第15話 稀有な存在
八神桐子という稀有な存在について。
八神桐子、旧姓『藤村桐子』は1993年、岐阜県大垣市で生まれた。
中古車販売業を営む父『英和』と専業主婦である『麻紀』の長女として生まれた彼女は幼少期を市内の県営住宅で過ごした。
小学校に上がる前の桐子は他の子どもと遊ぶことを嫌う無口な子供であったが、知能は極めて高かった。例えば5歳の時、桐子は保育園の園長に新しい本を入れて欲しいと強く訴えた。驚くことにその理由は、園に置いてある絵本はすべて覚えてしまったから退屈だというものであった。事実、桐子は百冊を超える園の蔵書をすべて丸暗記していて、本のタイトルとページ数を聞けばそのページの文言やどんな絵が描かれているのかをスラスラと再現することができた。そこで園長は近くの小学校に依頼して桐子の為だけに小学生向けの本を置くように手配した。しかしそれも桐子が片端から読破して中味を暗記してしまうので毎週のように本を入れ替えなくてはならなかったという。そんな桐子の頭脳に驚いた両親は『サヴァン症候群』を疑ったが、大学病院で何度か検査を行ったものの、その兆候は見られなかった。
異常な行動が見られるようになったのは彼女が8歳になってからだった。当時、桐子の住む県営住宅の近くには池があった。その池には比較的大きなトノサマガエルが生息しており、それを捕えることが子供たちの間で流行していた。小学校に入ってからも友達らしい友達が居なかった桐子もトノサマガエルに興味を持ち、ひとりで池に通ってはそれを捕まえることに熱中した。ところが桐子の目的は他にあった。彼女は家に持ち帰ったカエルを解剖していたのだ。彼女はハサミやカッターナイフを使って飽きることなく何度もカエルを切り刻んだ。やがてそれは母の知るところとなり、血まみれの洗面器を発見した母親は何度もそれを止めさせようとした。しかし、桐子の生物に対する執念は日増しに強くなっていく。そしてついには近所で猫の死骸が相次いで発見され、学校内のウサギ小屋が何者かに蹂躙されてしまった。心配した母は、遠方の精神科医を選んでは桐子に診察を受けさせたが小動物への虐待こそ納まったものの改善は見られなかった。桐子の場合は他者に対して極端に無関心という以外に、これといった症状はなく、医師によって病名が異なることさえあった。中には『サイコパス』であることを示唆する医師もいたが「女の子であること」と「この年齢では断定できない」という理由で、結局はそれらしい病名が浮かんでは消え、通り一遍の治療しか受けさせることはできなかった。それでも母は治療を諦めず、桐子を連れて日本全国の病院を回った。しかしそんな生活が続く中、父親である英和に異変が起きた。彼は娘の為に家を空けることが多かった妻を激しくなじり、酒を飲むたびに母娘に暴力をふるった。その結果、母娘は父からの暴力を避ける為にますます家から遠ざかった。その一番の被害者は現在も逃亡を続けている桐子と6歳違いの弟『藤村英人』だったといえる。
やがて英和は愛人を作り、家に帰ってくることが殆ど無くなった。それと入れ替わるように母娘は自宅に戻ってきたのだが、その頃にはもう母は娘の治療を諦めていたようだ。また、中学に上がる頃には桐子の残虐行為の類は完全になりを潜めたことから母は思春期を迎えたことで娘が更生したと考えていた。ところが桐子自身の性格や行動は子供の頃と何ら変わることなく、感情を表に出さないというよりも感情が無い少女だった。コミュニケーション障害を疑う者もあったが日常生活に支障は無い。話し掛けられれば反応はする。必要があれば自分から話し掛ける。しかし、それは自然言語処理(コンピューターによる自然言語での受け答え)のように人間味はまるで感じられないものだったという。その為に当時の彼女は学校ではその外見の美しさとのギャップから『ドール』と呼ばれていた。そんな彼女も自らの異常性について自覚していた節がある。中学生時代に唯一、桐子と話をする機会を複数回持ったという元同級生によると、一度だけ桐子は『わたしは欠陥人間だから』と吐露したという。その理由を彼女は『好きという感情がまったく理解できない』と説明したが、そのことで深く悩んでいるようにはみえなかったそうだ。
高校受験を控えた中学三年生の時に桐子は突如、『ロボトミー』や『スティモシーバー』に興味を持つ。その頃にはインターネットが普及していたことから彼女は外国のサイトを中心にそれらについて情報を集めていた。それに飽きたらず、中古の医学書を取り寄せたり大学の医学セミナーに参加したり、学校にも行かず一日の大半をそれらの研究に費やす生活を送った。それでも頭の良かった彼女は殆ど勉強することなく県内有数の進学校に合格する。
