおっしゃらないで。私は王宮に残りますわ。ザンダーに嫁いでくるのはあのいけ好かない伯爵令嬢でしょう。しっかり教育してやらないと」
「ほどほどにしておけよ…」
堂々と嫁いびり宣言をするミラ王妃に、苦笑するウルフ王だった。
この数時間後、五年ぶりに第一王子が帰還した。
もちろんベッドの住人となっているウルフ王は出迎えることはできず、彼の方から部屋に入ってきたのだが…。
「はうっ…」
愛しい息子の姿を見た瞬間、隣に立っていたミラ王妃が気絶して倒れる気配がする。が、誰も助け起こすことはできなかった。
ウルフ王はたっぷり十秒は目を見開いて固まっていたが、やがてゆっくり天を仰ぐ。
「儂の血…出ちゃってるじゃん」
華奢な美少年だった息子は、自分以上にムッキムキで背の高い筋肉ゴリラに変貌していた。