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最終話 ブレイン・ブレーカー

 今枝と青年、少し離れて矢内原が立っている。

 それに対峙するようにホイヘンス博士、八神桐子、西園寺公春が並んでいる。

 青年が強い口調で尋ねる。

「花梨はどこですか?」

 博士はそれに応える代わりに軽く頭を振った。

『安心したまえ。上の部屋で休んでいる』

 それを聞いて八神青年は「良かった……」と、脱力したようにしゃがみ込んだ。 

 そこで矢内原が博士に疑問をぶつける。

「博士。スティモシーバーとは何なのですか?」

 博士は翻訳機の音声を確認して少し首を傾げる。

『ところで貴方は? どちらさまで』

「刑事です。日本で起こった連続殺人事件を捜査しています」

『ああ』と、博士は頷く。その隣で八神桐子は知らん顔をしている。

「俺も聞きたいね」と、今枝が口を出す。

「いったい何なんだ? スティモシーバーとは?」

 今枝の質問にホイヘンス博士は白衣のポケットに手を突っ込んだまま何度か頷いた。そして、おもむろに口を開いた。

『知ってのとおり、80年前にホセ・デルガード教授が発明した装置だよ。外部からの情報を受け取って脳に電気刺激を与える。それだけのものさ』

 今枝が即座に突っ込む。

「嘘をつけ。アンタ達はそれで何をしようとしている? 本当はもっとヤバい代物なんじゃないか?」

 博士は余裕たっぷりにいう。

『確かに今のままでは大したことは出来ない。せいぜい、肉体の能力を限界まで引き出すぐらいだ。先ほど君達のお相手をした男のように』

 矢内原がそれを聞いて顔を歪める。

「信じられない。アレはスティモシーバーの効果だったのか……」

 今枝が腕組みしながら問う。

「分かったぞ。アイツのような兵士を量産して売りつけるんだろう。戦争屋に。或いは世界征服か? ここの有人ロボットも使って」

 今枝の指摘を受けて博士と西園寺が急に笑い出した。

 西園寺がお腹を揺すりながら今枝をバカにする。

「世界征服だって? バカじゃないのか? 漫画の読み過ぎだろう」

 博士も楽しそうに笑う。

『面白い発想だ。だが、余りにも非効率的だな』

 2人の思わぬ反応に今枝が顔を赤らめる。

「な、何だよ。クソが……」

 博士はポケットから手を抜いて指をメトロノームのように振った。

『目的は合っている。ただし、我々の計画はもっと合理的なのだよ』

「どういうことだ?」と、矢内原が顔を顰める。

『今のスティモシーバーは不完全なのだが、完全版を使えば世界を牛耳ることは簡単なのだよ。その足りない要素をトーコが埋めてくれるのだ』

 そういって博士は隣の桐子に視線を送った。しかし桐子は無表情に今枝達を眺めているだけだ。

 今枝が首を捻る。

「足りない要素だと?」

『そうだ。今回、トーコがそれを持ってきてくれた。何か分かるかね?』

 西園寺がニヤニヤと笑っている。今枝はそれを見て忌々しそうに首を振る。

「分からないね。勿体ぶるなよ」

『エンドルフィン、ドーパミン、それらの分泌を促す機能だ』

「なんだ? それは?」と、意味が分からない今枝に代わって矢内原が博士に尋ねる。

「脳内麻薬。まさか人工的にそれをコントロールできるとでもいうのですか?」

『可能だ。完全版のスティモシーバーでは外部からの信号で自由自在にそれがコントロールできる。まさしく夢の装置なのだよ』

 今枝が憤慨する。

「ふざけるな! それじゃ麻薬と同じじゃねえか」

 博士はやれやれといった風に首を振る。

『麻薬ごときと一緒にしてもらっては困るな。この装置はそんなチンケなものじゃない。副作用の無い究極の快楽機関。世界中のセレブが欲しがるだろう』

 矢内原が眉間に皺を寄せながら呟く。

「確かに厄介な代物だ……」

 西園寺が補足する。

「世界中のセレブや権力者にこの装置を安く販売する。爆発的に広まることだろうな。それが一巡すれば我々の計画は最終章を迎えるんだ」

