第3話 時計仕掛けの果実
依頼人の青年は行き先を告げなかったが今枝達を乗せた車は赤坂方面に向かっているようだった。
平日の夕方ともあって車の数は少なくない。だが、トラフィック・サーキュレーション(信号の切り替え時間や車両の制御システムに働きかけて速度を調整することで車の流れを循環させるシステム)のおかげで渋滞することはない。オートドライブの搭載が義務付けられた現代ではハンドルを握る人間は殆どおらず、車での移動でストレスを感じることはほぼ無い。
今枝が車の窓に向かって呟く。
「八神浩介……」
「なんでしょうか?」と、青年が今枝の方を向く。
ガラスに映る青年の顔を見ながら今枝が尋ねる。
「本名と考えていいんだな?」
それに対して青年の返答は無かった。わずかの沈黙を経て今枝が青年の方に顔を向ける。
「気を悪くしないでくれ。偽名を使う人間とは仕事をしない主義なんだ」
青年は相変わらずの無表情で右の眉だけを少し動かした。
「調べて頂いて結構ですよ。なんなら、お知り合いに頼まれてはいかがですか」
青年がいう『知り合い』というのは今枝がたまに仕事を頼むネット探偵のことを指すのだろう。彼はとことん今枝のことを調べ上げているらしい。
「いや。止めておく。業務提携はしているが同業者を楽に儲けさせるのは癪にさわる」
青年の素性については既に検索をかけていた。しかし、怪しいところはなかった。彼の名前でヒットした画像の殆どは学校関係のものであったが実在する人物であること、目の前に居る青年と容姿が一致していることは確認できた。ただ、N大学医学部を中退して以降のものは皆無だった点が不自然と言えば不自然なのだが、青年の本名が八神浩介であることは間違いない。
それ以上の会話もなく車は淡々と進んだ。
高級車の車内で今枝は、ぼんやりと考える。国と国を区別するには国境という明確な基準がある。しかし、社会における上流と下流を分かつものは目に見えない。貧富差の拡大。それは先進国の宿命とはいえ、この二十年で日本は、度重なる相続・贈与に関わる税制の改正により若年層への資産シフトを図ってきたが、逆にそれは貧乏人の子供は貧乏人と揶揄される社会構造を助長してしまった。例えば……と今枝は思う。この隣にいる依頼人の青年は間違いなく上流社会の人間だ。この車は紛れもなく高級車に該当する。自動運転のAIに大差は無いがシートひとつとっても一般的な車とは雲泥の差がある。自分がこんな高級車に乗っているのは妙に落ち着かない。それは、明らかに住む世界が違っているからなのだ。だからこそ今回の依頼には今一つ乗り気になれないのだ。
今枝が後方を気にしながら独り言のようにいう。
「オートドライブは楽でいい。が、欠点もある」
それを聞いて青年は前方に顔を向けたまま「ええ」と、相槌を打つ。
「尾行され易い、という欠点ですね」
「なんだ。気が付いてたのか」
今枝は拍子抜けしたようにそういってチラリと後方を見た。これが古い探偵映画ならバックミラーをチラ見して舌打ちするところなのだろうが、残念ながらオートドライブの車にはその手のミラーが一切付いていない。
「フン。下手糞な尾行だな。レクチャーしてやりたいぐらいだ」
「後ろからついてくる黒のTOYOTAですね」
「なあ、一旦ここで降りてもいいか? うちの事務所をメチャメチャにしてくれた礼をいっておきたいんだが」
「止めておいた方が良いでしょう。時間の無駄です」
「そうだな。止めておこう……」
事務所を滅茶苦茶にしてくれた人間にはいつか借りを返すとして、今は相手の出方を待つのが賢明だと今枝は判断した。
やがて車は政治家がこぞって会合を開きたがる赤坂の有名なホテルの新館に到着した。エントランス付近ではオートドライブの車両が行儀よく並んでいる。車はベルトコンベアで流される仕掛中の製品のように入口の前まで運ばれては行儀よく乗っている人間を吐き出していく。
車を降りた今枝は立派なエントランスと建物を一瞥して毒を吐く。
「議員の御用達か。半分は税金で建てたようなもんだな」
が、青年は気にも留めずさっさと歩いていく。
ホテルの宿泊料はエントランスからフロントまでの距離に比例するといっても過言ではない。その証拠に広大なロビーを闊歩する客層は総じて所得が高そうにみえる。二番目にお気に入りのジャケットを着ているとはいえ、ここでの場違い感は今枝をそわそわさせた。
