第5話 地下闘技場
地下闘技場は池袋の旧地下街にあった。
それはシャッター通りと化した地下街の一角にあり、幾つかの空き店舗を強引にジョイントした空間に設けられていた。営業は夜間のみ。試合の無い日はライブやダンスなどのイベントを行いながらアルコールを出す大型飲食店となっている。収容人数は最大300人ということで、ちょっとしたライブができそうな位の広さだ。薄暗い店内の中央ではリングとなるステージがスポットライトを浴びていて、それを取り巻くように客たちがたむろしていた。クラブのような気だるい浮遊感と間近でアクシデントを目撃しているような高揚感が混じり合う中、店内を漂う人々はアクアリウムの熱帯魚のようにみえる。
今枝はグラスを片手に店内を一周してみた。正直、この雰囲気は嫌いではない。公然と賭けが行われていることも怪しさに輪をかけている。端末を見せ合いながら予想を披露し合う者や端末画像を幾つも開いて予想に集中する者など、競馬場の投票所にも似た空気だ。噂には聞いていたが、ここに集う連中はコアなファン、もしくは喧嘩があれば好んで見に行くタイプの人間なのだろう。大抵の観戦者は自宅で中継を楽しんでいるはずだ。
一通り店内を見学したところで今枝はVIP専用のスペースに移動した。今夜の目的は保護対象者との接触、そして説得だ。場合によっては強引に連れて行くという選択も有り得る。ただ、相手は現役のファイターなので、あまり手荒なことはできない。特に妙手があるわけではなかったが今枝は試合前の選手控室に向かった。選手に会えるのはVIPの特典なのだ。
選手控室は2種類。上位ランカー用とそれ以外の選手用だ。トップ5についてはさらに個室が用意されているそうだが、今回の保護対象者である『ダイナマイト・アツシ』はランク12位なので上位ランカーの部屋にいるはずだ。
控室は意外に人の出入りがあって殺伐とした雰囲気は無い。むしろ体格の良い若者達がドリンクを片手に談笑したり、思い思いに身体を動かしたりしている姿はスポーツジムを連想させた。が、流石に試合を控えている選手は部屋の隅で念入りに身体をほぐしたり、音楽を聴いて集中力を高めたりしている。
「あいつがそうか……」
今枝は保護対象のアツシを見つけて彼に歩み寄った。そしてイスに座る彼の前に立つ。熱心に足を揉んでいたアツシが今枝の影に気付いて顔を上げる。茶髪を短く刈り上げたアツシが今枝と目を合わせる。彼は足を揉む手を止めると威嚇するようにいった。
「あ? 何だ? おっさん」
今枝がポケットに手を突っ込んだまま首を竦める。
「おっさんはないだろう。まだ三十路前だぜ」
アツシが今枝を睨む。
「失せろ。試合前で気が立ってるんだ」
「だろうな」
人を食ったような今枝の態度にアツシが苛立つ。
「てめぇ……何しにきやがった?」
「迎えに来た。そう言えば分かるだろ?」
それを聞いてアツシが顔を背ける。
「チッ! しつこいな。アンタら。何べん来たって同じだよ」
他の選手たちの注目が集まるのを承知で今枝がいう。
「悪いことはいわん。言う通りにした方がいい」
アツシは少し考えるような素振りみせてから面倒そうに首を振る。
「信じられるか……そんな作り話。マンガかよ」
そう吐き捨てたアツシだが、まるっきり信じていないわけでは無さそうにもみえる。思い当たる節でもあるのだろうと今枝は推測した。
「まあいい。後でゆっくり話そう」
今枝の提案に対してアツシは挑発するようにいう。
「断る、といったら?」
「……話し合いの仕方にも色々ある。納得がいかなきゃ語り合うしかないだろ?」
そう言って今枝が顔の前で右の拳を握ってみせる。
「面白れぇなアンタ。それは試合後のお楽しみに取っておこうか」
「せいぜい頑張りな。できれば適度に凹られてくれた方がこっちは都合がいいんだがな」
「へん。言ってくれるぜ」
そういってアツシは勢いよく立ち上がった。身長は今枝よりやや低く、170cm後半といったところか。だが、筋肉をつけすぎた水泳選手のような体形はバイタリティに溢れる迫力があった。
