第7話 奇妙な親子関係
朝から酒を飲めるのは自由業の特権だ。しかもそれが『ただ酒』なら尚更うまいはずだ。しかし、今枝にとってそれは半ばヤケ酒であることは否めない。昨夜の失態を八神青年に報告するに際し、素面ではいられなかったのだ。花梨が避難している特別室の応接セットで今枝と青年は向き合っていた。
「言い訳はしない」と、今枝はウィスキーをグラスの氷に注いだ。
特別室に備え付けの高価な液体は岩肌を舐める湧水のように氷に纏わりつく。カランと鳴った氷が室内の静寂を際立たせた。
それを合図に青年が口を開く。
「貴方の責任ではありません。不可抗力でしょう?」
「いいや。後ろを取られたことが問題なんだ。探偵ともあろうものが恥ずかしい限りさ。それも短期間に二度もな」
そう言って今枝は花梨に目を向けた。この豪華すぎる特別室にあって窓際に佇む少女とその向こう側に広がる緑の構図は印象派の絵画を連想させた。
青年は今枝の視線の先を追う。
「その件につきましては重ね重ね申し訳ありません」
そういって彼は目を伏せながら花梨の暴行について詫びた。
「いや、油断していた自分が悪い」
「念のために病院に行かれた方が良いのではありませんか?」
「遠慮しておくよ。もう痛みは無い。ただ、いい加減、気を付けるよ。あんまり殴られ過ぎるとお気に入りの帽子が被れなくなってしまうからな」
今枝は強がるようにそういって自らの後頭部を撫でた。
窓際の花梨は相変わらずの無表情で外の緑を眺めている。外は少し風が出ているようで穏やかな日差しを浴びていた緑のシルエットがせわしなく身を揺すっている。それとは対照的にこちら側の世界は、まるで時の流れが歩を緩めたみたいに異質な空気が淀んでいる。広々とした豪華な部屋に居ながら、なぜか僻地に取り残されたような気分になってしまう。たまらず今枝はウィスキーを胃に流し込む。ごくりと喉の鳴る音でさえ山奥の湖面に投じられた小石のように静けさに染み入ってしまう。
今枝がやれやれといった風に首を振って青年に向き直った。
「なあ。ダイナマイト・アツシを拉致した連中は何をしようとしてるんだ?」
青年はソファの上に配置されたマネキンみたいにじっとしている。ただ、今枝の質問に対しては微かに瞬きをみせた。
今枝はグラスを置いてじっと青年の目を見る。
「イマイチ信用できなかった。昨夜のことがあるまではな。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか? スティモシーバーとやらを手に入れると奴等にどんなメリットがある?」
「それはまだ……調査中です」
「まさか本当に手元端末で人間を意のままに操ることができるとでもいうのか?」
「可能です」
青年はそう断言した。それを聞いて今枝が呆れる。
「冗談はよせよ。そんな非現実的なこと……」
「それほど複雑な原理ではありません」
「……どういうことだ?」
青年は少し前傾姿勢を取って今枝の顔を注視した。
「へんとう体では楽しい記憶と嫌な記憶を受け持つ細胞群が異なることはご存知ですか?」
「何の話だ?」
「脳の話です。記憶そのものは海馬に蓄積されますが、そこから『へんとう体』に至る回路の違いによって、それは良いものか悪いものか変わってくるのです。それをミスディレクション(判断力を間違ったほうにそらせる手法)によって書き換えられるとしたらどうでしょう?」
「……なんだか良く分からんが『洗脳』が捗りそうだな」
「洗脳ですか。それならもっと単純です。外部からの操作で脳に刺激を、それも痛みを与えるだけで洗脳することは可能です」
「条件反射か。言うことをきかなければショックを与えるという訳だな」
「手っ取り早く命令に従うようにしたければ、ずっと不快な刺激を与え続けて条件によって刺激を強くしたり弱めたりすれば良いのです。つまり飴と鞭ですね」
青年の説明を聞いて今枝は唸った。