 矢内原が険しい表情で呻く。

「スティモシーバーをダシにして脅迫するつもりか」

 西園寺がおどけた調子で矢内原を褒める。

「お? 察しがいいね。君は。その通りだよ。何しろ頭の中に爆弾を埋め込まれているんだ。逆らうことなど出来ない。我々の意のままに世界は動く」

 今枝が首を振る。

「それがテメエらの目的か。馬鹿げてる!」

 今枝の言葉を無視して西園寺が続ける。

「馬鹿げているだって? 7%理論を知らんのかね? ある集団を完全に支配するには7%の人間を洗脳できれば良いのだよ」

「まさか。たった7%で?」と、今枝が驚く。

「集団を実質的に動かすのは三割の人間だ。七割の蟻は働かないというのを聞いたことはないかね。人間も同じだよ。例えば百人の集団があってそのうちの7%を感化して支配下に置く。洗脳された人間はアクティブに動くように仕立てる。この7という数字が境界線だ。ここを超えると実際に働いている三割の連中に大きな影響、それも拡大する方向に作用する。7%以下だと現状維持が精いっぱいだというのに、なぜか7を超えると拡大傾向がみられるんだ」

 矢内原が呻く。

「それを政治の世界でやろうというのか……」

 スティモシーバーで世界を征服するというのは荒唐無稽こうけいむとうな話であると思われた。しかし、政治家十数人を洗脳するというのは不可能な話ではない。ましてや洗脳された人間が快楽の極みであるそれを次の人間に勧めるとなるとスティモシーバーがどこまで拡がるのかは予想できない。

 西園寺が桐子をチラ見しながら得意げにいう。

「これも先生のおかげだ。ついに我々の時代が来る!」

 そこで八神青年が力なく立ち上がった。

「信じられません。無関心の塊みたいな母がそんな計画に関与していたなんて……」

 博士は青年と桐子を交互に眺めながら顎髭を撫でる。

『関係も何もトーコの記憶こそが計画の要なのだよ。脳内麻薬を自在に操る機能の設計図。それは過去に失われてしまった。だがそれが彼女の類まれなる記憶力で蘇るのだ。こんなに素敵なことはあるまい』

 今枝が桐子を批難する。

「そんな計画に協力するなんて、どうかしてるぜ、おっかさん!」

 しかし八神桐子は何の反応も示さない。そして博士が彼女に代わって答える。

『逆らえんのだよ。彼女は。君という人質がいる限りは』

 博士の目は真っ直ぐに八神青年に向けられている。その視線を受けて青年が動揺する。

「人質? い、意味が分からない……」

 博士は勝ち誇ったように説明する。 

『知らんのか? 君の脳に埋め込んだ装置はちょっと特別でね。私でなければ取り出せないように細工してあるのだよ』

「なんだと?」と、今枝が唖然とする。

『何の実績も無い君を我が組織に受け入れたのはその為だよ。トーコは何とか取り出そうとしていたようだがね。ついに諦めて設計図を提供することに同意した』

 そういって博士は人を見下した目で青年を見た。

 今枝が気の毒そうに青年に声を掛ける。

「アンタも利用されてたのか……」

 矢内原が博士に向かっていう。

「そんな大がかりな計画があったとはね。驚きですよ」

 博士は満足そうに頷く。

『そうだ。スティモシーバーの研究に携わりながら若い頃から夢見ていたのだよ。これぞ我らが真の目的。ブレイン・ブレーカー計画だ』

 そこで今枝が首を捻る。

「ブレイン・ブレイカーだって? 連続殺人犯のことか?」

 すると青年が小さく首を振る。

「違います。博士が言っているのは『ブレーカー』です。『破壊するもの』という意味ではありません」

 それを聞いて今枝が混乱する。

「ちょっと待て。『ブレイカー』と『ブレーカー』だと? 何が違うんだ?」

 青年は自分の頭部を指差しながら解説する。

「叔父は脳を物理的に破壊する『ブレイカー』でした。ですが博士は脳をシャットダウンすることができるという意味で『ブレーカー』と言っているのです。権力者達に埋め込んだ装置はいつでも外部操作で脳の活動を遮断できると」