* * *
VIPの観覧席は二階席にあって試合を上から見られるようになっていた。というよりも床が抜け落ちた部分から下の部屋を見下ろしているみたいだった。ここからはリング全体が良く見渡せる。だが、吹き抜けというには雑な造りで手すりも柵も無い。床の切れ目には膝下までの段差があるだけで、これでは興奮したVIP客が簡単に飛び降りてしまうんじゃないかと思われた。
今枝が適当な座席を選んで落ち着いたところで、ちょうど次の試合が始まった。カクテル光線が白い八角形のリング上を行き交い、低音のリズムが動悸のように胸に伝わってくる。先に『ダイナマイト・アツシ』が登場し、続いて対戦相手の『コブラ舟本』がリングに上がった。アツシは赤いトランクスにノーグローブ・ノーシューズの喧嘩スタイル。ランキング7位のコブラは黒の短パンに緑のタンクトップ、オープンフィンガーグローブに素足というスタイル。アツシも日焼けしているが、コブラもかなりのものだ。しかも東南アジア系の濃い顔をしているので、タイかベトナム方面からの出稼ぎ選手のようにもみえる。上位ランカー同士の対戦に会場のボルテージが上がっているようだ。いつの間にかリング周辺は立ち見客でびっしりと埋まっている。それに対してリング上にはアツシとコブラのみ。レフェリーは居ない。その代りにカウントを示す数字がリング上部のガラス版にホログラムで立体的に表示されている。その数字が60から1秒ごとに減っていく。試合開始までのカウントダウンだ。アツシは感触を確かめるように左右のパンチ・キックをシャドウで繰り返す。コブラは念入りに首や肩を回しながらゴングを待つ。
開始10秒前。ここからは音とともに数字が変わっていく。いつの間にか音楽は止んでいてカウントダウンの音だけがリング上で響く。ざわめきは息をひそめ、弾ける瞬間を待ち望んでいる。5、4、3、2、と表示が進み、1と同時に甲高いゴングが鳴らされた。
試合開始と同時に先に仕掛けたのはアツシだった。彼は左右に軽くステップを入れてフッと身体を沈めると低い体勢のまま高速タックルを繰り出した。
コブラは真っ直ぐに突っ込んでくるとみて左に旋回してアツシの突進をいなそうとする。が、タックルの軌道が急に変わってアツシの頭がコブラにニアミス、そしてコブラの左脇に急接近したところでバッと頭を上げたアツシが左のボディブローを狙う。
体勢を崩されたコブラは左の肘でガードしつつ身体をアツシの正面に向けようとする。が、そこにアツシの右フック! パンチの軌道がコブラの側頭部を掠める! 間髪入れず追い討ち気味にジャブ&ローキックのコンボで攻めるアツシ。その圧力に堪らずコブラがバックステップ連発で距離を取る。キックのモーションを止めて追うアツシ、逃げるコブラ。場内に歓声が沸き上がる。
いったん間合いを取ったコブラが牽制気味に前蹴りをみせる。それを横ステップで交わしてアツシが接近しながらの右パンチ。だが、コブラは左のカウンターを狙ってくる。交錯する腕! が、浅い。ともに首を振って相手の拳をギリギリで交わす。そして真正面に対峙し直してからのパンチの応酬。アツシの大ぶりなパンチにつられる形でコブラも威力重視のパンチとキックで応戦する。
「序盤のラッシュは凌いだな」と、誰かがいった。
今枝が声のした方向を見ると隣の席でふんぞり返っている若い男の姿があった。太っているわけではないが顔の肉が余っているそのアンちゃんは、女の腰に手をまわしながら得意げに解説している。
「ほらな。やっぱり止められただろ? 無駄にスタミナを使わせたワケさ」
アンちゃんと女はともにパリコレに出品されているような奇抜な服装をしていた。金持ちなのだろうが共に板についていないのが痛々しい。
リングの上に目を戻すとアツシとコブラの攻防はやや硬直しているようにみえた。手数は多いが互いに決定打が出ない状況だ。若干、アツシの方が攻め疲れているようにみえる。