「むぅ……確かに簡単な原理だ。それがスティモシーバーという装置の正体か」
「いいえ。そんな単純なものではありません」
青年はきっぱりとそう言い切った。そして背筋を伸ばして軽く息を吸い込んだ。
「デルガード教授は天才でした。教授に従事していた研究者たちが残した記録を読む限りそれは疑いようのない事実です。例えば教授は、剥き出しになった動物の脳に刺す電極の位置を変えながら動物の表情を読み取ることで脳のどの位置にどれぐらいの刺激を与えればどのような影響が意識に生じるのかを把握することができたそうです」
それを聞いて今枝は顰め面をみせた。
「それがどれだけ凄いことか良く分からんが……グロテスクだな」
「意識ですよ? 単なる電気ショックではありません。外部からの刺激で意識に作用させるというのは相当なものです。いわばミスディレクションです」
「感情も行動も自由自在か」
「はい。その通りです」
「まるで強力な催眠術だな。だったら漫画みたいに『幻術』を見せることもできるんじゃないか。現実ではない世界、例えば仮想空間で生活するなんてことも可能だろう」
「さすがにそこまではできません。視覚から得られる情報量は多すぎます」
「似たような仕組みがあるだろう。目に入れるタイプの端末が。ファントムと連携させれば夢の世界と現実が融合できるんじゃないか?」
「所詮それは目を通して映像を見せているだけです。脳が映像を直接認識しているわけではありません」
「それだとバーチャルリアリティの域を出ないってことだな。残念だ」
「今枝さんは仮想世界での生活をお望みなのですか?」
「古い探偵映画が好きなんだ。体験だけでもいいんだがな」
青年は今枝の言葉に関心を示すでもなく軽く首を揺らした。
「似たようなことはできると考えられます。スティモシーバーを応用して現代の技術と連結すれば可能かもしれません」
今の法律では端末を脳に直接接続することは禁じられている。それにSF世界のように脳と機器が融合するには大きな壁があった。それは情報を直接脳に送り込む方法が確立されていないということだ。脳からのアウトプットについては脳波をパターン化することで機械がそれを読み取り作動する仕組みが開発されている。が、逆に機械から送り出す情報を脳に送り込む方法は未だに難易度が高い。例えば画像ひとつとっても、それは肉眼を通してでなければ脳に正しく認識させることができない。21世紀の初めに視覚障碍者の後頭葉脳表面に電極を張り付け、視覚野に刺激を与えて簡単な文字(実際には百個程度のドット)を認識させることに成功した例があるが、開発者であるドーベルの死後は研究所そのものが閉鎖されてしまった。また、この分野の研究は常に倫理的な制約があって進歩には相当の時間を要しているのが現状だ。つまり、情報をコンバートして脳に直接インプットする技術がもっと発達しない限り、本当の意味での『電脳』は実現できないのだ。
「それで理解できた。簡単にいえばスティモシーバーは脳と機械を繋ぐ画期的な装置だってことだな。なるほど金の匂いがプンプンするぜ。その技術を独占できれば莫大な利益を得ることができる」
「それも考えられます。ですが、悪用もできます」
青年の言葉を聞いて今枝は考える。昨夜の拉致事件、何者かの発砲、ホテルの部屋に侵入して今枝を脅迫した男、都内の連続殺人、そしてこの得体の知れない青年とその背後にある謎の組織……。
今枝は軽く伸びをして首をパキパキと鳴らした。
「それにしても、そんな夢の装置が何十年も前に発明されていたというのは驚きだな」
「ええ。恐らく教授が最後まで研究を続けていればもっと早く完成していたでしょう」
「どういうことだ? 発明したのはその教授じゃなかったのか?」
「原型は教授の手によるものです。ですが、実用化されたのはその後です」
「最後まで続けていればと言ったな? 教授は途中で亡くなったのか?」