今枝を残して青年がフロントに向かう。すると青年に気付いたフロント係が直ぐに近くにいたベルボーイに目配せして青年のアテンドを指示する。エレベーターホールの方向へ歩き出す青年。彼はこちらの方を見て一旦立ち止まる。そして今枝が一歩前に出たのを確認して再び歩き出す。一連の動きを遠目に観察しながら今枝はロビー内で自分たちを尾行してきた人間に当たりをつけていた。恐らくはグレーの背広を着た白髪の中年男性がそれではないかと思われた。
今枝は青年に追いつき、一緒にエレベ-ターを待った。そして二番目に到着した2号機に乗り込んだ。今枝達のエレベーターに先ほどの中年男性がついて来ようとしたがベルボーイがそれを押しとどめる。その間に青年はさっさと扉を閉めてしまった。そして階数を示すパネルの前で紺色のカードをかざす。すると乾いた電子音がして階数表示の数字が動き出した。その瞬間、今枝が目を丸くした。なぜなら、上に行くと思っていたところに下がる時の重力がかかったからだ。階数表示は2F、3Fと数字が増えていく。が、実際にはエレベーターは地下に向かっている。
「これは……」と、今枝が青年の顔を見る。
「ここのエレベーターはVIPのみ下に行けるようになっているんです。知る人ぞ知るカラクリです」
「階数表示はフェイクか……金さえあればなんでもできる、の典型だな」
ベルボーイが他の客をブロックした意味がここで分かった。一流ホテルにこんな仕掛けがあるなんてことは一握りの人間しか知りえない秘密だ。
しばらくしてエレベーターの動きが止まる。が、階数表示は10F、11Fと増え続ける。パネルを見るからいけないのだ。急にエレベーターが止まったので今枝はバランスを崩してしまいそうになった。
「ここから少し移動します」
青年は扉が開くと同時に先に歩き出した。
エレベーターの外に出ると同時に明かりが点灯した。驚いたことにエレベーターの昇降口に直結する形でトンネルがずっと先まで続いている。まるで宇宙旅行をテーマにした遊園地のアトラクションのように非常灯が等間隔に並んでいて白い無機質な壁を青白く照らしている。
「どこまで行くつもりだ? 先が見えんぞ」
「動く歩道になっていますので歩けば五分ほどで着きます」
そういって青年が歩を進めると床がベルトコンベアのように動き出した。今枝がそれに続く。どうやら動く床は歩く者の速度に合わせて加速する仕組みのようだ。早く歩けば歩くほど床の移動速度も速くなっていくのが分かった。
「使用頻度の割には無駄に高性能だな」
そういって今枝は仕方なく青年の後に続いた。
地下通路を抜けると再びエレベーターが現れた。今度のそれは、まるで百年前にタイムスリップしたみたいに年代物のようにみえた。そのまま4Fの表示まで上がると、今度は白に包まれたエレベーターホールに出くわした。六角形のホールはそこだけ天井が高く、ロシア宮殿のような白地に金の装飾がふんだんに施されていた。
「ここは……別館か?」
「そうです。スイートルーム以上の特別室が用意されています」
「随分、遠回りするんだな。金持ちは暇なのか」
「外部から隔離することが目的ですから。少々、不便なのは仕方がありません」
正面には赤い絨毯が真っ直ぐ前方に伸びている。突き当りに両開きの重厚な扉が見える。
今枝が目を凝らしながら尋ねる。
「ひょっとして、このフロアには部屋が一つしかないのか?」
「ええ。特別ですから。そもそもこのフロアは一年間に数えるほどしか使われません」
今枝は足元の感触を確かめながら軽口をたたく。
「滅多に使われないなんて気の毒だな。絨毯なんて踏まれるために生まれてきたようなものなのに」
今枝の冗談に反応することなく青年は真っ直ぐに突き当りまで進み、扉横のパネルにカードをかざした。そして片側の扉を開けて中に入った。
特別室は今枝の予想を超えて広々としていた。ホテルのスイートルームというよりは最高級マンションのモデルルームのような印象を受ける。調度品はどれも高価なのだろうが、これ見よがしな派手なものではない。金持ちなら普通に使っていてもおかしくない、しかしそれより確実に上のレベルであるところがいやらしい。
「大したもんだ」と、今枝が首を竦める。自分のアンティーク集めとは桁が違う。リビングからダイニングに至るまで見せる為に配置された家具類は、いちいち洗練されていて触れることが躊躇われた。ふと、奥の方を見ると意外にも大きな窓から外の緑を見下ろせるようになっていた。