そこで女をはべらすアンちゃんの解説。
「わざとだよ。コブちゃんは、ああやって相手を踊らせてスタミナを消耗させるんだ」
『コブちゃん』という言葉に違和感があったので今枝は思わずアンちゃんの顔をしげしげと見てしまった。常連客なのかどうか知らないがツウを気取っているようだ。
その時、わっと歓声が上がった。見るとコブラがクリンチでアツシに絡みついている。コブラは素早く両腕をアツシの脇腹に差し込んでバンザイの恰好をさせると、密着したままの体勢で左右の膝蹴りを執拗に放った。腰をよじって膝蹴りから逃れようとするアツシ。足を絡ませることでコブラの膝蹴りを抑え込もうと試みるが、コブラの脚はグネグネとヘビのように動いてアツシの足をすり抜け、膝蹴りを繰り返す。
「いいぞ、コブちゃん! ここからが真骨頂だぜ! 絡みついたらしつこいぜ」
隣のアンちゃんはこの展開に大喜びだ。
立ったまま身体を密着させての地味な攻防が続く。コブラの膝蹴りは素人目にはダメージがあまり通っていないように見える。が、徐々にアツシが消耗していくのが分かる。この状況で勝敗がつくのかと今枝が疑問を持った時だった。アツシが右腕をぐっと下げてコブラの肩を抱え込んだ。そして膝を曲げて重心を下げ、反動をつけて上半身をグンと伸ばす。そこでコブラの身体が浮いた! と同時にアツシは後方に鋭く反り、強引なスープレックスでコブラを投げた。コブラは背中をリングに叩きつけられて仰向けになる。アツシは素早く立ち上がりコブラに馬乗りになる。そして上から拳を浴びせかける。コブラは腕を使って顔面をガードするが形勢は一気に逆転した。
「ああっ! マズイよ! コブちゃんの1.5倍に500も突っ込んでるのに!」
隣のアンちゃんが悲痛な声をあげる。
「ちょっ! あんたバカ?」
連れの女に罵られながらアンちゃんが頭を抱える。
「マズイよ、マズイ! 叱られるぅ」
その様子をみて今枝が苦笑する。
アツシの連続攻撃に観客はさらにヒートアップする。アツシがパンチを振り下ろす度に掛け声がかかる。そしていよいよ止めの一撃といわんばかりにアツシの右拳が顔の高さまで上がった。だが『渾身の一撃!』と、誰もが思った瞬間、コブラが左肘を突き出してカウンター気味にアツシの顔面に突きたてた。『ゴッ』と鈍い音がした。アツシの動きが止まる。その隙を見逃さずにコブラが腰を浮かせて馬乗りになったアツシを跳ね上げる。そして両者の間に出来た隙間を転がり抜ける。
「お、抜けたか」と、今枝が身を乗り出す。
「やたぁー! コブしゃん! いけえぇ!」と、アンちゃんが絶叫する。
難を逃れたコブラは素早く起き上がり、アツシに襲い掛かる。助走をつけての左の膝蹴りがアツシの顔面にヒットする。立ち上がる途中でそれを食らってしまったアツシは大きくグラつく。だがコブラは容赦しない。今度は両手でアツシの頭を固定して右膝を下から真上に突き上げた。アッパーカットのようにアツシの顎が天を突く。それがフィニッシュとなった。
「イエス! コブちゃんナイス!」
そんなアンちゃんの雄たけびが観客の大声援にかき消される。
勝敗は決した。リング上に大の字になったアツシは立ち上がることができない。自分の顎を触りながら、もう一方の手を地面に突っ張って身体を起こそうとする。が、目を回したみたいに頭が大きく揺れている。リングの上部に表示された数字が10カウントを告げ、試合終了のゴングが打ち鳴らされた。
* * *
夜の11時を過ぎたところで今枝は店外でアツシを待つことにした。
選手達が出入りする裏口は寂れた繁華街に面している。今枝は道路一本隔てた場所で斜め前方にある裏口の様子を監視した。裏口近辺では選手の出待ちをするファンの女の子達が30人程たむろしている。周りの建物は大半が廃業した店舗となっていて、申し訳程度の街灯と飲み屋の看板、そして自動販売機ぐらいしか明かりがなかった。缶が溢れ出たゴミ箱を誰かが蹴飛ばしてひっ繰り返しても誰も気に留めない程度の荒みっぷりだ。