 博士がゆっくりと頷く。

『その通りだ。命を奪う訳ではない。自我を中断させるだけだ。君達は自我というものを魂みたいな存在と考えてやしないか? だが、それは正しくない。自我とは連続性からなる錯覚、つまり選択の連続に過ぎんのだよ。例えば、喉が渇く、これは身体という物体が水分を必要とする状態、それのサインだ。生体反応ともいう。そこに意思は介在しない。それは分るな? 次に温かい部屋というものがあるとしよう。それは紛れもなく存在するものだ。だが、その部屋はなぜ暖かいのだろう? その場合なんらかの熱源があるはずだ。それは暖房器具かもしれない。ろうそくかもしれない。勿論、部屋は密閉されていなければならない。窓が開けっぱなしでは熱が失われてしまうからね。つまり何が言いたいかというと、暖かい部屋というものは存在するが実態は無い。それを構成するものがあって初めてそれは認知されるということだ。自我も同じだよ。自我という物は存在するが実態は無い。幾つかの事象が組み合わさった結果として相対的に存在が認知されるに過ぎない物なのだよ』

 博士の長々とした説明に今枝は何度か首を振る。

「なんだか小難しい話はよく分からんが、要するにスティモシーバーは、その自我という実体の無いものを遮断する為のものだということか」

『それだけではない。単なる電気ショックで自我を阻害することは簡単だ。だが、真のスティモシーバーは自我を構成する要素を外的に書き換えることができる。それがどういう意味を持つか分かるかね?』

「さあな」と、今枝は首を振る。

『自我というものが自分だけのものにはならないということだ。その結果、自我は脳という物理的な装置に縛られなくなる。スティモシーバーの生みの親であるデルガード教授は恐らくそのことに気付いたのだろうね。自我とは所詮、電気信号の作りだす幻影であり、錯覚に過ぎない。それを知って彼は虚しくなってしまったのだろう』

 博士の説明を聞いて今枝は八神青年から聞いた話を思い出した。80年前にスティモシーバーを作ったホセ・デルガード教授が晩年に自らその開発を止めてしまったこと、そしてスティモシーバーそのものの効果を自ら否定していたことを。

 今枝が呟くようにその名を口にする。

「ブレイン・ブレーカーか……」

 博士がじっと今枝の顔を見ながら頷く。

『自我を脳から解放する装置。スティモシーバーの別名だ』

 今枝が厳しい視線を青年に送る。

「……知ってたのか?」

「え?」

 怒りを押し殺したような口調で今枝が問い詰める。

「知ってたのかと聞いている」

「ええ……自分も組織の人間ですから」

 今枝はわざと大きなため息をついてみせた。そしてやりきれないといった風にまくし立てる。

「冗談じゃないぞ。はじめから知ってただと? 何が妹のボディガードだ! スティモシーバーを狙っている一味を探れともいったよな? 元はいえば全部身内じゃないか。とんだ茶番だろう。俺を利用したということか? 舐めるな!」

「そうではありません。初めから今枝さんを騙すつもりは……」

「知るかっ! 気分が悪い」

 そういうと今枝は青年に背を向けてしまった。

 青年は気まずそうに俯く。それを横目に矢内原が西園寺に問う。

「西園寺議員。貴方、まさか本気で信じている訳ではないでしょうね? そんな計画がうまくいくなんて」

 すると西園寺は「はぁ?」と、人を食ったような顔で答える。

「信じているとも! 悪いが、もう引き合いは来てるんでね! 奥村大臣、田辺長官、漆原先生、渡辺幹事長、そうそう、君等のボス。警視庁のトップも興味を示していたよ」

「バカな……」と、矢内原が唇を噛む。先ほどの7%理論が思い出される。

 博士はオペラ歌手のように両手を広げて胸を張る。

『誰が抗えるというのかね? 際限なく続く快楽の誘惑に!』

 西園寺も高笑いして言い放つ。

「バカどもはこぞってスティモシーバーを欲しがるだろう。そうなれば政界で私に逆らえるものは居なくなる! 夢のような話じゃないかね?」

 それは突拍子もない計画だ。だが同時に有り得ない話でもない。もし、スティモシーバーの性能を目の当たりにした時に誰がその誘惑に打ち勝てるというのか。しかもそれはセレブほど陥りやすい罠のように思われた。

