方向音痴の(自称)吸血鬼
「………………」
その日少年は、彼にしてはとても珍しく真面目な顔をしていた。
その目は何かに耐えているかのような力強さを持ち、見たものを圧倒することだろう。
「………………」
少年の普段はよく動く口は全く開いていない。
固く閉ざされ、その奥にある歯に大きな力がかかっているかのように口元が力んでいる。
「………………」
その拳は強く握られ、自身の爪が肌にくい込んでいる。
そんな事には目もくれず、少年は手に力を入れている。
「………………」
少年の頬を伝って一粒の汗が滴り落ちる。
苦悶の表情を浮かべる彼は一粒、また一粒と汗を流した。
「………………」
その時、少年はゆっくりと口を開いた。
小さく息を吸い、肺を膨らまし、苦しそうな声で呟く。
「……腹が…………痛てぇ……っ!」
時刻は午前八時五十分。
自宅のトイレに籠る少年の遅刻が確定した瞬間だった。
少年のトイレでの死闘は長く続き、彼がトイレから出たのは午前十時を回った頃だった。
「し、死ぬかと思った……マジで……腹痛で死ぬかと、死ぬかと……」
薬を飲みこみ、少年はゆっくりと息を吐いた。
だが薬の効果が効き始めると、その痛みは段々と苛立ちに変わっていく。
「絶対アイツだ……!あの保健室のロリが出した紫色の茶だ…!絶対、絶対服の一枚でも破って泣かしてやる!!」
怒りにも汚れた願望が混ざっていたが、少年の怒りは凄まじかった。
力強くバッグを持ち、そのまま家を飛び出した。
「今日で二回目の登校…もう迷うことは無い……はずだ!」
少年は不安が入り混じった声で自分に気合を入れ、学校に向けて走り出した。
「嘘だろ……」
そして五分後、完全に道に迷っていた。
力なく肩を落とし、少年はまた一人で呟く。
「はぁぁぁぁ……有り得ねぇだろ、また迷った…」
「はぁ……学校ってどっちの方向……?」
少年はため息をつく。
しかし自分の後ろからもう一人のため息が聞こえ、少年は後ろに振り返った。
「………………」
「………………」
しかし相手も同じように少年の方向に振り返っており、自然と二人の目があった。
初対面の人間同士で目があえば気まずくなり、なかなか発言も出来なくなる。
だが少年は別の理由で言葉を失っていた。
「………………」
「………………」
少年の目の前の人間は髪の長い女性だった。
しかし制服の上からマントを被っており、異様に長い爪を持ち、瞳は黒ではなく真っ赤に染まっていた。
少年の脳内にコスプレという四文字が思い浮かぶ。
「あ、あのー……」
「……はっ!」
少年が話しかけると相手は驚いたように手を動かし、自身を落ち着けようと咳払いをした。
そしてマントを翻して高らかと声を上げる。
「はっはっは!愚かな人間如きに見つかってしまうとはな!誇るが良い、この最古にして最強の吸血鬼の姿を見れたことを!」
「………………」
少年は再び言葉を失う。
女性相手なら積極的に話しかける少年も、流石にこの状況にはついて行けなかったようだ。
「ふん!我に威圧され言葉も出ないか?それも無理はないか、愚かな人間如きには恐ろしくて口も開けまい?」
「………………」
少年は小さく、だが確実に一歩後ろに下がった。
だが相手は少年が引きつった顔をしている事に目も向けず、高らかに少年を指さして声を上げた。
「ククク!貴様を始末する前に問おう!模手高校はどちらの方角に存在する?」
「……あっ」
少年はその時やっと声を上げた。
相手の本音を見抜き、同情した笑みを浮かべる。
「なんだ?恐ろしくて答えれるのか?」
「……吸血鬼も迷子になるんだな」
少年の言葉に、今度は吸血鬼を自称する相手が絶句する。
少年に指された指が力なく下に下がっていった。
「…………う、うるさい!誰が道になんぞ迷うか!」
相手は怒ったように少年に近づく。
だが自分の長いマントを踏んでしまい、相手は盛大に転んでしまった。
「………………」
「………………」
『ゴツッ!』とリアルな音が響き、再び二人に沈黙が訪れる。
少年は笑いを堪えながら相手に声をかけた。
「あの…大丈夫ですか?」
「…………痛いです」
