花嫁に逃げられた王子
「花嫁が逃げ出しただと?」
その知らせに、花婿のザンダー王子はショックで立ち尽くした。
式が始まる二時間前、礼服に着替え終わったところで真っ青になった側近のエメラルドに新郎新婦控室に連れてこられた。そこに花嫁の姿はなく、沈鬱な顔を並べる重鎮たちに嫌な予感がしたのだ。
花嫁となるラウール伯爵令嬢ポーレットが姿を消したことが発覚したのは今朝のことだったという。
夜のうちに逃げ出したようだった。
「こ、こんなことが起こるとは…一体どうすれば」
「ラウール伯爵!あなたの責任ですぞ!!」
「もう他国からの賓客も会場へ向かっているのだぞ」
「これは式を中止するしかないのでは…」
「馬鹿なことを!この結婚が失敗すれば、停戦協定を結んだばかりのあの国からどう言われるか…っ」
重臣たちは完全に混乱しており、役に立たない議論をしている。
そして当事者であるザンダーもまた、それを咎める気力もなく打ちのめされたままだった。
この国の第一王子であるザンダーは、二週間前にこの結婚式のために戦地から戻ってきたばかりだ。五年ぶりに再会した婚約者の様子がおかしいことには気づいていたが、まさか式を前に逃げ出されるほど嫌われているとは思わなかった。
「落ち着いてください、皆さま。まずはご令嬢を探しましょう」
よく通る声が部屋に響き、全員がぴたりと押し黙る。
「式を中止にすることはできません。身代わりを立てて今日だけは凌ぎましょう」
声を発したのは黒髪の書記官だった。この中では一番格下だが、誰もそれを咎めない。その書記官が一番冷静だということを皆が悟っているからだろう。
「ウィズ…」
「殿下、ご心配なさらずに。我らが力を合わせて必ずや今日を乗り切って見せます」
ウィズと呼ばれた書記官は美しい笑顔でそう言うと、周囲にてきぱきと指示を与え始めた。
「公爵様、式の予定を大幅に変更しましょう。挙式を一番最後にすることは可能ですか?」
「す、すぐに手配しよう」
結婚式の責任者を任されていた筆頭公爵が、慌てて部屋を出ていく。
「客人には先に会場に入っていただき、軽食を取って待っていただきましょう」
「厨房に指示を出してきます!」
今度はエメラルドが部屋を出ていく。
「それから…ジュリアン侯爵、事情を知っている女官たちを集めてください。花嫁の身代わりを見繕わなくては」
「え?うん…いや、はい」
「ラウール伯爵様も手伝ってください。ご令嬢はピンクブロンドですよね。似た髪の若い女性を探しましょう」
どんどん周囲の者を動かしていくウィズを、ザンダーはじっと見つめていた。
182センチの長身に、足首まで覆う書記官服を纏っているウィズだが、彼女はれっきとした侯爵家の令嬢だ。そしてザンダーの幼馴染でもあった。国王と正妃の第一王子として生を受けたザンダーは、幼いころから側近候補、婚約者候補の貴族の子女たちとの交流があった。
その中でもザンダーのお気に入りだったのがウィズだ。無口で大人しくて、でもザンダーのことを慕っていてどこにでも付いてきた。
「お前は俺の子分だ!」
ザンダーは気弱なウィズを守ってやっている気になって気分が良かった。
しかし王宮の庭を自由に闊歩できる子供時代はすぐに終わり、ザンダーには王の後継者としての教育が始まった。気が付けばウィズは王宮に来なくなり、ウィズの兄であるエメラルドが傍に侍り、伯爵家の令嬢が婚約者に決まった。
ザンダーは寂しくはあったが、自分の立場を理解してもいた。王族として生まれ、煌びやかな生活を享受している以上、優れた王になって民と国を富ませなければならない。