「地下じゃなかったのか」と、今枝は驚いた。てっきり秘密基地みたいなところだと思っていたのだ。
青年がグランドピアノに手を乗せながら解説する。
「このホテルはもともと山の斜面を使った複雑な構造で建てられています。さらにここは外部からは死角になっているんです」
「なるほど……で、あれが保護対象か?」
今枝は窓際のチェアに座る少女の存在に気付いて顎をしゃくった。
「はい。妹の八神花梨です」
その少女は両手を膝に置いてぼんやりと窓の外を眺めている。青年が「花梨」と、声を掛けると彼女は首だけを動かして静かに振り返った。
美しい少女であることは間違いない。額から鼻にかけてのラインがすっきりしていて、切れ長だがハッとするほど大きな目を持っている。まるで化粧品のFA(floating advertising(浮遊広告)の略。液晶看板の周辺に漂うCMなどのデータ。そこに目を向けると見る人間の端末で動画が再生される)みたいに物憂い表情だ。その瞳には今枝達の姿が目に入っているはずだが何の反応もない。むしろ、何も見ていないようにも思える。
今枝がやれやれといった風に首を振る。
「人形か? 俺の保護対象は」
「いえ。この子は意識をシャットダウンしているだけです」
「随分と器用なんだな」
「この子は視覚や聴覚は勿論、脳に入ってくるあらゆる情報を意図的に制限することができるんです。私と同じように」
青年の言葉を聞いて今枝はトラックに突っ込まれた時の様子を思い出した。そういえばあの時、青年は突然の大音響にも関わらず涼しい顔をしていた。少々のアクシデントには動じないという太い神経の持ち主は確かに存在するが、彼の場合はロボットのように冷静だと内心舌を巻いていたのだ。
今枝がゆっくり窓際に近付きながら少女を観察する。
「そう言われてみれば似ているな」
「どのあたりが、ですか?」
「無表情なところがソックリだ」
今枝の失礼な物言いにも青年は嫌な顔をしない。
「妹はスティモシーバーのせいで感情がコントロールできないのです。急に怒り出したり陽気になったり、甘えてきたりします。でも時々意味もなく泣いてしまうんです」
「女なんて皆そんなものだろう? それは別に機械のせいじゃない」
今枝は大げさにそう言ってみたものの青年に冗談は通じないようだ。彼は微かに考える素振りをみせたが直ぐに元通りの表情で少女に視線を向けた。少女は相変わらず人形のように動かない。
しばらくして青年の端末から呼び出し音が聞こえてきた。
「ちょっと失礼します」
青年はそう断って隣の部屋に向かった。恐らく聞かれては困る内容の話があるのだろう。
会話をする気が無い相手と向き合ったままというのも息苦しいので、今枝は待っている間にピアノを弄った。本格的に弾ける訳ではないので立ったまま二本の指で適当な鍵盤を連打する。低い音を続けて行ったり来たりすると緊迫した時の効果音のように聞こえる。面白がって幾つか音の組み合わせを試していた時だった。突然、ガツンと後頭部に衝撃を受けて目の前が真っ赤になった。何が起こったか分からず、痛む箇所を押さえながら今枝が振り向く。が、足の自由が効かない。そして膝から下の力が抜け落ちてしまう。
「な?」
両膝が床に着いた。それと同時にドンと突き飛ばされ、仰向けに押し倒される。辛うじて開いた目に襲ってきた相手の姿が映る。そのせいで反撃の動作が遅れた。躊躇したともいえる。
「やめっ……」という今枝の言葉が押し潰される。
喉元に掛かる只ならぬ圧力に呼吸が阻害される。馬乗りになってきた相手は少女とは思えぬ握力で今枝の首を絞めてくる。目と目が合った。そこに心は無かった。その目が求めるものは死、破壊、殲滅……そんな意志が伝わってきた。
今枝はショートレンジで右肘をカチ上げた。相手の顔が近かったのが幸いした。今枝の一撃を頬の辺りに受けて敵の圧力が緩む。胸を押しつぶす重力が後ろに移動した瞬間を見逃さない。今枝は腰を浮かせて身体を反転させ、その勢いで敵を振り落す。暴れ馬が騎手を振り落すのと同じ要領だ。が、体勢は中途半端で身体は思うように動かない。
「やめなさい!」と、誰かが怒鳴った。