高校に進学後、しばらくは普通の学校生活を送っていた桐子であったが、一年の夏に母親である麻紀が自害した。遺書はなく動機は不明であったが、夫の不倫で悩んでいたとも噂された。母娘の関係は悪くは無かったという。しかしその葬儀の間、桐子は一滴たりとも涙を流すことが無かった。悲しくないのかと問う人間も居たが、彼女はそれをことごとく無視した。さらに翌年、父の英和が不慮の事故で死亡してしまう。この事故については不審な点があったが結局は事故として処理された。今となっては桐子が関与していた可能も否定できないが、本事件とは無関係であることから詳細は省略する。
皮肉なことに父の死によって桐子はまとまった保険金を手にすることとなった。実際には父方の祖父が保護者となったようだが事実上は桐子がそれを管理し、一人暮らしを始めた自らの生活費と学費、そして残り半分を弟の養育費として祖父に委ねた。
父の死後、桐子は現役でT大学の医学部に合格する。そこで八神教授のゼミで宗一郎に出会う。そして23歳で宗一郎との間に出来た浩介を出産。2年間の休学を経て28歳で医師免許を取得した。その翌年、桐子は浩介を連れて母子2人でオランダに短期留学した。記録によるとこの時点でようやく八神宗一郎は浩介を認知したことになっている。その後、30歳で帰国し、すぐさま松山の西園寺記念病院に単身で赴任する。そこで2年を過ごし、その間に第2子である花梨を出産した。
桐子が東京に戻ってきた時、彼女は既に32歳となっていた。その直後に八神宗一郎が松山に渡ったため、宗一郎とはすれ違いの生活が続いた。しかし、そこからの彼女は目覚ましい活躍をみせる。彼女の専門は『脳神経系における電気作用の外部干渉』であったが、その論文が高く評価されてU大学の助教授となり、35歳という若さでゼミを持つようになったのだ。この時の学生の中に西園寺公春がいた。それが今から13年前だ。桐子のゼミに所属していた学生は皆『何を考えているのかまったく分からない先生だった』と口を揃える。また、余りに感情を表に出さないので度の過ぎたサプライズを仕掛けたこともあったようだ。が、それでも彼女が動じることは一度たりとも無かったという。そのU大学に彼女は5年間在籍し、そこから民間企業の研究室を渡り歩き、現在は技術顧問としてS工業に所属している。彼女の研究は脳波を読み取るタイプのウェアラブル端末技術に広く活用されているように様々な企業から需要があるのだ。
以上が現時点で判明している八神桐子に関する情報だ。この短時間でここまで調べ上げたことは評価に値する。許可が下りれば家宅捜索も行われるので、これから証拠も集まるだろう。ただ、彼女がなぜこんな陰惨な事件を引き起こしたのか、その動機は未だ皆目見当がつかない。それを明らかにする為にも必ず彼女を拘束しなければならない。勿論、渡航先であるオランダの当局との連携は必須だが、矢内原は直接、八神桐子に接触する必要があると考えていた。それは逮捕後に自害する可能性を否定できないからだ。
成田の国際線ラウンジで矢内原はKLMオランダ航空のアムステルダムへの直行便を待っていた。直行便は一日に一本しかない。ということは昨日同じ便を使った八神桐子から丸一日遅れでそれを追う格好となる。
矢内原が捜査ファイルをチェックしていると上司の浮田治彦から連絡が入った。
『少しは眠れたか?』と、浮田は心配そうにいう。
場所を移動しながら矢内原が答える。
「いえ。眠ってはいませんが大丈夫です」
『無理はするな。疲れが顔に出てるぞ』
確かに疲れはピークに達していた。一昨日、徹夜で東京と南伊豆を往復し、昨日は八神宗一郎の事情徴収を行う一方で一日中、八神桐子に関する捜査の指揮に携わっていたからだ。
矢内原は目をしばしばさせながら問う。
「それより藤村英人の行方は? 進展はありましたか?」
『それが難航している』
「ショットガンを所持している可能性が高いのでしょう?」
『ああ。付近の住民を避難させた方が良いと上に進言したが聞き入れられなかった』
「そうですか。まさか自分が訪れた後に容疑者があの別荘に寄るとは……」
そう言いながらも矢内原は別荘からの帰りに猛スピードの違法改造車とすれ違ったことを思い出した。
『君とすれ違った車についても調べている。何台か該当車両があるので照会中だ』