余程痛かったのだろう。
相手は思わず標準語で少年に返答し、慌てたように起き上がって訂正した。
「ふ…ふん!今のはただの吸血鬼ジョークだ!これしきの痛み、まるでタンスの角で小指をぶつけたぐらいのものだ!」
「いや、それ絶対痛いですよね?」
少年の冷静で的確なツッコミを受け、相手は更に絶句する。
何度目か分からない沈黙が訪れ、互いに気まずい状態が続く。
しかしその時、携帯の着信音が鳴り響いた。
相手は自分の携帯の着信だということを確認し、慌てたように携帯を耳に当てた。
「あっはい細野で……じゃない、この最古にして最強の吸血鬼に何の用があって……」
「吸血鬼さん、そろそろ三限目が始まりますよ。迷子のようなら案内しますが」
「えっ……あ、じ、じゃあお願いします……!」
自分の苗字を細野と名乗りかけた相手は電話の相手の言葉を聞き、標準語で返答した。
そして一度少年を見ると、ついてこいというふうに手招きをした。
その後、相手は電話相手に道案内をしてもらい、少年はそれについていって学校に到着した。
電話を終えた相手は少年に近づき、バックからコンビニで売っているようなメロンパンを取り出した。
「これをやろう!」
「?……あ、ありがとうございます」
堂々とメロンパンパンを渡してくる相手に困惑しつつ、少年はそれを受け取った。
そして相手は言いにくそうに口元を動かしつつ、小さく少年に声を発した。
「だ、だからその……なんだ、これは口止め料だ!我は偶然、珍しく、たまたま進行方向を見失っただけだ!今日のことは黙っていろ!」
「……わ、分かりました」
相手は少年の了承を得て嬉しそうに微笑んだ後、思い出したように表情を変えた。
「分かれば良い!ならば我はもう行くぞ、眷属共が待っておるからな!」
相手はそういうと早足で校舎に向かった。
途中で二回程転びかけている相手を見つつ、少年もゆっくりと校舎に向かった。
そして靴を履き替え、ゆっくりと保健室まで歩いて行った。
扉の前で大きく息を吸い、少年は保健室の扉を開けて声を荒らげる。
「コラァ!クソ小学生教師!アンタのせいで腹が千切れ飛ぶぐらいの地獄見たじゃねぇか!!!この悪魔!チビ!貧乳!」
今朝の恨みを晴らすため少年は保健室の主に叫ぶ。
しかし部屋には誰も居なく、少年に反応する声はなかった。
「あれ?…はぁ……マジかよ、居ないのかよあのチビ……」
少年は大きくため息をつく。
しかし後ろから袖を引っ張られたことに気が付き、少年は振り返った。
「私の保健室によく来たな、少年。何か叫んでいたが大丈夫か?相談なら受けよう」
「…………はい」
少年は何も言い返せなかった。
つい先程暴言を吐いた相手である紅羽が後ろから現れ、目が笑っていない笑みで見つめられたからだ。
少年はそのまま保健室に入り、半場無理やりソファに座らされた。
「さて……お茶でも出そうか、少年」
「……嫌です」
少年に先程の覇気はい。
真っ直ぐに自分を見つめる怒りが多分に含まれた視線に耐えられなかったからだ。
「そうか…ん?それはなんだ?」
「?…えっと、なんのことですか?」
紅羽は少年に近づくと、少年の隣に小さく腰掛ける。
「ほら、ここに何かあるだろう?少しこちらに向きたまえ、少年」
「……は、はい……」
少年は訳が分からないといった様子で紅羽の方向に体を向けた。
その瞬間、紅羽は素早い動きで少年の胸に手を伸ばした。
「っ!?ちょっ……!」
少年の制止を無視し、紅羽は少年の胸に注射器を突き刺した。
そして中に入ってある薬品を全て注入し、小さく呟いた。
「君が悪いんだぞ、少年」
「うっ……ぐ……」
少年は何かを言おうとし、そのまま動かなくなった。
紅羽はそんな少年を見つめて妖しく笑う。
「私をチビと罵った罪は重い、それ相応の罰を受けてもらおう」
紅羽は少年が持っていたメロンパンを奪うと立ち上がり、少年を見下ろした。
「中身は超強力な睡眠薬と痺れ薬だ、三時間程眠り、起きれば八時間程の体の痺れに苛まれる」
紅羽は無残にそういい放ち、恨みの塊のような声で最後に呟いた。
「私を怒らせるとこうなるんだぞ、少年」