今枝が床を転がって距離を取る。それに対して敵は青年に羽交い絞めにされて暴れている。髪を振り乱し、目を剥いた少女は錯乱しているようにみえた。
花梨を羽交い絞めにしながら青年が謝る。
「申し訳ありません! 申し訳ありません!」
咳き込みながら今枝が恨めしそうに二人を見上げる。何か言おうとするが声が出ない。
「やめなさい花梨! いい子だから!」
そういって青年は少女を制止しようとする。彼女は言葉を発することなく頭を激しく振り両腕を振り回している。が、青年が彼女の耳元で「いい子にしなさい」と口にした途端、動くことを止めた。まるで、動作プログラムがリセットされたアンドロイドのように、ぱったりと大人しくなった。
ようやく呼吸を整えてから今枝がゆっくり立ち上がる。
「……聞いていないぞ。それも装置のせいなのか?」
人形のように動かなかった少女が突如今枝を襲ってきたこと。その様子は狂っている、としか評しようが無かった。しかし、青年は何も答えなかった。
今枝は自分の首をさすりながら辟易した顔を見せる。
「勘弁してくれ。わざわざ絞殺される為にこんなところまで出張してきたわけじゃないぜ」
「本当に……申し訳ありません」
「何かの発作か? それとも二重人格なのか」
「いいえ。この子自身に問題はありません」
「ということは、やっぱりそのスティモ何とかのせいか。不良品なんじゃないか?」
「それは否定できません。臨床データがまだ殆どありませんから」
「臨床データだと?」
「はい。この子に埋め込まれているのは第四世代、それも試作中のものです」
それを聞いて今枝は脱力したように溜息をついた。
「……まあいい。取りあえず酒はあるか? 話はそれからだ」
今枝は室内を見回してバーカウンターに目を付けた。そこの後ろの棚に洋酒のビンがいくつか並んでいるのを見て今枝がニヤリと笑う。
「気を取り直すにはブランデーでも流し込まないとな」
ところが青年は少女を元の位置に戻してから静かに首を振った。
「申し訳ありませんが、現時点でお話しできることはそれ程ありません。自分の権限で情報開示できる範囲内でならお答えできますが」
「……まあ、そんなことだろうと思ったよ。アンタのスポンサーだか組織の上司だかはそのスティモ何とかを守りたいんだな?」
「そういうことになります」
「だったら自分で保護すればいいのに」
「それは出来ません。組織の本部は外国にありますので」
「なるほど。だが、目的はそれだけじゃないだろう? 保護するだけなら、ここみたいな場所に軟禁しておけばいい。周りの警備を固めて」
今枝は試すような目つきで青年の回答を待った。
「おっしゃる通りです。あなたに仕事を依頼した目的はもうひとつ。第四世代のスティモシーバーを狙っている連中が何者なのか突き止めて欲しいのです」
「そうだろうな。俺みたいな『やさぐれ』を雇うぐらいだ。どうせ、ろくな相手じゃないんだろう?」
「はい。警察や弁護士では対応できない相手だと考えられます。反社会的勢力の可能性もあります」
「それで俺に白羽の矢が立ったと。涙が出るぐらい嬉しいぜ」
今枝がおどけた調子で冗談ぽくお手上げのポーズをみせる。
それを見て青年が何か思い出したように胸ポケットから端末を取り出した。
「早速ですが、もうひとつ依頼したいことが出来ました」
「さっきの通信か?」
「はい。組織からの命令です」
「内容は?」
「ミッションは単純です。ある人間をここに連れてくること。保護対象は地下格闘技のファイターです。言うことをきいてくれないんです」
「そいつを説得して連れてくるだと? そんなものも仕事内容に含まれるのか?」
「勿論、追加料金はお支払いします」
「地下格闘技ねえ……言葉が通じる相手だといいんだが」
「彼もまた第四世代の持ち主です。花梨と同様に何者かに狙われています。それに敵はそれだけではありません。ブレイン・ブレイカーにも注意してください」
青年の言葉に今枝が驚く。
「ちょっと待て。ブレイン・ブレイカーは別物なのか?」
「別物です」
青年はそう断言した。彼によると、世間を騒がしている連続殺人犯はスティモシーバーを持つ人間の頭を吹っ飛ばして回っているが、スティモシーバーを手に入れようと画策する者とは別な存在なのだ。
「どういうことだ……」
今枝の事務所を潰した者と尾行してきた中年男は同じ勢力だと考えられる。だが、それはブレインブレイカーと呼ばれる殺人鬼ではないというのだ。