「いいえ。止めてしまったのです」
「学界から追放されたからか? それとも叩かれ過ぎて嫌気がさしたとか」
「違います。スペインに逃れた教授はしばらく研究を続けていたものの自ら研究を止めてしまったのです。正確には手を引いたのです。その理由は定かではありませんが……もしかしたら教授は、その先にあるものに気付いてしまったのかもしれません」
「その先にあるもの……何だそりゃ?」
「分かりません。真実に気付いてしまったが故に、そこから一歩も前に進むことができなくなってしまった。その結果その先に進むことを躊躇したのかもしれません」
「真実ねえ……確か教授は晩年、スティモシーバーで人を自在に操ることは出来ないと公言していたそうだな」
「表向きはそうです。ですが、教授の死後、弟子たちによって研究は密かに続けられてきました。極秘裏にです。決して表には出せない方法によって」
「だいたい想像ができるな。つまり、人体実験か」
今枝の言葉に対して青年は少しも表情を変えることなく頷いた。
「ええ。例えばオランダでは『断続実験』というものが行われていました」
「聞いたことが無いな。どういうものだ?」
「被験者の身体を拘束して窓もなければ入口もない真っ白な部屋に放置するのです。拘束には東洋医学が使われました。針で麻酔をするのです。その結果、被験者は橋底部の両側障害で目しか動かせなくなる『閉じ込め症候群』と同様の状態になります。そして時間の概念を奪われてしまうのです」
「何のためにそんなことを?」
「意識、というより『自我』とは何なのかを探る為の実験です。脳波や血流は勿論、シナプスが発光する様子を徹底的に観察するのです」
「……で、被験者はどうなったんだ?」
「それは聞かない方が良いでしょう。気分が悪くなると思われます」
酷いことをするもんだと口にする代わりに今枝はクイっとグラスを空にして深く溜息をついた。そして非難めいた視線を青年に送る。それに対抗するかのように青年は背筋を伸ばしてきっぱりと言う。
「一回の人体実験が数百回の実験に勝ることもあるのです。特にこの分野では」
脳科学において21世紀初頭の研究は神経細胞の機能や回路の解析に多くの労力を費やしてきた。解析に使用するコンピューターは年々進化し、測定技術や観察の為の機械も大いに精度が向上して新発見が次々と成された。ところが、そこで得られた理論や発見を実践するには動物実験を中心にせざるを得ず、人間を対象にする際には決して人体に悪影響の無いように細心の注意が払われた。それは倫理的制約があるから仕方のないことだ。それに対してデルガード教授の弟子たちは何の制約もなく人体実験を繰り返していたという。例えば、まっとうな研究者が被験者の反応をMRI越しに観察している間に、弟子たちは剥き出しにした脳に電極を刺しながら被験者にヒアリングをしていた。だからこそ彼等はシンプルにアプローチできたのだ。
今枝がこめかみを揉みながらいう。
「確かに遠慮なく人体実験を繰り返していたら技術に圧倒的な差が出るわな。連中がスティモシーバーを欲しがるのも分かる。ただ、未だに実験の成果が表に出てこないのが解せない。研究データを一部公開するだけでも相当の価値があるんじゃないか?」
「それはもっともです。ただ、それには理由があります」
「表に出せない事情か」
「ええ。実は殆どの研究データは失われてしまったのです」
「なにやってんだ? バックアップもとっていなかったのか?」
「何者かによって意図的に処分されてしまったのです。もともと極秘裏に扱われていたデータですから大元を破棄してしまえば、どこにも残りません。ごくごく限られた人間の手によって一元管理していたことが仇となってしまったようです」
「勿体ないというか、被験者は浮かばれないな」
「その代り、それら技術の粋を集めたスティモシーバーは残されています」