 その時「無理だね」と、今枝が口を挟んだ。

「それを完成させるにはパーツが必要なんだろ? だったら俺がそれを吹っ飛ばす」

 今枝はそう言って銃を八神桐子に向けた。

「今枝さん! いつの間に?」

 青年が驚いたように今枝はいつの間にか銃を拾っていたのだ。

 今枝の行動に博士と西園寺の顔つきが変わった。青年と矢内原も固まった。だが、銃口を向けられた桐子は相変わらずの無表情だ。

「待ってください!」と、青年が今枝と桐子の間に入り込むように立ち塞がる。

「どけ。これが最も手っ取り早い」と、今枝は冷酷な目で桐子を見ている。そして、チラリと博士、続いて西園寺を見て吐き捨てる。

「こいつらを撃ち殺すのは簡単だ。だが、同じようなことを考える輩は必ず湧いてくる。だったら元を断つしかない」

 それは完全に殺し屋の目つきだった。その迫力に青年が怯んだ。矢内原も絶句した。さすがの博士と西園寺も狼狽える。

 そこで青年が口を開いた。

「自分を撃ってください」

「なんだと?」と、今枝が青年を睨む。

「今枝さん。お願いします。自分が死ねば母は協力しないで済みます」

「覚悟の上か……いいだろう」

 今枝の銃が鈍い光を放つ。それは獲物に飛びかかる直前の獣のように見えた。

「最後に言い残すことはないか?」と、今枝が問う。

「では、ひとつだけ……残念ですね! 少なくとも西園寺議員が政界を牛耳ることは有り得ませんよ!」

 青年は西園寺に聞こえるように大声でそう挑発した。

 それを聞いて西園寺が憤る。

「はん! 負け惜しみか? バカなことをいうな!」

「いいえ。日本に帰ったら貴方は逮捕されるでしょう」

「何だと? なぜ私が?」

「空港で連絡を受けたんです。叔父は自首するそうです。連続殺人は自分の一存でやったことだと。そしてそれは西園寺議員の指示だったと供述するつもりだそうです」

 青年の言葉に矢内原が驚いた。

「何だって? 撃ったのは藤村氏の独断だったのか!」

「はい。手術をさせたのは母ですが、その後で叔父は証拠隠滅の為に自分の判断で殺したと言っていました」

「それは間違いないのかい? 殺害は彼女の指示ではなかったのか……」

 そういって矢内原は桐子の顔を見た。すると彼女は矢内原の視線を跳ねつけるように一瞥をくれると、また元の無表情に戻った。

 矢内原も驚いたようだが、もっと驚いたのは西園寺だった。

「なっ、なに? おい、それはどういう意味だ?」

 形勢が逆転したように青年は意地悪く言う。

「叔父は貴方の指示でスティモシーバーを集めていたと自白するんです。そして口封じの為に被害者を射殺したと。貴方の指示であった証拠は幾らでも作れる。その準備が整ったから連絡してきたんですよ」