戸惑う今枝に向かって青年が事務的な口調でいう。
「保護対象の情報については明日お伝えします」
結局、それ以上の話は青年からは聞けなかった。
特別室を早々に追い出されてしまったので高級な酒を飲み損ねたこともさることながら、分からないことが多すぎるので今枝はモヤモヤした。他にも隠された事実があることは明白だ。怪しい依頼に不可解な要素はつきものだが、これからは場当たり的な対応が求められるに違いない。アドリブの力が試されるといってもいい。だが、それは今枝の望むところだった。
* * *
今枝がたまに利用する安ホテルは風俗街の裏手にある。
周辺相場を調べるまでもなく最安値で泊まれること。静か過ぎず、清潔過ぎず、気兼ねなく服のまま眠れるところが今枝には気に入っている。エントランスを入って直ぐに「空いているか?」と口にするだけで、すっとカードキイが出てくるフロント係の愛想の無さも雰囲気に即している。
いつものようにカビ臭いエレベーターで客室階に上がり、部屋の番号を確認しながら廊下を進む。そしてカードをかざして三〇六号室のドアを開ける。部屋の窓越しに風俗街のネオンが室内に差し込んでいる。そこで今枝は立ち止まった。
「……」
息を飲み、今枝は侵入者の恰好を凝視した。部屋を間違えたとは考えなかった。この男は狙ってこの部屋に入り込み、先回りをしていたのだと推測した。今枝は部屋の明かりをつける代わりに足でドアを押さえた。廊下の明かりが筋となって侵入者の右半分を照らす。
備え付けの椅子を90度回転させて男が今枝に向き直った。男は紫のシャツに深紅のネクタイ、シルバーのチョッキを着ていた。身体の線は細いが異様に頭が小さく、イタチを髣髴させる顔つきだ。髪は丁寧に後ろに撫でつけられている。
今枝が皮肉まじりの顔つきで先に口を開く。
「すなまい。ノックをした方が良かったかな?」
侵入者の男は足を組みながらニヤリと笑う。
「気にするな。ここは君の部屋だ」
今枝はやれやれといった風に首を振る。
「仕事の依頼なら明日事務所で、と言いたいところだが生憎、休業中でね。事務所が塞がっているんだ」
そういって今枝は男の反応を伺う。だが、男は顔色一つ変えず鋭い目つきで見上げてくる。仕事柄、今枝は狂気を孕んだ目つきの人間を何度も目にしている。が、この男の場合はそれらとはちょっと違う。内に秘めた獰猛さをいつでも引き出せそうな雰囲気を持っているのだ。
男はクイッと顎を上げていった。
「単刀直入にいう。貴重な時間を消費させるのは申し訳ないからな」
「気を遣って貰わなくて結構。別にそういう仲じゃないだろう。お互い初対面だ」
「では、遠慮なく言わせてもらう」
そういって男は、まるで溜めをつくるように勿体ぶって口元を歪めた。スリガラスから差し込む赤や緑の明かりがオールバックで固めた男の髪に反射している。
「手を引け。さもなければ寝返れ」
男の言葉に今枝が苦笑いを浮かべる。
「……実にシンプルな二者択一だな」
「考える手間を省けるように配慮した。合理的な提案だろう」
「提案? 脅迫のようにも聞こえるが?」
「どう受け取ろうと君の自由だ。ところで、幾らで請け負った?」
「それは聞かない方がいい。多分、後悔するから」
「ほう。こちらはその倍出す、と言いたいところだが、その様子じゃ結構な額のようだ」
「金額の問題じゃない。信用にかかわるのは困るんだ」
「なるほど。しかし、こちらはオプションを用意している。例えば安全が保証されるというのはどうだ?」
「お引き取り願おうか。その為にこうやってドアを開けっ放しにしているんだが?」
そういって今枝が男に立ち去るよう促す。
「そうか。それなら長居は無用だ」
男はそういってゆっくり立ち上がった。
すれ違う瞬間に双方の殺気が交差したように感じられた。まるで互いの刃の切っ先がぶつかり合うような緊張感が走った。
男を送り出してからドアを閉める。一瞬、部屋の明かりを点けるべきか迷ったが、今枝は首を振った。そしてカーテンも閉めず、そのままベッドに向かって仰向けにダイビングした。
酷く長い一日だったように思える。だが、悪い気はしない。
「フン……段々それらしくなってきやがったか」
見上げた天井では遠慮がちに差し込んでくる下品な明かりが社交ダンスの足跡のように規則的な動きを繰り返していた。