王子の側近の回想
エメラルドが、生涯仕えることになったザンダー王子に出会ったのは九歳の時だ。
「はじめまして、ザンダー王子。エメラルド・ジュリアンでございます」
「はじめまして。妹のウィステリアです…」
赤い髪に琥珀の瞳のザンダー王子はエメラルドの一つ下の八歳。それはそれは美しい少年で、まだ四歳のウィズがぽーっとなるほどだった。
のだが…。
「新しい『あそびあいて』だな!今日は天気がいいから釣りをするのだ!早速行くぞ!!」
ザンダーはとんでもないわんぱく坊主だった。しかもどういうわけか女の子で大人しいウィズを気に入り、「子分ができた!」と様々な所に連れまわした。もちろんエメラルドも必死についていくのだが、悲しいかなエメラルドには壊滅的に体力がなく、二人に撒かれることが少なくなかった。
ウィズはザンダーのことが好きだったのだろう。決して木登りも釣りも昆虫採集も好きではなかったはずなのに、根気よく彼に付き添っていた。
ザンダーはザンダーで、他にも遊び相手の令嬢がいたはずなのにウィズは明らかに特別扱いだった。恋愛感情というよりは、妹として見ていたのかもしれない。王族の宿命というべきか、ザンダーも血縁者との縁に幸薄かった。
そんな穏やかな日々も、やがてザンダーにポーレット嬢という婚約者が決まると唐突に終わりを迎えてしまったのだった。
ザンダーは第一王子として帝王学を学び始め、エメラルドはその側近として活躍し始めた。
美しく聡明な王子に期待が集まるが、彼が18歳の時に転機が訪れる。隣国が戦争を仕掛けてきたのだ。数代前から争っている領地の所有権を主張し、国境に兵を出した。
ウルフ王は、何とこの戦争に第一王位継承者であるザンダーを送り込むことを宣言した。第一王子派は愕然としたが、ザンダーは粛々と王命を受け入れ、軍の指揮官として戦地に赴いた。
戦争が始まってから三年半…。
エメラルド・ジュリアンは隣国との国境を望む軍キャンプにいた。
「…ふう」
エメラルドは王都の父からの手紙を読み終えると、深くため息をつく。手紙の内容は、妹のウィズのお見合いの話がまた流れたということだった。回数もそろそろ片手の指の数だけでは数えるのに足りなくなる。
あまり感情をあらわにしないウィズだが、さすがに落ち込んでいることだろう。
「どうした、エメラルド?またお父上の体調が思わしくないのか?」
手入れされた剣の仕上がりを確認していたザンダーが声をかける。
軍の指揮官であることをいいことに、たまにこうしてエメラルドの部屋に上がり込んでくるのだ。相手が王子なので最初は恐縮していたエメラルドも、さすがに三年も経つと慣れて好きにさせている。
「いいえ、大したことでは…」
「俺とお前の仲ではないか。そうだ、ウィズは元気か?」
「…」
エメラルドは思わず顔を引きつらせてしまった。王子の側近としてあるまじき失態に、ザンダーが目を丸くする。
「もしかして、ウィズに何かあったのか?」
エメラルドは観念して事情を話すことにした。
「ウィズの婚約がなぁ…。しかも理由が身長とは…情けない男が多いことよ」
「ウィズは今回の見合いが最後と臨んだようでして…。今後は結婚を諦めて王宮に勤めると言い出しているようです」
「なるほど…ジュリアン侯爵も心労が多いことだ」
「しかも書記官になるなど…貴族令嬢では聞いたことがありません」
「書記官?女官ではなくか?」
「その…、格下の貴族令嬢にまでドレス姿を馬鹿にされているようで、ドレスを着ない騎士か書記官になると…。さすがに剣も握ったことがないのに騎士は無理ですから、書記官にしたようです」
ウィズを馬鹿にしている筆頭はザンダーの婚約者なのだが、エメラルドは告げ口のようなことはしなかった。彼女がどんな人物かは、王都に戻った時にザンダー自身が判断することだ。
