第14話 ニアミス
目的の別荘に着くまでの間、矢内原は車を自動運転にして調べ物を続けた。
八神宗一郎と八神桐子を繋ぐ人物、すなわち西園寺公春について情報を集める中、画面送りの手が止まった。
「これは……」
矢内原の目に留まったのは西園寺が医学生だった頃のブログだった。そこには『藤村ゼミ打ち上げ』のタイトルに写真がアップロードされていた。
その写真を見て矢内原が呻く。
「藤村ゼミ……」
写真には八神桐子の姿もある。赤ら顔ではしゃぐ学生達の集合写真の中で彼女は能面のような顔つきで端に写っている。
「藤村……旧姓だったのか!」
八神桐子は当時、旧姓を名乗っていたのだ。25歳の息子がいることから、てっきり八神姓を名乗っているものだと思っていた。そうなると話が違ってくる。矢内原は改めて彼女の旧姓で検索をかけた。矢内原が使用する検索専用のアプリは小池がサルベージに使用するのと同様の性能がある。これならネットの階層を超えて古い情報も拾うことが出来る。するとこれまでヒットしなかった情報が幾つかあがってきた。
「松山!?」
――八神桐子は18年前に松山に居た!
その瞬間、矢内原の中でバラバラだった仮説に一本、筋が通った。まるで点で存在していたものが線で繋がってひとつの図形として認識できるようになった時のように。
矢内原は直ぐに井深に連絡をとった。
「井深! 今どこにいる?」
「え? 宮崎ッス」
「今すぐ松山に向かってくれ」
「冗談でしょ。もう夜中ッスすよ」
「いいから直ぐに! 緊急事態だ。今すぐ西園寺の病院に戻れ」
「へ? でも今から行っても開いてないッスよ?」
「宿直の人間がいるだろう。叩き起こしてでも調べるんだ。もう一度カルテを洗い直せ」
「でも……これから試合があるんスよ」
「試合? 夜中に何の試合だ」
「今からミラノ・ダービーなんスよ」
「ダービー? 競馬か?」
「サッカーに決まってるっしょ。ミランとインテルの首位攻防なんスよ」
「そんなものは車中で見ろ! とにかく急げ!」
「マジッスか……でも、なんで調べ直しなんスか?」
「18年前に藤村桐子という名前の医師が勤めていたはずだ」
「誰ですか、それ?」
「八神宗一郎の妻だ。当時は旧姓を名乗っていた。迂闊だった」
藤村桐子は20年前にオランダに留学してその後に松山で勤務していた。それが18年前だということは八神宗一郎が松山に赴く直前まで彼女は西園寺記念病院に在籍していたことになる。それに気が付かなかったことを矢内原は悔いた。
「先輩、その人が怪しいってことッスか?」
「詳しくは話せない。まだ確定ではないからな」
「酷いッスよ。説明無し今から松山にトンボ帰りしろとか……」
井深は納得がいかないようだが矢内原は一方的に通信を切った。そして、八神桐子が西園寺記念病院に勤めていた場合に考えられる仮説について思考を巡らせた。その仮説に至ったきっかけは『おじいちゃんと高校生』という八神宗一郎の言葉だった。自分と娘をそのように表現したことがどうしても引っ掛かったのだ。八神花梨の年齢は17歳。その誕生前に桐子は松山に居た。勿論、宗一郎の子であることは否定できないが、西園寺の病院で誰かの子を身ごもった可能性も有り得る。八神宗一郎の言葉はそれを意味するのではないか? 彼は妻の不貞を知っていて、歳の離れた妻が生んだ他人の子を孫のように感じているのかもしれない。その証拠に一人暮らしをしている八神宗一郎には家族に対する愛着というものが余り感じられなかった。彼の部屋に唯一飾られていた写真は家族写真ではなく同僚と映った記念写真だった……。
下田町から国道136号を南に下り、ナビに従って車は走った。周囲に緑がぐんと増えて、民家の数は見る間に減っていく。深夜1時を過ぎていることもあって、人の気配は勿論、灯りのともった建物は殆ど存在しない。等間隔に並ぶ街灯が後方に淡々と流れていく。窓の外を眺めながら、なおも考える。
藤村桐子の専門は『電気刺激による神経細胞の制御』だった。八神宗一郎が最後に教えてくれた『スティモシーバー』というものを先ほど調べてみたが、それはまさに彼女の研究にマッチするものだ。その装置は宗一郎が尽力していた認知症の研究よりも遥かに彼女の専門に近い。そう考えると、宗一郎が庇う人間で、かつそのような装置に関係する人物といえば真っ先に彼女が思い浮かぶ。そして決定的なのがマツバランの存在だ。殺害現場の野菜プラントに紛れ込んでいたマツバランの種は彼女によってもたらされた可能性が高い。しかし、宗一郎に手術をさせて術式をマニピュレーターで記録したのが八神桐子だったとしたら、彼女はなぜ今頃スティモシーバーを取り出したのか? 八神宗一郎は「あの時取り出しておけば」と言った。その言葉は、彼が松山に居た時に茗荷谷佳代をはじめ子供の頃の被害者達には既にスティモシーバーが埋め込まれていたことを意味する。そうなると彼よりも前に西園寺記念病院に居た桐子がその件に関わっていた疑いが濃厚となってくる。
――なぜ彼女は自分で埋めたものを今頃掘り返したのか?