「ふざけるなっ! 誰が……誰がそんなことを信じるか!」

 そこで今枝が銃を下しながら首を回した。

「そういえば俺も忘れていたよ。伝言を頼まれてた。アンタ、生きて帰っても地獄だぜ?」

「伝言だと?」と、西園寺が困惑する。

「ああ。下請けいじめは感心しないな。新宿のビル爆破。アンタの指示だったんだろ?」

「な、な、なぜそれを?」

「秘書がゲロったそうだ。それからショッピングモールの爆発も同じだ。アンタの下請けがやらかした事件は全部、記録を取ってあるらしいぜ」

「バカな……あいつが? 生きていたのか」と、西園寺が青ざめる。

 今枝はドイツの空港でイタチ男から預かった伝言を披露する。

「泥棒の帽子は良く燃えるんだとさ。ロシアの諺なんだってな。悪事を働けばおのずから露見するって意味だろ」

 顔を真っ赤にする西園寺に向かって今枝がさらに追い討ちをかける。

「奴は古い物を捨てることに躊躇しない人間だ。今頃、アンタに不利になるものだけを徹底して吐き出しているはずさ」

「憐れな人ですね」

 青年の言葉に西園寺が仁王像のように顔を歪めた。そして懐から銃を取り出して青年に向けて発砲した。弾は外れるが緊張が走る。即座に今枝が西園寺に銃を向ける。が、今枝の指が止まった。西園寺の前を白い物体が横切ったからだ。

 そして2発目の発砲音。それは若干、鈍い音となって広がった。八神青年を庇って西園寺の前に飛び出した桐子がゆっくりと崩れ落ちていく。彼女のスカートがカーテンの裾のように揺れる。それは金魚の尾ビレのように見えた。

 空気が縛られ、言葉が行き場を失くす。

 西園寺が絶叫しながら銃を再び青年に向ける。だが、その手を今枝の放った銃弾が一発、二発と容赦なく薙ぎ払った。細かな血潮が小さく跳ね、西園寺の指先を散らした。西園寺の悲鳴が工場内にこだまする。

 青年が駆け寄って桐子を抱き起す。

「母さん!」

 西園寺に至近距離で撃たれた桐子は腹部から激しく出血している。

 青年は母の行動に戸惑っている。

「なぜですか……なぜこんなことを……」

 青年の顔が歪み、その目からは涙が溢れ出る。

 青年の顔を見上げた桐子が少し戸惑うような表情をみせる。そして「……良かった」と、安堵の溜息を漏らした。まるで自分にも人間らしい感情があったことに感謝するかのように彼女は涙し、そして息を引き取った。

「母さん……」

 その悲劇を目の当たりにしてホイヘンス博士は頭を抱えた。

『なんてことをしてくれたんだ! 設計図! 設計図が!』

 母親の亡骸に縋って泣く八神青年。それを見下ろしながら今枝が立ち尽くす。

 矢内原がぽつりと話し始める。

「恐らく二十年前に八神桐子氏がオランダに渡航したのは君の治療の為だったんだろう。そこで博士は5歳だった君にスティモシーバーを埋め込んだ。しかし、それは彼女の本意ではなかったはずだ。だから、自分でそれを取り出す為に松山の西園寺記念病院に勤めていたんだ。博士と親交のあった西園寺公春氏の父上は日本に持ち帰ったスティモシーバーを自分の患者に埋め込んでいた。それが今回の被害者達。それと八神花梨さんだった」

 青年が顔を上げて矢内原に尋ねる。

「花梨にスティモシーバーを埋め込んだのは父ではなかったのですか?」

「ああ。あそこにいる西園寺公春氏の父だ。既に亡くなっているがね。その事実は裏が取れている。八神桐子氏はその西園寺氏に従事することで君の装置を取り出す努力をしていたと思われる。ところがそれは博士にしか手術できない危険な部位に埋め込まれていた。しばらくはそのままでも問題は無かった。しかし、先ほどの話で分かった。恐らく最近になってホイヘンス博士は「脳内麻薬の設計図」を渡すよう彼女を脅迫したんだろう。そこで焦った彼女はメディカル・マニピュレーターを使った手術を繰り返すことで、自力で君の装置を除去手術できるかもしれないと考えた」