コートを着るほどではないが夜はそこそこ冷える。今枝はホットコーヒーを片手に空き店舗脇の放置された看板に腰を乗せていた。仕事柄、待つことには慣れている。ひとり、またひとりと選手が出てくる。選手や関係者にも色々ある。ファンと交流する者、そそくさと駅方面に向かう者、足を引きずっている者と様々だ。上機嫌に談笑しながら出てくる一団もあった。おそらく今夜、勝利を収めた連中だと思われる。
「遅いな。流石にダメージが大きかったか……」
今枝は中々出てこないアツシのKOシーンを思い出していた。そしてコーヒーに口をつけた時だ。後頭部にガツンと衝撃を受けた。目の前が暗くなる。まるで意識がシャットダウンされるみたいに現実から引き剥がされる。
膝から崩れ落ちる今枝の口から弱々しい台詞が漏れ出た。
「またかよ……」
今枝は車のブレーキ音で目を覚ました。
「くっ……何なんだ?」
それほど長く気絶していたわけではない。それは落とした缶コーヒーの零れ具合で理解できた。痛む後頭部を押さえながら裏口を見る。騒ぎが聞こえてくるのもそちらの方向からだ。
「さっきの音……ブレーキか?」
すぐに『違法改造車』という単語が浮かんだ。それと同時に嫌な予感が今枝の脳裏をかすめる。立ち上がろうとするが足元がふらつく。
問題の車は黒のワンボックスカーだった。それが裏口に横付けされている。誰かが悲鳴をあげたのは車がそこで急停止したからだろう。騒然とする裏口付近。その裏口から両脇をスーツ姿の男に支えられたアツシが出てくる。意識が朦朧としているのは明白だ。二人組の男はアツシを引きずるように運び、そのままワンボックスカーになだれ込んだ。
「マズイ!」
ここから10メートル先の出来事が遠い。今枝は己の失態を悔やんだ。このままでは保護対象者が拉致されてしまう! しかし、今枝の焦りをよそに車はオートドライブでは有り得ない急発進で裏口から走り去ろうとした。
車一台通るのがやっとの道路を急加速しながら進む車。今枝はそれを呆然と見守るしかなかった。と、その時、『バーン!』という破裂音が響いた。花火のようでもあり、交通事故の発生かとも思われた。が、今枝は瞬時にそれが銃声であると判別できた。
「発砲しただと!?」
30メートル先で車が急ブレーキをかける。車の後部ガラスがバラバラと落ちているように見える。窓が開き、身を乗り出した誰かの手元が光った。と同時に再び銃声。それが三発、四発と続く。どこに向かって撃っているのかは分からない。おそらく近くのビルを狙っているようだ。今枝がその場所に目を凝らしていると、今度はその場所から発光と銃声が発生した。それと同じタイミングで車のボディが変形する。
音と車に与えたダメージから今枝は連想する。
「散弾銃か!」
気が付くと今枝はジャケットの懐に手を突っ込んでいた。反射的にそうしてしまったものの、直ぐに思い直す。
「参戦しようにも……持ち合わせが無いか」
今枝は、やれやれといった風に首を振ってぼやく。
「ここは日本だもんな」
そうこうしているうちに車は再びタイヤを軋ませて急発進し、夜の闇に消えていった。
銃声は止んだが微かに火薬の臭いが鼻をつく。あまりの衝撃的な出来事の連続に裏口を取り巻いていたファン達は皆言葉を失っている。
野次馬が集まり出したところで今枝は現場に背を向けた。後頭部をぶん殴られたこともショックだったが目の前でターゲットを掻っ攫われてしまうという屈辱に足取りは重かった。
それにしても、と今枝は考える。半信半疑だった依頼内容が実は切羽詰ったものであったことを思い知らされた。そして敵は想像以上に大掛かりで危険な相手だと認識させられた。一瞬、今枝のホテルに侵入した頭の小さな男の顔が過った。あの男がアツシを拉致したグループの一味だということは想像に難くない。だが、そうなると散弾銃をぶっ放した人間が何者か分からない。アレは確実に車を狙っていた。
「敵の敵は味方……なワケないか」
今枝は自分で口にしておきながら首を振ってその言葉を否定した。