幸せに暮らしました
王太子アレクサンダーの婚姻から六日後。
マイケルが手配した辻馬車で、ポーレットは揚々とラウール家のタウンハウスに戻ってきた。虐待を受けた形跡はなく、むしろ肌はつやつやとして少しふっくらとしたようだ。
「ポーレットが戻ったわ。お父様を呼んでちょうだい」
門番は無言で馬車を通した。イーノックが事前に通達していたからだ。
ポーレットは屋敷の入り口まで馬車で乗り入れると、悠然と敷地内に降り立った。彼女は父が泡を食った顔で出てくるかと思っていたのに、現れたのは妹の婚約者のイーノックだった。
何かがおかしい…そう思った時にはすでに遅く、ポーレットは屈強な男たちに取り囲まれていた。
「どういうことなの、イーノック様。お父様はどうしたの?お父様を呼んで!」
「前当主はすでに領地で蟄居されていますよ、平民のお嬢さん」
「は?」
蟄居?平民?
イーノックの言葉がすぐに理解できず、ポーレットは眉を寄せた。
「何を訳の分からないことを言っているの?お父様はどこなの?!」
「黙れ、平民。ラウール伯爵家当主の私に対して言葉が過ぎる」
「な…!?」
「ドム・ラウールはすでに引退し、私と妻のべサニーが伯爵家を継いでいるぞ、平民」
「そんな!…でも!だいたい私を平民呼ばわりなんて不敬が過ぎるわよ!私はザンダー様の婚約者なのよ!?」
「貴様こそ、王太子殿下を愛称で呼ぶなど不敬が過ぎるぞ。アレクサンダー王太子殿下はすでに『ラウール家の長女』と婚姻されている。もう婚約者などいない」
「だから!私がそのラウール家の長女よ!」
ポーレットは怒りに任せてイーノックに飛び掛かろうとしたが、周囲の男たちに抑え込まれ、地面に押し付けられた。
「痛い…痛い!私にこんなことしてただで済むと思っているの!?」
「ここまで言ってもまだ分からないのか、ポーレット」
ようやく名前を呼ばれたことに気づき、ポーレットは痛みに顔をしかめながらイーノックを見上げる。見下ろしてくるイーノックの視線は氷のように冷たかった。
「お前はすでにラウール伯爵家から除籍されている。お前はただのポーレットなんだよ」
「そ、そんな…うそ、嘘よ!!」
「義父上はとっくに領地に送った。助けを求めても無駄だぞ」
「で、殿下は?ザンダー様がこんなことを知ったら黙っていないわ!!」
「言ったはずだぞ、王太子殿下はすでにラウール家の長女と婚姻された…養女に入られたウィステリア様とな。美しく賢い素晴らしい女性だ。顔だけで頭も性格も悪いお前なんかお呼びじゃないんだよ」
「な…!?」
ポーレットが絶句している間に、男たちは彼女を馬車の中に詰め込んでしまった。
「出して!出しなさいよ!!」
外鍵付きの馬車に入れられてしまったポーレットは、必死に中で暴れた。20分ほど奮闘したものの、とうとう体力が尽きて座り込んでしまった。
小さな窓を見ながら、イーノックに言われたことを反芻する。どうやらイーノックと陰気なべサニーはポーレットがいない間に父を追い出し、ラウール家を乗っ取ってしまったらしい。
しかもポーレットの偽物を仕立てて王子と結婚させた?…いいや、それはマイケルからすでに聞いていたことだ。
だからこそ、本物の花嫁であるポーレットが王子の前に現れ、全てを許して結婚してあげようとしていたのに。
「ザンダー様…そうよ…ザンダー様はきっと私を迎えに来てくれるわ」
ザンダー王子はポーレットが好きなのだ。あんな醜い容姿になった彼にはポーレットが必要なはずである。
「そうよ、きっとザンダー様は私を助けに来てくれるわ。そうしたらイーノックとべサニーなんか許さない。ラウール家から追い出して二人とも奴隷にしてやるわ!!」
イーノックたちに対する恨み言をぶつぶつと呟いていると、急に馬車が動きを止めた。ポーレットは息を呑んで様子を伺う。
するとどこかで聞いた野太い声が聞こえてきた。
「中に入っているのか?」
「はい、ようやく大人しくなったところです…殿下」
「ザンダー様!!!」
間違いない、ザンダー王子だ。やっぱり迎えに来てくれた。
「ザンダー様!ザンダー様!!ポーレットです。お願い、ここから出してください!」
良かった、イーノックの乱心には驚いたが、全てがあるべき場所に戻る。
「ザンダー様、イーノックがラウール家を乗っ取ってしまったのです。彼は私が平民になったと嘘をついて…養女と結婚したなんて嘘ですよね?私のために身代わりを立てて下さったのですよね?」
「…」
「イーノックとべサニーを厳しく罰しないと!それから養女に入ったという女もきっとグルですわ。大丈夫です、私は気にしておりませんから、あるべき形に戻しましょう!!」
ポーレットは閉ざされた扉が開くと信じて疑っていなかった。
だが…。
「平民のポーレットよ、結婚式のあの日、俺の下から逃げ出してくれたことに感謝する」
「…は?」
「おかげで俺は、ウィズと言うかけがえのない伴侶を得ることができた」