昨日午前に捜査員が南伊豆にある八神家の別荘を訪問した際に何者かが飲み食いした形跡が発見された。八神桐子と藤村英人のDNAを入手して空き缶から採取された唾液と照合した結果、それが藤村英人のものと一致したのが昨夜のことだ。また地下の手術室の現場検証を行った結果、連続殺人事件の被害者3人の血液が採取されたことから、八神桐子及び彼女と行動を共にしている実弟の藤村英人の関与が確定した。その一方で、直前に別荘から姿を消した藤村英人の行方を追ったものの、その足取りは掴めなかった。そして肝心の八神桐子は昨日の午前中にオランダに向けて出国していたことが判明した。その目的と行先は分からない。そこで矢内原は八神宗一郎の尋問で得た『アントン・ホイヘンス博士』という彼女の師を訪ねることにしたのだ。
「部長。オランダの当局への要請はして頂けましたか」
『ああ。八神桐子について何か情報があれば君の端末にも転送するよう手配済みだ』
「ありがとうございます」
『気をつけて行って来るんだぞ。相手は女性だが油断はするな』
「はい。気になることがあれば捜査ファイルに登録しますので引き続き宜しくお願いします」
そこで搭乗案内のアナウンスが流れたので矢内原は通信を切り、気合を入れ直して搭乗口に向かうことにした。
「さて、真実を確かめに行くとするか」
* * *
今枝と八神青年は羽田の国際便ラウンジでフランクフルト行きの便を待っていた。
今枝が埃まみれのパスポートに息を吹きかけながら顔を顰める。
「失敗したな。やはり上着に入れっぱなしだったのが良くなかった」
「でも良かったです。取り直しでなくて」
「まさかあのペシャンコにされたクローゼットから無事に回収できるとはな。これを入れていたジャケットは『おしゃか』だが」
今枝の探偵事務所がトラックに押しつぶされたのは八神青年とはじめて会った日のことだった。そのせいでせっせと買い集めたアンティークの半分は駄目になった。それに一番ダメージを受けたのはトラックが突っ込んだクローゼットで、中の衣類は殆どが使い物にならなくなってしまった。その中に海外旅行用の上着が含まれていたのだが、幸いにもパスポートはその内ポケットで難を逃れていたのだ。
「やれやれ。これ以上は綺麗にならんか」
そういって今枝は真新しいジャケットの内ポケットにパスポートを仕舞う。そして改めて自らの恰好を見て苦笑いを浮かべる。それを見て青年が尋ねる。
「どうかしましたか?」
「いや。何だか、とってつけたようだなと思って。ひょっとして騙されたんじゃないか?」
「デパートの店員にですか? お似合いだと思いますが」
「真顔でそう言われてもなあ」
この衣装は着替えを持っていない今枝の為に青年が上から下までを日本橋髙島屋で揃えてくれたのだが、時間が無い中で選ばされたせいで今枝としては今ひとつしっくりこないのだ。今枝はゆったりしたベージュのパンツに紺のシャツ、チャコールグレー地に格子状のジャケット、ベージュの中折れ帽という出で立ちだ。それに対して青年は黒のタートルネックにグレーのジャケット、パンツはグレーのチェック柄という服装だ。こちらも間に合わせであるが青年の方が明らかにファッション性は高かった。
今枝が欠伸をしながらぼやく。
「出国手続きの時、やはり変な顔をされたな」
「そうでもないでしょう。認証は通ったから問題は無かったのでは?」
「そうか? やっぱり変だろう。海外に行くのに二人とも手ぶらだぜ?」
まるで近場に遊びに行くような調子でここまで来てしまった。共に手提げひとつ持たずに着の身着のままでドイツ経由でオランダまで行こうというのだから確かに心もとない。
「必要な物は現地で調達します。今枝さんの銃も」
「おい。声が大きいって!」
今枝が慌てて周囲を見る。幸い誰も気にしていないが物騒なことに変わりは無い。
青年は一点を見据えて自らに言い聞かせる。
「必ず花梨を助け出さなくては」
彼の真剣な顔を見て今枝は少し心配になった。
「まさか酔っているんじゃないだろうな」
「いいえ。お酒は飲んでいませんよ」
「そうじゃない。ヒロイズムに酔ってるんじゃないかと言っているんだ」
「どういうことでしょう?」
「組織を敵に回しても妹さんを救い出すんだろ?」
「それが何か?」
「いや。何となく。本気でそれをやろうというのがな。アメリカ映画じゃあるまいし」
青年は組織からの指令を無視して本部に向かおうとしている。そして彼の母が本部に連れて行こうとしている花梨を連れ戻すつもりでいる。それは青年にとって裏切り行為になりかねない。だが、彼の決意は固いようだ。
今枝が素朴な疑問を口にする。
「けど、おっかさんはどうやって妹さんをホテルから連れ出したんだろうな?」