「じゃあ、データが失われて以降はスティモシーバーの新型は作られていないのか?」
「14年前にたったひとりの設計者が亡くなってしまったので、その後は作られていません。技術的に不可能なのです。しかも、設計図は失われてしまいました」
「ロスト・テクノロジーか……」
「よって残されたのは現存するものだけになります。第四世代が最新、かつ最後のスティモシーバーとなります」
「出回っているのは何台?」
「連続殺人犯に破壊されたものは除いてですか?」
「そうだ。その気の毒な妹さんを含めて、あと何台残っている?」
今枝のその質問は若干、青年の心を乱したらしく彼は表情を強張らせた。
「3台です……」
そう答えてから青年は窓際の花梨を見た。相変わらずの無表情だが妹を見る目は哀しさを含んでいるように見える。それを見てしまった今枝はバツが悪そうに首を竦める。
「しかし、ダイナマイト・アツシは気の毒だがこの子の身は安全になったんじゃないか?」
「……そうとも言い切れません。なぜなら1台では足りないと思われるからです」
「分解して解析すれば十分だろう?」
「いえ。そうともいえません。設計図があれば一台でも復元可能でしょうが、スティモシーバーを完全にコピーするには最低でも2台は必要だと考えられます。」
「連中の狙いはスティモシーバーなんだろ? 妹さんを手術してそれを取り出してしまえば少なくとも狙われることは無くなるんじゃないか?」
「いいえ。その方法だと確かに彼等は第四世代のスティモシーバーを手に入れることになります。ですが、彼等の目的は恐らく色々と実験をして、その効果を確かめることだと考えられます。そうなると生きたまま拘束することに意味があると思われます」
「そこで人体実験か……」と、今枝がゲンナリした顔をする。
「妹が……花梨が彼等に捕まってしまうと酷い扱いを受けるのは明白です。それだけは何としても避けたい」
「分かった。アンタが妹さんを守りたいというのは本当のようだ。だが、そもそも何でそんな厄介な物がその子の頭の中に居座っているんだ?」
今枝の疑問に対して青年は言葉に詰まった。まるで電池が切れたみたいに動かない。目を閉じて考え事をしているようにもみえる。
今枝が質問を続ける。
「スティモシーバーをセットするには手術が必要なはずだ。だが、まともな手術じゃない。いったい誰が何の目的でそんなことをしたんだ?」
テーブルの上で忘れ去られたグラスが小さな音を立てた。オンザロックの氷が解けて容量が増したせいで氷が浮いてしまったようだ。グラスを取り巻く水たまりだけが時間の経過を示している。それだけこの広い部屋には変化が乏しかった。
やがて青年が「父です」と、ぽつりと口を開いた。
「え? 何だって?」と、今枝が聞き返す。
「父です。花梨を手術したのは父なのです」
青年の告白に今枝は得体の知れない嫌悪感をおぼえた。
「な、なんだと?」
「父は……八神宗一郎は恐ろしい人間です」
「……聞かせて貰おうか」
「いいでしょう。ではこれを見て頂けますか」
青年はそう言って胸ポケットから端末を取り出してテーブルに置き、映像をテーブルに投影した。
「これが父です」
青年が示したのは研究室らしき場所での古い集合写真だった。白衣を着た男性5人が後列、前列に女性が2人、そして少年が並んでいる。年齢は様々だが後列真ん中の年長者らしき人物が八神青年の父親と思われる。白髪を後ろに流しているその男性は、角ばった輪郭ではあるが目鼻立ちはくっきりしていて西洋系の血が混じっているのではと思われた。
「父の正面に居る子供。それが私……のようです」
「ようですって……自分のことじゃないか」
「ええ。ですが撮影した時の記憶が無いのです。場所は父の研究室のようですが全く見覚えがありませんし、なんだか知らない場所のような気がしてならないのです」