「ウィズって…あの大女の…え、でも」
「お前に裏切られたときは殺意すら湧いたが、この功績を以て命は見逃してやろう」
「…あ、あ…」
ポーレットは、婚約者だった男の言葉を半分も呑みこめなかった。
だが彼が自分を助ける気がないということは、声から感じる激しい怒りで理解した。
「違う…違うの、ザンダー様…。わたくし…」
再び馬車は動き出す。
中から絶望の叫び声が響いた。
「まさかいらっしゃるとは思いませんでした」
突然馬を駆って馬車に並走し出した騎士に後ろから追いかけていたイーノックたちは泡を食ったが、騎士はアレクサンダー王太子だった。
「お前を信じないわけではなかったが、どうしてもこの目で確認したかったのだ」
「そうでしたか…」
「ポーレットはどうするのだ?」
「領地の修道院に一生入ってもらいます。ポーレットのためだけの施設ですからご心配には及びません」
「ある意味特別扱いだな」
「私は途中で事故死してもらった方がいいと思ったのですが…宰相様に止められました」
イーノックはよほど悔しかったのだろう、王太子の前だというのに口を尖らせた。元婚約者も嫌われたものだとアレクサンダーは苦笑する。
ポーレットは我が儘で陰険で快楽に弱いが、これといって大きな罪を犯したわけではない。一生修道院は厳し過ぎる罰だと感じる者もいるはずだ。
しかしあのまま王妃になっていれば、彼女は必ず間違いを起こしていただろう。いくら周囲に煽られたからと言って、結婚式の日に自分勝手な理由で逃げ出したことでそれは証明された。
だからこそリースマン宰相はポーレットを切り捨てたのだ。
いつか国を大きな危機に陥れる過ちを犯す前に…。
次期王妃として社交界の華だったポーレット・ラウールが忽然と姿を消し、代わりにその座に別の女性が据えられたことはしばらくの間都市伝説となった。しかし王家に正面から問いただすことができる者はおらず、やがて彼女のことを話題にする者はいなくなっていった。
アレクサンダーがイーノックを連れて王宮に戻ると、そのまま正妃に与えられた宮殿の一角に向かう。中庭を臨むことができる部屋で、ウィステリア王太子妃とその義妹のべサニーが楽しそうにお茶をしていた。
イーノックはウィステリアを見て息を呑む。先日会った時よりも、ウィステリアはさらに美しくなっていた。
彼女を夜会で数回見たことがあるが、背が高いことを気にしてうつむき加減で地味な装いをしていたように思う。しかし薄紫色の光沢のあるドレスをまとった今のウィステリアは、まるで月の女神のような美しさだった。べサニーと同じように、自分を認めてくれる伴侶を得て、自信と共に本来の美しさを取り戻したのだろう。
「まあ、イーノック様」
「べサニー、迎えに来たよ」
イーノックに気づいたべサニーが立ち上がり、夫の隣に立っていたアレクサンダーに礼をする。
「義妹殿、そろそろ俺の妻を返してもらいたいのだが…」
「殿下ったら!」
「申し訳ございません、殿下。ウィステリア義姉様のお話がとても面白くてつい…そろそろお暇致しますわ」
「気を使わせて、ごめんなさいね。また遊びに来て下さい」
「はい、お義姉様。それでは失礼いたします」
ラウール夫妻は仲良さそうに寄り添って帰っていった。
アレクサンダーはウィステリアの隣に席を用意させて腰かける。装飾を施された椅子がぎしり、と悲鳴を上げた。
「不自由はないか?」
「まさか!王妃様にもとても良くしていただいています」
「あーうん、母上はなぁ…そんなつもりは…まあいいか」
「そういえば殿下、私も何か公務をお手伝いした方が良いのでは?」
ウィステリアはあの怒涛の輿入れの後は特に与えられる仕事もなく、ただアレクサンダーに甘やかされて過ごしている。後は義妹となったべサニーや姑のミラ王妃とお茶をする程度だ。
ミラ王妃は最初は勢いよく来るのだが、帰る時にはどういうわけか萎えているのが気になるが…。
「まあそう言うな。父上から早急に譲位したいという話が出ている。そうすれば嫌でも王妃の公務をすることになるだろう。それまでは新婚のための特別休暇だと思えばいいさ」
「…はあ」
そういうものなのかと首を傾げるウィステリアの黒髪をひと房取り、アレクサンダーはそっと口づけた。
ウルフ王からアレクサンダーへの譲位は叶わなかった。この二日後、ウルフ王は容態を急変させ崩御してしまったのだ。
そして王太子アレクサンダーは、自らの手で王冠をその頭上に乗せた。
アレクサンダー王は、歴代の王の中でも最も評価された王の一人だ。
その在位中は一度も戦争が起きず、国は平穏で豊かな時代を謳歌することになる。
一方、彼の正妃ウィステリアに関しては記述が少ない。
しかし王が側妃や妾を一人もとらなかったことや、二人の間に四人もの子供がいたことから、仲の良い夫婦だったという説が有力である。
お付き合いありがとうございました。