紫色のお茶とは一体
壁にかけられた時計の短針は十一を指し示している。
しかし太陽が昇っているわけではなく、代わりに綺麗な月が空を支配していた。
「まぁまぁ、お茶でも飲んで落ち着きたまえ、少年」
不運な事に夜遅くまで学校に残されていた少年の目の前にお茶が出される。
しかしそれは少年が知るお茶とは違い、紫色に染められた謎の液体だった。
「あはは……冷めたらいただきます…」
少年は世間一般的な例えでいうと馬鹿だが、流石に目の前の毒々しい液体を躊躇なく飲める程ではない。
「ふむ……まぁ良い、ところで何故こんな時間まで残っていたんだ?少年」
「ええっと……」
少年は話した。
自分が教室で昼寝をしていると、気がつけば誰にも起こされず夜を迎えていたことを。
校門に向かう途中で電気が付いている部屋を見つけ、消し忘れかと思い電気を消そうと思い部屋に近づいたことを。
「ふむ……不運な少年だな、笑い話にするには丁度良い」
「わ、笑い話って……」
自分の話を簡単に切り捨てた相手に少年は不快な感情を覚える。
しかし相手は少年の目を見ながらこう答えた。
「なんだ、私に歯向かうなら治療に見せかけて毒を仕込むぞ?少年」
少年は押し黙る。
お茶と称して毒々しい液体を出す相手を怒らせるわけにはいかないと思ったからだ。
「すみません…………あ、そういえば先生はなんて名前なんですか?」
話を変えようと少年は相手に質問をする。
相手は一瞬悩んだようだが、面倒そうに自分の名前を口にした。
「私の名前は紅羽だ、見ての通り養護教諭の先生だ、よろしくする気はあまりない」
少年は薄々と感じていたことに確信を持つ。
ベッドや薬があることから自分は保健室に居るとは思っていたが、よく見ると血がついている器具や怪しげな箱があることから保健室とは到底思えなかった…否、思いたくなかったからである。
「……なんだ?何か疑問があるのか?」
「……あ、ありません」
少年はどうしても聞きたい質問があるが必死に我慢する。
140cm程の身長でかなりの童顔、相手の年齢をこれだけ聞きたくなった時は他になかった。
少年は場に流れる微妙な空気を解消しようと、とりあえず出されたお茶に口をつけた。
色は酷いものだったが味は特に悪くはなく、少年は二口三口とお茶を飲んでいく。
「そうだ、まだ君の名前を聞いていなかったな、君の名前はなんていうんだ?少年」
その時、少年は心の中でガッツポーズをした。
自己紹介をしようとしても不運な事態が重なり、まだ自分の名前を言えていなかったからだ。
「俺の名前は……」
少年は再びネクタイを締め直し、小さく胸を張り、堂々と自分の名前を口にした。
「湖内…」
その時、保健室内にケータイの着信音が鳴り響いた。
少年はまさに開いた口が塞がらないといった状態で着信音を聞いた。
「…なんだ景君か、こんな時間になんのようだ?」
紅羽は特に気にすることもなく電話に出る。
しかし少年は彼女が言った名前に聞き覚えがあるような気がした。
「なに?あのアホがまた騒ぎを起こしたのか?……やれやれだ、もう半年程謹慎させておけ」
紅羽は嫌そうに電話の相手に返答する。
恐らく楽しい話題ではないのだろうと少年は適当に考えた。
「あぁ、とりあえず始末は私の方でやっておくさ。君も休みたまえよ」
そういうと紅羽は電話を切った。
少年はどうしても聞きたいことがあり、それを抑えきれずに口に出した。
「あの……今の電話の相手って…」
「ん?あぁ、木宮景君だ、君の担任だろう?」
少年の脳内に派手な容姿の担任が思い浮かぶ。
自分を学校まで送ってくれたことで感謝はしていたが、自己紹介を邪魔されたことで殺意がふつふつと沸いて来るのを感じた。
「そ、そうですか………あ、ところでさっき言ってたアホが騒ぎを起こしたっての大丈夫なんですか?」
少年はもう一つの聞きたいことを何気なく質問した。
すると相手は嫌そうに答えた。
「三年にバカを極めたアホがいてな、また問題を起こしたと報告を受けたところだ。君もアイツに目をつけられないように気をつけたまえよ」
「……そ、その人なにしたんですか?」
少年は恐る恐る質問を重ねる。
紅羽はゆっくりと答えた。
「今回は食い逃げだ、そして前回は暴力沙汰、前々回はペットショップからウサギを強奪、その前は……」