写真の研究室は比較的整理されていて、窓際には空気清浄器に並んで観葉植物が置かれている。南国にありそうな葉をつけた木のミニチュアみたいな鉢植えだ。二リットル入りの使い捨てペットボトルが何本か置いてある他はテーブルには小さな機械とガラスケースが乗っているだけだ。ガラスケースには実験用のネズミらしき生物が入れられている。白ネズミの目は赤く、餌のようなものを齧っている。何の実験をしているかは分からないが医学関係の研究室であることは想像できる。
今枝が感心したようにいう。
「研究室にしてはシンプル、というか意外に物が少ないな」
今枝のイメージでは研究室というものは当然に『ごちゃついている』ものなのだ。
「どこもこんなものではないでしょうか。特に奇妙だとは思いませんが」
「で、親父さんは何の研究を?」
「神経工学です。専門は『グリア細胞の集団行動における閾値の測定』です」
「なるほど。さっぱり分からんな」
「グリア細胞というのは神経細胞を除いた神経系の細胞の総称です。グリア細胞はひとつひとつが高度な処理能力を持って独立しているのですが、これが電気刺激によってどのように働くかというのがテーマだったようです。閾値とは神経細胞が活動するのに必要な最小限の電気刺激の数値です」
「さすがに詳しいな」
「子供の頃からその手の情報には事欠きませんでしたから。父の書斎で見つけたロボトミー(精神病疾患の治療として前頭葉を切断する手術)やトレパネーション(頭部穿孔。頭皮を切開して頭蓋骨に穴を開ける民間療法)の本や動画でこの世界に目覚めました」
「もともと興味があったんだろう。だったら、なぜ医学部を中退したんだ?」
「……好きで医学部に入ったわけではありません。父と母の意向です。二人とも医師免許を持った研究者でしたから」
「なるほど。両親が医者だと職業選択の自由は無いというわけか」
「実は好きじゃないのです。実験や解剖が」
「血を見るのが苦手なのか」
「いいえ。トラウマです。幼い頃に見た動物実験が」
「実験? どんな?」
「ラットの剥き出しの脳に電極を接続して電気刺激を与える実験です」
「ああ……そいつはハードだな」
「実験中のラットと目が合ってしまったんです。あれが良くなかったのでしょう。小学校に上がる前はよく研究室で遊んでいましたが、それ以来、行くのを拒むようになりました」
それを聞いて今枝は嫌な考えを追い出すように首を振った。
「やれやれ。それで話は戻るが、なぜアンタの父親がスティモシーバーを?」
「父は若い頃にオランダに留学していました。その後、日本に戻ってからも頻繁に渡航しています。恐らくはそこでスティモシーバーに関わっていたのだと思われます」
「オランダか……」
「はい。デルガード教授の弟子が造った研究施設があります」
「しかし仮にそこでスティモシーバーが作られていて、アンタの父親がそれを日本に持ち込んでいたとして、なぜ実の娘にそんなものを……」
その時、青年の端末に通信が入った。
「失礼。母からです」
彼はソファに座ったまま会話を始めた。
話が中断したところで今枝は薄くなってしまったオンザロックで喉を潤した。
「はい。もうホテルまで来ているのですね。分かりました」と、青年は抑揚のない話し方で母親と会話をしている。今枝が氷を取りに行こうと立ち上がったところで青年が今枝に『待って』という仕草をした。
「ひとつお願いがあるのですが、同席して頂けませんか」
青年に頼まれて今枝がきょとんとする。
「なんだ? 同席だと?」
「これから母と昼食なのですが、是非ご一緒にとのことです」
「いや。それはさすがに遠慮……」
「お願いします!」
珍しく青年が強い口調でそう言ったので今枝は目を丸くした。
「そ、そこまでいうなら」
それを聞いて青年は「それでは三十分後にいつものレストランで」と通信相手に伝えた。そして最後に思い出したように付け足す。
「花梨は? 連れて行きますが……はい。そうですか。分かりました」