それにポーレット嬢がどんなに性悪だったとしても、国が決めた婚約を簡単に解消することはできない。極限状態の戦場で指揮を執っている主に、これ以上の心労はかけたくなかった。
「俺がリースマン公爵に手紙を書いておこう。ウィズが王宮で働けるようにな」
「え!?」
「何を驚いている?ウィズが働きたいと望んでいるのだろう。兄としてそれを叶えてやれ」
「で、ですが…それではますます結婚が遠のくのでは…」
「お前のお父上が気鬱の病にかかった大変な時、俺は自分の都合でお前を手元に置いていたのだ。残されたウィズの負担を一切考えずにな」
ザンダーは第一王子という身分だが、決してその地位は盤石なものではない。生母のミラ王妃は他国の王女でこの国では基盤が弱く、第二王子を産んだ側妃に足をすくわれそうになったことも一度や二度ではなかった。
侯爵家という身分で信頼にたる人物であるエメラルドは、ザンダーが足場を固めるのにどうしても必要な人材だったのだ。だが侯爵家の跡取りであるエメラルドを長年拘束し、その家族を蔑ろにしていたことに気が付いたのはだいぶ後のことだ。
「ウィズは貶められたり蔑ろにされるべき女性ではない。もう会わなくなってから五年以上経つが、彼女の聡明さは俺の所にも伝わってきている。ジュリアン侯爵家が健剛なのも彼女の功績だろう。このまま無理に結婚したとして、ウィズが幸せになれるとは思えん…彼女が優秀であればあるほどな」
「…はい」
エメラルドは素直に頷くと、妹のために王都の知人に手回しの手紙を書くことにしたのだった。
そんなやり取りから、早一年と少し。
「…ふう」
エメラルドは、父からの手紙を読み終えるとため息をついた。
「なんだ、また家族からの手紙を見てため息をついて。罰当たりだぞ」
「できればその本を置いて、姿勢を正してから言っていただけますか?」
やっぱり勝手に部屋に上がり込んでいたザンダーは、寝そべって春本を読んでいる。もちろん部屋の主であるエメラルドの所有物ではない…ザンダー本人がどこからか持ち込んだものだ。
「いくら先日の攻撃が上手く言ったからと言って、だらけ過ぎでは?」
「心配するな、お前以外の部下の前ではしゃんとする」
「…そのうち、衆道の噂が出ますよ」
「相手はお前か?」
「…恐ろしい」
ザンダーはからからと笑う。
つい一週間前、総力戦を仕掛けてきた敵に、ザンダー率いる遠征軍は手痛い攻撃を食らわせた。敵の将軍を三人も討ち取り、指揮官だった敵国の大公子息を拘束した。
おかげでここ数日、キャンプはお祭り騒ぎとまでいかないが、ずっとそわそわしている。
ザンダーも当面の危機が去ったからだろう、明らかに緊張がほぐれて機嫌が良かった。
「で、手紙はお父上からか?」
「ええ。ウィズのことですよ。殿下のおかげで宰相閣下の下で楽しく働いているようです」
「おおっ、ウィズが!そうかそうか!それは良かった!…ん?ため息をつく要素がどこにあるのだ?」
「父が私の婚約者を見繕い始めているようです。同時に王都にウィズのための別邸を建てるつもりのようで…相手の令嬢には、そのことを了承させよと、最初からハードルを上げてくれやがりましてね」
ジュリアン侯爵は、宰相の下でばりばり働くウィズを嫁がせることをあっさり諦めたようだ。もともとウィズを溺愛していたし、気鬱にかかった時も傍で支えてくれたのはウィズだった。手元にずっと置いておく方向に舵を切ったのだろう。
「駄目な父親だな…」
「駄目ですよね…」
そんな会話をだらだらしていた数時間後、エメラルドのテントに王都からの伝令が飛び込んできた。
―――国王危篤。
ザンダーだけでなく、様々な人間の運命の歯車が大きく回り出した。