それからのザンダーは必死で勉強し、剣術を身に着け、社交に励んだ。もちろん婚約者となった伯爵令嬢とも会う時間をもうけ、贈り物を欠かさなかった。だというのに、どうしてこんな結果になったのか…。
伯爵令嬢は未来の王妃となるべくザンダーの母から指導を受けていたが、進捗具合は捗々しくなかったという。現国王の正妃である母は隣国の王女で、幼い頃から英才教育を叩き込まれた淑女だ。その外面がいい母が何度も愚痴を零すほどだったから、学ぶ態度も良いとは言えなかったのだろう。
外見は可憐な美姫で、幼い頃から父伯爵に溺愛されていたと聞いている。もともと婚約者に選ばれたのも、家格や家が所属している派閥のバランスを見てのことだ。長ずるにつれて王家に輿入れするという責任感が芽生えるどころか、王子の婚約者という立場を盾に他の貴族に高圧的な態度を取っていることに、母ともども頭を抱えていた。それでも伴侶となる自分がしっかりしてさえすればいいと思っていた。
彼女と結婚し、共に歩むのだと決意していたというのに。
「顔立ちや目の色はヴェールでなんとかなります」
「しかしドレスはどうする?娘の体型に合わせてしまっているだろう」
「何かあった時のためにお針子が控えています。多少の体格の差異であれば彼女たちの腕で何とかしてくれるはずです」
ザンダーがぼんやりと考えている間にも、ウィズは周囲に指示を飛ばし続けている。
どうやらあの伯爵令嬢の身代わりを仕立てるようだ。
ザンダーは思った。身代わりを仕立る…ということは、結局書類上はザンダーはあの伯爵令嬢と結婚するのか。あの令嬢が戻ったら、そのまま王妃の座に据えるのか?一度ザンダーを裏切ったのに?
冗談ではない!!
猛烈に、ザンダーの心に怒りの感情が巻き起こった。今まではただ事実に打ちのめされていたが、ここでようやくザンダーは自分の身に起こった理不尽に怒った。
ザンダーはこれまで第一王子として国のために尽くしてきた。
だというのに、これまで王都で安穏とした生活を送り、碌に勉強もせず、結婚式当日に逃亡した無責任な女にどうして気を使わなくてはならないのだろう。
ザンダーだって、結婚する相手くらい選びたかった。容姿なんて関係ない。特別優秀でなくてもいい。これから王位を継ぐザンダーと寄り添ってくれる…ただそれだけでいいのに。
あの伯爵令嬢はそれすらする努力をしてくれなかった。なのにどうして自分や周囲が彼女のために必死に駆けずり回っているのだろう。
それほどの価値があの女にあるというのか?ザンダーはそうとは思えなかった。
…せめて結婚相手がウィズほど有能だったなら。
ザンダーは、改めてウィズを見た。
侯爵令嬢であるはずのウィズは、ある理由から結婚を諦めてしまったという。宰相の下で学び、省と省との間を駆けずり回っていると聞く。兄エメラルドのコネもあったようだが、今では大臣たちに重宝がられ、可愛がられているようだ。
…せめて結婚相手がウィズほど優しかったなら。
数日前に再会したウィズは、五年も戦場にいて容姿が変わってしまったザンダーに目を見張っていた。それでも「ご無事でよかったです」とほほ笑んでくれた。あの婚約者は帰ってきた自分と目も合わせなかったというのに。
「よ、よし!それでは早速…」
「待て!!」
ウィズの指示通りに動こうとしたジュリアン侯爵とラウール伯爵を、鋭い声が制止した。
「で、殿下?」
声を上げたのは他ならぬザンダーだ。
「花嫁の代わりをこれから探す必要はない」
「で、ですが…」
皆が戸惑う中、ザンダーはウィズへと歩み寄る。ウィズは首を傾げた。
「指示に何か不備がございましたか?」
「不備はない。ただ一つ無駄がある」
「?」
「お前だ」
「はい?」
「ウィズ、お前が花嫁になれ」
数秒後、部屋の中に複数人の悲鳴と怒号が響き渡った。