通信を切って青年は深くため息をついた。今枝がそれを見て首を傾げる。
「変わった母親だな。アカの他人をランチにお誘いするくせに何で娘は呼ばないんだ?」
青年は顔を上げて疲れた表情を今枝にみせる。
「あの人は興味の無いものについては完全無視なのです」
「興味が無いって……」と、今枝が窓際を見る。「お? 居ないぞ?」
窓際のチェアで人形のように鎮座していた花梨の姿がない。
「まあ人形じゃないんだから動くよな」と、今枝がひとりで納得してバーに移動しようとすると隣の部屋のドアがいきなり景気よく開いた。
見ると女の子、良く見ると花梨が立っていた。
「お兄ちゃん!」と、花梨が青年に向かって元気良く呼びかけた。
窓際のチェアでぼんやりしているときは白いワンピース姿だった彼女は、ピンクのTシャツに白いパーカー、デニムのミニスカートに着替えている。
花梨は今枝の姿に気付くとスタスタと歩み寄ってきて「はじめまして」と挨拶する。
「お兄ちゃんのお客さんでしょ?」と、彼女はにっこり笑う。
その表情、声、仕草は完全に若い女の子のそれだ。上機嫌な花梨の様子に今枝が戸惑う。
「はじめまして、とは傷つくな。そんなに印象が薄いか?」
今枝は青年に向かってそう尋ねた。青年は黙って首を振る。
「大した変りようだな」と、今枝が呆れる。すぐに『多重人格』という言葉が浮かんだ。
花梨は青年の座るソファに寄っていくと彼の横にぴょこんと座り「お腹すいたな。ドーナツ食べたい!」と、青年に甘えた。
あれだけ大人しかった彼女が普通の女の子のように振る舞っている。今枝は氷を取りかえたグラスを持ってソファに戻る。そして、花梨と青年をみて首を竦めた。
「何かの拍子に豹変する女は少なくないが、ここまで露骨だとかえって清々しいな」
花梨にドーナツをおねだりされた青年は申し訳なさそうにいう。
「すまない。これから食事に出なければならない。お土産に買ってくるから、それまで待っていてくれないか」
「やだ! 今食べたい。てか、お兄ちゃんどこ行くの? デート?」
「いや、母の昼食に付き合わなくてはならない。花梨も行くかい?」
「アタシ行かなーい」
「お腹が空いたのは大丈夫か?」
「いいよ。適当に何か食べるから。けどお兄ちゃんも大変だね。あの人とご飯食べたって、ちっとも美味しくないじゃん。お気の毒~」
こうしてみると歳の離れた兄妹の平凡なやりとりにみえる。
花梨が青年の腕に手をまわしてしなだれかかる。
「アタシ買い物に行きたいなぁ。ね、ショッピングモールに連れてって!」
「今は無理だ。もうしばらくは……」
「ヤダヤダ! ここ、つまんない! もう出ていく」
「花梨……お願いだから言うことを聞いて欲しい」
「ショッピング! 絶対ショッピングに行く」
駄々っ子のように首を振る彼女は子供っぽく見えた。歳は17というが、この世代の女の子は皆こんなものなのかと今枝は困惑した。
「仕方がない。明日必ず連れて行くから」と、青年が堪らず答えた。
「ホント? 絶対だよ!」
「約束する」
それを聞いて花梨は「やったぁ!」と、立ち上がってバレリーナのようにクルクル回りはじめた。その弾けた喜び方を見せつけられて今枝が顔をしかめる。
「おい。いいのか?」
青年はソファに座り直して軽く頷く。
「仕方がありません。そういうわけで明日は警備をお願いします」
「それは構わんが……」
「念のために銃を携帯してください。銃はこちらで用意します」
昨夜あのようなことがあった中で花梨を外に出すことは非常に危険だと思われた。ダイナマイト・アツシを拉致した連中とそれを銃撃した人間。その両方から彼女を守るとなると、さすがに素手では厳しいと今枝も考えていた。
「リクエストしていいのか?」
「はい。できれば第三候補まで提示していただけると助かります」
「分かった。後でメモを渡す」
そういって今枝は気を引き締めた。