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第9話 講義前

 キャンパスに入れば学生ロビーを抜けて目的の講義室に向かう。

 途中にも講義室にも人は少なかったが、いないことは無かったのに驚いた。

 達樹は目が悪い方でもなかったため、比較的後ろの方に座った。最後尾の列は式の時はともかく、結構グループで座ることが多い。

 だから、基本的に大人数で座ることはない達樹が座るには憚られた。万が一にでも座ってしまったら、隣に知らない人が座るということが起こってしまうためにあまり、気乗りはしない。

 昨日話していた薫や夏帆にだって彼らなりの付き合いがあるのだし、いつも一緒とはいかないものだろう。


 腕時計を確認したところで講義開始前四十分、まばらにいる人はスマホを触って時間をつぶしている。こんな早い時間に集団で来る人はいないようだ。

 完全手持ち無沙汰の達樹は何かすることがあるわけでもない。だから、事前に買ってある教科書を眺めていた。

 ……分からない。どうやらこの教科書、外国のもののようですべての文が英語で書かれてある。

 受験のために相当な猛勉強したわけだが、専門用語まで混ざってくると手に負えない。読み進めていくには英語辞典片手にじゃないと難しいそうだ。

 そこでポケットにしまいっぱなしにしているスマートフォンの存在を思い出す。某検索サイトを立ち上げて、検索バーに適当な英単語を突っ込んでみるとなんとびっくり日本語訳がでてくるではありませんか。


「文明の利器だなぁ」


 周りには響かない程度で思わず感嘆の声を漏らす。

 達樹が現役のころにはここまで便利なものは無かった。いわゆる電子辞書というたぐいのものはあったが今ほど便利なものではなかったし、大体の人は紙の辞書をつかっている印象がある。

 紙の辞書には紙の辞書なりの良さがあるとは思っているが、便利なことに越したことはない。高校生であればたいていの人が持っているであろうスマホで気軽に分からない単語をいつでも調べらるというのは大きなメリットだ。


 達樹もそれに倣って、その教科特有の固有名詞にについて調べつつ、教科書を読み進める。

 読み進めていくうちに達樹は段々と楽しくなってきていた。もう、十代のころのように一度読んでしまえば簡単に頭に落とし込めるなんてことはないが、新しい知見を手に入れるというのは結構楽しい。

 今しがた使った単語を明日も覚えているわけではないし、今翻訳している教科書の内容も完全には理解しきれるわけでは無い。

 それでも、自分の知ることのできる領域が増える感覚とでもいえばいいのだろうか、そういうのは褪せない喜びなんだと思った。

 顔が綻ぶ。やはり大学に入学してよかった。


 達樹はその後ずっと教科書の翻訳を続けていた。三十分かけてようやく二ページ。中学や高校で使う資料集のようなサイズをしているため、その分文字量も多かった。ゆえに翻訳するのにも暇がいるというわけだ。

 そのうえ、ネイティブが使う教科書であるため、達樹が今まで知らなかった単語の用法や文法、イディオムが度々出現する。それでも十分、翻訳作業は楽しめた。


「おはようございます」


 達樹が三ページ目の意味の分からない単語に出会った時、後ろから声をかかる。


「おはよう」


 達樹も翻訳作業の手を止めて振り向いて挨拶を返した。

 そこにいるのは薫だ。今日はどこか別の人のところにいると思っていたが、なぜか達樹のところに来てしまったらしい。

 薫は背負っていた荷物を降ろしながら達樹の隣に座る。


「何やってんすか」

「教科書の翻訳」

「あー、この講義の教科書英語でしたっけ、よくやるっすね」


 薫は荷物から取り出した教科書をパラパラとめくり、苦い顔をした。英語が苦手なのだろうか。


「まぁ、暇だったからね。じゃなきゃあんまりやらないかな」


 楽しいとかなんとかとは思っていたことではあるが、今言った言葉も本心だ。もっと自由にできるなら別のことをするし、この状況でもほかに選択肢があったらそれをしているのだろう。

 これは縛られている状況の中でやってみたらたのしかったというだけで、フリーの状況ならもっと楽しいことはいくらでもある。それにわざわざ英語の本を読まずとも日本語で書かれているものでもきっと同じ体験をするのだ。


「この講義、この教科書の翻訳配られるらしいっすよ、先輩かた聞いたんすけど」

「……まじかぁ」


 薫の言葉が本当だとするならば、達樹の今までも作業はまるで無駄ということになってしまう。

 無駄じゃない無駄じゃないと心の中で自分のことを慰めるが、この泣きたくなるような疲労感が胸から消えることはない。むしろそれを自覚すればするほどましてくような気もした。


 ため息をつきながら時間を確認すればもうすでに講義開始五分前、席ももうほとんどが埋まっている。

 教授もすでに黒板の前でスクリーンを降ろして講義の準備をしていた。

 何となく後ろを見ればやはりというか、最後尾は中のよさそうなグループが占領していた。

 座らなくて正解だったなと思っていると、後方の扉から昨日も何度も見た顔がひょこっと見えた。何かを確認するように辺りを見回していた。そして目があってしまう。

 達樹は急いで視線をさらした。あまりにもわざとらしすぎるかとも思ったが下手に絡まれてしまうよりかはよっぽどいい。

 彼女は達樹に関わることなく、まだ空いている前方の席へとすたすたと歩いて行った。

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