 矢内原は自らの仮説について淡々と話した。

 それを聞いていた今枝が呟く。

「おっかさんは息子の装置を取り出したくてあんなことを……」

 矢内原が頷く。

「殺害してしまったのが藤村氏の独断だったとすれば、桐子氏の目的はあくまでも浩介君の装置を取り除くことだったと思われる」

 今枝がやるせないといった風に首を振る。

「それが連続殺人の真相か……」

 そこで青年が首を振る。

「嘘です。だって、だって、母は僕のことが嫌いだったんです! そんなことをするはずがありません! その証拠に母はいつも僕を避けていました」

 それを聞いて矢内原が悲しそうに首を振る。

「いいや。そうじゃない。むしろ逆だよ」

「何が逆なんですか!」

「君のお母さんは意図的に君を遠ざけていたんだよ。君を傷つけない為に」

「あり得ない! だって母は……」

 矢内原は胸の内ポケットから小さな手帳を取り出した。

「これは井深……ああ、あそこでまだ苦戦しているみたいだが」

 その視線の先では、工場の奥でまるで蜂に追われているみたいに踊り狂っている有人ロボットの姿があった。

 矢内原が仕切り直しで青年に向き直る。

「この手帳は西園寺記念病院の資料室で井深が見つけてきたものだ」

 手のひらサイズの古びた手帳は黒い表紙が色あせていて年季を感じさせる。

「君のお母さんのものだ」

 それを聞いて青年がはっとする。

「母の……手帳?」

「日記というものではないが、走り書きで所々に心境が書いてある」

 矢内原はそう言って手帳を青年に手渡した。そして一言付け加える。

「代理ミュンヒハウゼン症候群」

「え?」と、青年の顔が曇る。

「誰かを傷つけ、それを介抱することで自分の存在意義を確認しようとする症状。児童虐待をする母親に見られることがあるそうだ」

 矢内原の説明に青年が戸惑う。そして矢内原の顔をまじまじと見る。

「刑事さん……それはもしかして」

「ああ。身体に古傷は無いかと聞いたのはそれを確かめる為だった」

 矢内原はゆっくりと青年に語りかける。

「若き日の彼女は自らの症状に悩みをもっていた。自分は好きという感情が理解できない。誰かを愛するということも。そんな自分に絶望して人知れず泣いたこともあっただろう。彼女が医学生時代に君を身ごもったのはある種の賭けだったんだ。こんな自分でも母親になった時に母性が目覚めるかもしれないと」

「でもそれは失敗だったんでしょう? だって母は……」

「いいや。君のお母さんはネグレクトなどしていない。学業と子育ての両立は大変だったと思う。それが出来たのはなぜだと思う? 愛情が無ければそんなことはできない」

「それは仕方なくでしょう」

 そんな青年の言葉に「うぉお!」という叫び声が被った。見ると西園寺が右腕の出血を反対の手で押さえながら喚いている。

「畜生! 死刑だ! 死刑にしてやる! 議員を撃ったんだ。死刑に決まっている!」

 今枝が無言で銃を上げる。そして一発、西園寺の左膝を撃ち抜いた。西園寺はガクンと膝を床に落とし、引っくり返って絶叫しながら悶え苦しむ。

 今枝はそんな西園寺に向かって冷たく言い放つ。

「黙ってろ。絶叫するのは選挙の時だけにしとけ」

 西園寺を黙らせたところで今枝が続きを促す。

「で、刑事さん。おっかさんは手帳に何を書いてたんだい?」

「我が子を素直に愛せない悩みが書いてあった。それに『チック症候群』『赤ちゃん返り』などの単語。おそらくそれはオランダから帰国後の浩介君の症状だったのだろう。それと幼い浩介君が動物実験を目の当たりにしてショックを受けたことも書かれていた」

 それを聞いて今枝が反応する。

「トラウマか。おっかさんは知ってたんだな」

 矢内原が頷く。

「ああ。彼女は酷く悔いていた。只でさえ自分に似て感情が乏しい子供なのに完全に失語症のようになってしまった。おそらく幼かった浩介君は大好きなお母さんがそんな残酷な実験をしているということに強い拒絶反応を示したのだろうね」