「……よく逮捕されませんね」
「まぁ…警察に権力とコレを使って黙秘させてるからな」
そういうと紅羽は手の平を上に向け、親指と人差し指をくっつけた。
それは所謂金を表すもので、少年は感心したように声を出す。
「警察を騙されるなんて……流石校長ですね」
「いや?黙らせているのは校長ではなく私だ、圧力をかけたら簡単に黙ってくれたよ」
少年は驚いて紅羽を見つめる。
大きなソファに座る小さい小さい彼女が大きい大きい権力を持っているなどとは到底信じれなかったからだ。
「ふん、まぁそんな話はどうでもいいが……少年、アイツには気をつけておけよ」
「は、はい……どんな人なんですか?」
紅羽は話を戻し、少年はそれについて質問する。
せめて女子生徒なら積極的に関わることを視野に入れるからだ。
「…名前は来栖芽茶、三年で写真部の部長だ、そして性別は不明」
「…え、性別不明なんですか!?」
少年は女性なら歓迎するが男性は基本的に拒絶する、性別不明というのは少年にとって大きな問題だった。
「……中性的な容姿、声は高くもなく低くもなく、上半身は私服だが下半身は女子の制服のスカートと男子の制服のズボンを併用、トイレは男子用と女子用を交互に使い、体育は絶対に出席しないからな…性別が判断できない」
「……うわぁ」
少年は小声で呟く。
女性であれば問題ないが、男性であれば絶対に関わらないと心に誓った。
「しかもアイツの身体能力が異様に高い、おかげでアイツの写真部は毎年トップに食い込んでくる」
「…?写真部って事は、コンクールか何かでトップにってことですか?」
紅羽の言葉を上手く理解出来なかった少年は質問を口にした。
「なんだ、知らないのか?」
少年は紅羽の質問を肯定するように頷く、相手は小さくため息を吐くと説明を始めた。
「球技大会や体育際……学校行事といえばクラス、または学年単位で行うものだろう?」
「そう…ですよね、大体はクラス単位かなーって思うんですけど」
「しかしこの学校ではクラスや学年ではなく、部活ごとに別れて行うんだ」
聞いたことのない情報を耳に入れた少年は目を丸くする。
そんなことも知らなかったのか、と言いたげに紅羽は説明を続けた。
「全生徒に部活への強制入部が義務付けられていて、学校行事はその部活ごとに行うわけだ。そして今の三年は身体能力が高くてな、うちも夜井を使っているがバスケ部や写真部が強くてな」
「なるほど……で、その来栖先輩が写真部に入っている、と」
「そういうことだ、体育祭などの評価は個人の成績に関わってくるし、君も部活選びは慎重にな」
その時、壁に掛けられた時計から音が鳴り響く。
それは日が変わった事を示すものだった。
「ふむ……私もそろそろ帰るか。君も帰りたまえよ、少年」
「あ、はい……さようなら」
そういうと紅羽は保健室の戸締りを始めた。
少年は紅羽に挨拶をすると保健室を後にする。
一人きりになった保健室内で紅羽は思い出したように呟いた。
「……む?そういえば出会い頭に子供扱いしたことへの復讐に毒入りの液体を飲ませたはずだが……効果は見られなかったな」
そう言いつつ紅羽は戸締りを終わらし保健室を後にする。
「強力な下剤を入れたはずだが………まぁ良い、次に会った時ら即効性の痺れ薬でも飲ませてやろう」
残虐に笑いながら放たれた紅羽の言葉は暗く静まり帰った廊下に響き渡った。
紅羽に毒を盛られたことなど露知らず、なんとか校門をよじ登った少年は帰路についていた。
「はぁ……散々な一日だったな」
少年は一人でそう呟くと、今日あったことを振り返るように声に出した。
「おにぎり女に騙されて道に迷うわ……動く人形に腕を掴まれるわ……入学式には遅刻するし、おまけに自己紹介も出来ないわ……挙句の果てには学校に取り残されるわ……」
少年はそう呟きつつ、ポケットに入れてあったハンカチを取り出す。
「とりあえずこのハンカチを落とした人を探して……そしてその人の着替えシーンを見るという願望を果たすまでは……!」
少年はハンカチを握りしめる。
欲望に塗れた目が捉えるハンカチが自分が落とした物だとは露知らず。
その後少年は何事もなく家に帰り、シャワーを浴びて夕飯を済ませ、ベッドに入って眠りについた。
翌朝、目が覚めた少年に強烈な腹痛が襲いかかったのはただの余談である。