第5話 もう一人の知り合い
ホールから出るときも相変わらずの人だかりだった。薫と達樹も一度は立ち上がったものの出入り口の人の多さにため息をついて再び座った。
できることなら早くに出たいが、もうすでに排水溝が詰まった洗面器にように流れが滞っていた。それならばそれらが取り除かれるまで、待った方が得策だろう。
二人して苦笑いをする。
「あの」
達樹のちょうど後ろの座席、そこから声がする。それはさっきも聞いた声だ。
だが、話しかけられる理由も見当たらない。一瞬、人違いと考えたがやっぱりそれもないだろう。
確かめるためにもその声を振り向いた。そこにはやはり、大学生らしく髪を明るい茶髪に染めているちっこい女子がいた。
「さっきはすみません、あたしその……係員の人だと間違えてて……」
何かやらかしたといわんばかりに暗い顔をしていたものだから、随分と身構えてしまっていたが、思っていたよりずっと大したことではなかった。
薫は彼女をにやにやと面白そうな様子で見ていた。
「あぁ、そんなことだったんだ。気にしないで、そのくらい間違われると思って入学してるから」
「……ありがとうございます」
彼女は達樹から許しの言葉を受けると、その暗い表情を治した。
「えっと……学部はどこなんですか?」
「理学部だね」
達樹がこれから通うことになる学部は理学部。主に学問の探求を目指す学部だ。最初は就職も資格も取りやすい医学部に行こうかとも考えていたが、実習やレポートがかなりきついということを聞いて諦めた。
次点で工学部を考えていたのだが、こちらも実習がきつそうという理由で止めた。そこで最終的に理学部に決まったわけだ。
しかもこの大学、一年時点で何を学ぶかは決めなくていい。学びたいことがあったわけでもない達樹にとってそれは大変ありがたい制度だ。一度、すべての教科を受けて自分に合う、科目を探せるというのは心強い。
達樹の言葉を聞いたとき、彼女は目を輝かせた。
「あたしも理学部です! 名前教えてもらってもいいですか?」
思った以上の食いつきだった。達樹としても願ってもみないことだが、身を乗り出してまでそんなことを言われると思わず身を引いてしまう。
「俺は園田達樹、こっちが田中薫ね」
「ども」
薫は達樹の紹介の後に軽く会釈をした。
「あたしは佐藤夏帆って言います。佐藤って言われるとあたしが呼ばれてるか分からないんで夏帆って呼んでください」
「……名前呼びでいいの?」
男相手なら仲良くなればたいていの相手は名前で呼び捨てにしているが女子相手というのも、生涯の中で一人しかいない。
できれば遠慮したいという意味を込めた質問だったが、案の定伝わることはなく、むしろ不思議そうな顔をされた。
「はい、なんなら呼び捨てで。田中君も」
「佐藤って呼ばれるのが嫌なのにそれはないでしょ」
薫が笑っていた。田中という苗字も佐藤に比べると少なくはなるが、それでも決して珍しいわけでは無い。というより本人も佐藤夏帆と同じことを言っていた。
「やっぱり?」
似たような経験を持つらしく、薫に同意するように彼女も頷いた。
「呼び捨ては難しいから夏帆さんで」
達樹は彼自身の望みと夏帆の望みの折衷案になるように呼ぶことに決めた。
「苗字以外だったらなんでもいいんですけどね」
「わかるなぁ」
そうしてる間に出入り口はもう簡単に出ることができるほど人がいなくなっていた。さらに言えば、今この場に残っている三人がホールから出る一番最後のグループであった。
「そろそろ出ますか」
達樹もそろそろ外の空気を吸いたくなってきたから、頷いて立ち上がった。大勢の人がこのホールの中にいたということもあってだいぶ酸素が薄いような感じがする。そうでないにしても厳かな雰囲気が息を詰まらせるような気分にさせた。
一度ホールから出ると、さっきからしてありえないほどの音の濁音に飲み込まれた。大学に入学してできた友達や家族と話す声はもちろんのことだが、サークル勧誘のビラ配りがすごかった。
会場から出ると新入生より多いのではないかというほどに在校生の人だかりができている。実際はちゃんとスーツを着ている人の数の割合が多いのだが、そう錯覚してしまうほどに存在が多きかった。
それだけ新入生が保身だろうなぁ、と横目に流しながら達樹と薫、夏帆は人混みをぬけた。
「どこか気になるサークルは無かったの?」
「俺は無いっすね」
「あたしもですね。大体、入部式が終わった後のほうが本番らしいですし」
へぇ、と相槌をつく。入学式が終わった後ですらこんななのに、これが本番ではないというのだから驚きだ。サークル勧誘はだいたいどこも同じような感じであるが、どこかしらにその学校特有のものが出てくる気がする。
達樹も現役時代は一応サークルに入っていたが、結局続かなかった。そこで女性との出会いがあったわけだが、結局のところ分かれてしまったし、そこらあたりから行かなくなった気がする。
「園田さんはサークル入るんすか?」
今回、達樹がサークルに入るつもりがあるかどうかというと、それはNOだ。一回りも歳の若い子だけのところに入って楽しめる気はしなかったし、先輩にあたる方々に迷惑はかけたくない。
だから、その薫の質問には首を振ってこたえる。
入部式の会場は大学のキャンパスになっているため、入学式会場からまた、歩かなければならなかった。
三人でそれなりに楽しく会話しながら、今朝通った道を戻る。なんだかんだで園田達樹はキャンパスライフに胸を弾ませているのだ。