 青年と今枝が同時に驚いた表情を見せる。青年が顔を引きつらせながらいう。

「ちょっと待ってください。実験って……あれは父の研究室で」

「いいや。それは君のお母さんのミスディレクション、刷り込みだ。君が見たのはお母さんの実験現場だったんだよ。君のお父さん、八神宗一郎氏の専門は『遺伝的』な脳組織の疾患で、『外的要因』による脳組織への影響は君のお母さんの専門分野なんだ」

「違う。違う。確かにあの時、目が合ったんだ! 父の、父の研究室のネズミ……」

「浩介君。君が見たネズミの目の色は赤かったかい?」

「え……いえ……」

「脳に電極を刺されていたのは『ラット』だ。君のお父さんは『マウス』しか実験に使わない。アルビノのマウスは白くて目が赤い。そして小さいから解剖には向いていない。だから主に免疫や遺伝学の実験として使われる。君が見せてくれた写真にはマウスが映っていた。それにマウスは尿の匂いが強いから空気清浄機が必須だ。乾燥に強い観葉植物、大量のペットボトルも実験室が乾燥していたことを物語っている。ラットは乾燥に弱いんだ」

 矢内原の指摘に今枝が驚愕する。

「なんてこった……そういうことだったのか」

 矢内原は青年の目を見て穏やかな口調でいう。

「つまり、君のお母さんは君に嫌われたくなかったんだ」

 青年は言葉を失った。愛されていないと思っていた母の真実を聞かされて呆然としているように。

そこで今枝が「ルピナス」と、呟く。「伊豆の別荘。地下室に入るところに飾ってあっただろう。思い出したよ。あれの花言葉は『母性愛』だ」

 矢内原が頷く。

「それとピノキオの絵本。確かピノキオは人間になりたい人形の話だったね。これは想像だが、彼女には願望があったんじゃないだろうか。人間らしい感情を持てるようになりたい。自分も、そして君も……」

もうその時点で浩介の涙は止まらなくなっていた。母の亡骸を抱き、母の想いを噛みしめながら浩介は静かに涙した。

 静まり返った工場内はロボットの群れが生まれる場所でありながら、また同時に墓場のようでもあった。


   *   *   *


エピローグ


 今枝と矢内原はビジネスクラスの隣り合わせで日本に向かっていた。

 窓際の席で矢内原がぼやく。

「しかし警察の人間としてこの結末は受け入れがたいな」

 今枝はオンザロックを手にしながら空の旅を満喫している。

「刑事さんが報告したところで結果は変わらんのでは? こんな面倒な案件を上層部は公表しないでしょ」

「……それは否定できないな」

「だいたい西園寺が日本に帰って来られるかも分からないですし。あの博士、相当怒っていましたからね」

「浩介君はどうするんだろう?」

「ホイへンス博士の手術を受けるそうですよ。妹さんと一緒に。それでしばらくはオランダに残るつもりなんじゃないですか。おっかさんを弔うんでしょう。妹さんと一緒にね。そういえばもう一人の刑事さんは?」

「オランダリーグの試合を観て帰るそうだ。二部リーグに日本人選手が出場しているらしい。呑気な奴だ」

 憮然とした様子の矢内原に今枝が笑いかける。

「いいじゃないっすか。せっかくいい席が手に入ったんだから。飲んで忘れましょうや」

そう言ってグラスを掲げる今枝を見て矢内原が肘をつきながら尋ねる。

「発砲の件もか? 池袋で発砲したのは君だろう」

「や、そ、それは……」

「まあ、いいだろう。ところで本当に荷物はあれだけなのか? 呆れたもんだ。本当に手ぶらだったとはな」

「ええ、まあ。急な話だったもので」

「それで帰りはヌイグルミをひとつだけか? 何なんだアレは?」

「え? 物知りな刑事さんでも知らない?」

「ああ。知らないな」

「昔からロシアで人気があるキャラクターなのにねえ」

 そういって今枝は楽しそうにグラスの中身を飲み干した。それを見て矢内原は小さく首を竦め、グラスを口元に運ぶ。そして、いつもよりも大きな角度にグラスを傾けた。


<おわり>

♪EDテーマ 菅原沙織「いつの日も」

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