「本当の母親ですから。ホテル側も油断したのかもしれません」
「あんなに母親を嫌っていたのに何で抵抗しなかったんだろう。それに連絡ぐらい寄越せただろう」
「おそらく……外部装置を使ったのでしょう。母は花梨のスティモシーバーを外部から操作して言うことを聞かせたのだと思われます」
「外部操作だと? 闘技場で西園寺がやったのと同じことか」
「ええ。西園寺公春ですらそれを持っているとなると母に同じことが出来ないはずがありません。あれは母の専門分野です」
「まるで催眠術みたいだな。どういう原理だ?」
「特定の周波数の音を組み合わせてスティモシーバーに信号を送るのです」
「なるほど。闘技場の時は集音照射(音を分散させずに一か所に集中的に届ける技術)を使ったってことだな」
「はい。骨伝導で信号を伝えることもできます。頭蓋骨が邪魔になるのでスティモシーバーへの接続は音に頼らざるを得ません」
「音……音か」
今枝は花梨に突然襲われた時のことを思い出した。
「そういえばアンタの妹さん。急に暴れ出したことがあったよな?」
「ああ、あの時は本当に申し訳ないことを……」
「そうか。ピアノか!」
今枝の言葉に青年が顔を背ける。その様子では図星だったようだ。
「俺は適当に鍵盤を叩いたんだが、たまたまそれが妹さんの機械に信号を出してしまったんだな」
「恐らくは……もっともピアノだけではなく、今枝さんの鼻歌や足踏みも影響したのでしょう」
「なに!?」
「勿論、偶然に発した音で複雑な信号は送れません。単にスイッチが入っただけです」
「スイッチだと……そんなもんで首を絞められたら敵わんな」
「スティモシーバーが人を自在に操れるというのは幻想です。感情をコントロールしたり、記憶を操作したりするのも不可能です。前にも説明したかもしれませんが、その原理はそれほど複雑な物ではありません」
「だったら、そんな大騒ぎするような物じゃないだろう?」
「いいえ。組織が想定しているのはもっと恐ろしい使い方です。それをやられると世界が大変なことになってしまうでしょう」
「ほう。そこで世界の危機か。ますます映画っぽくなってきやがったぜ」
今枝はおどけた調子でそういったが青年は黙って首を振った。相変わらずの無表情なせいで、どこまで本当のことを言っているのかは分からない。
「そろそろ搭乗口に行かなくては」と、青年が立ち上がる。
「ああ。そうだな」と、今枝はワンテンポ遅らせてゆっくり立ち上がる。そしてフランクフルト行きの便がもうすぐ出発することを示す表示を眺めながら今枝は呟いた。
「さて、世界の危機でも救いに行くとするか」
* * *
八神桐子の立ち姿をモニタ越しに眺めながら白衣の男は椅子に踏ん反り返って顎髭をさする。そしてオランダ語で尋ねる。
『それで、まさか手ぶらでは無いだろうね?』
『勿論ですわホイヘンス博士』と、桐子が流暢なオランダ語で答える。
男は書物に囲まれた薄暗い部屋を背景に大きな体を揺すりながら頷く。
『よろしい。それは楽しみだ。だが本当に期待して良いのかね?』
『博士。もしかして疑われているのですか』
『いやいや。気を悪くしたのなら申し訳ない』
『博士がお望み以上の効果は保証いたしますわ』
そこで博士と呼ばれた男は人を試すような目つきでにやりと笑う。
『なにせ夢の装置だからな。いや『幻の』といった方が良いかな』
『自信はありますわ』
『素晴らしい。やはり君は天才だな』
『ありがとうございます』
そう答えるモニタに映る桐子は静止画像のように無表情で微動だにしない。
『明日の君の訪問を心待ちにしているよ』
『それでは予定通り。明日のお昼に』
『ああ。楽しみにしているよ。Mevrouwヤガミ』
そういって博士は桐子との通信を切った。そして椅子を半回転させてもう一方の通信相手が映るモニタに顔を向けた。
『しかしそれにしても、この手の物を作らせると相変わらず一流だな。君達日本人は』
博士の話し掛けた相手がモニタの中で答える。
『私ももうすぐそちらに到着します。会うのが楽しみです。博士』
そう答えたのは議員の西園寺公春だった。太ったアラブ人のような顔立ちだが、その顔つきは政治家的な愛想笑いではなく、本当に嬉しそうだ。
『西園寺君。いよいよだ。ついにアレが我々の手に入る』
『はい。アレを手中にするということは世界を手に入れることと同義です』
そこで博士はオットセイのように身体を揺らしながら笑った。
『ホッ、ホッ、ホッ、実に楽しみだ』
その笑いはスポーツバーの酔客のように明るいものではあったが、その目は決して笑っていなかった。