一方で本当に彼女自身が18年前に被害者達にそれを埋め込んだのかというと疑問もある。それはメディカル・マニピュレーターの件だ。彼女は医師免許を持っているが手術の実績は殆どない。それに今回は被害者達を手術する為に、わざわざ宗一郎の術式を記録して持ち出したと考えられる。そうなると18年前に被害者達にスティモシーバーを埋め込む手術を誰が行ったのかという疑問が生じる。桐子にはその技術が無かったとなると必然的に協力者がいたことになる。そしてそれは当時院長だった西園寺の父親ではないかと推察される。西園寺公春はその頃まだ高校生だったから、宗一郎の同期でもあった西園寺克治が密かに手術を行ったと考えるのが妥当だろう。
――彼女はなぜ今頃それを掘り返したのか? それを手にしてどうしようというのか?
そこまで考えたところで目的地まであと5分のアラームが鳴った。矢内原は一旦、端末をOFFにして大きく息をついた。そしてハンド・コーティング(スプレーを吹き付けることで手に薄い膜を作って手袋の代わりにする液体)の缶を取り出すと、厳しい顔つきで念入りに手に吹き付けた。
八神家の別荘は緩やかな山の斜面にぽつんと建てられていた。センサーで自動点灯する街灯の明かり程度では建物の全貌は把握できない。月明かりに浮かぶシルエットから洋風の建物であることは識別できる。そしてそれは周囲を森に囲まれているせいで草むらに放置された古いオルゴールを連想させた。
車が4台ほど停められる駐車場から建物までは細い道を歩かなければならなかった。その道も人一人分しか通れない幅しかなく、砂利が敷いてあるだけだ。しかも道の両脇からはところどころに草が大きくはみ出している。矢内原は携帯ライトを頼りに道を辿った。少し勾配がきつい。ゆっくりと歩きながら道端の草むらにも光を当てて観察する。そして道の真ん中あたりに目的の物を発見した。
「あった……」
矢内原はしゃがんで問題の植物に触れた。
「間違いない。マツバランだ」
ひとつの茎が樹形図のように枝分かれして先の方が黄色く染まっている。草むらの一か所だけ色が異なっていたので直ぐに分かったのだ。矢内原はそのうちの一本を慎重に抜いて保存用パックに仕舞った。これを持ち帰って野菜プラントで発見されたものと照合する為だ。とりあえず収穫は得られた。だが、これで終わりではない。別荘の中に何があるのかを確かめなくてはならない。マツバランがここで発見されたということは、ここが連続殺人犯の拠点であった可能性が一気に高まったことを意味する。
洋館といっても差し支えない建物の入口に立ち、矢内原は緊張した面持ちで周囲を見回した。人の気配は勿論のこと、生き物の気配はまるで感じられない。時折、木々がざわめくだけで周辺は不気味なまでに静寂に包まれている。そのせいで矢内原は、まるで廃墟に忍び込むような心境になってしまった。
八神宗一郎から借りた鍵を挿し込んで玄関の扉を開けた。この扉ひとつとっても大仰な造りだ。入って直ぐの玄関ホールは吹き抜けになっていて、かなりの広さになっている。一枚ものの絨毯だけでも八畳分はあると思われる。
「靴は脱がなくていいのか」
矢内原はそのまま屋内を進むことにした。正面に階段があり、ちょうど『Y』の文字になるような格好で途中で二股に別れていた。このまま真っ直ぐ進めば階段を上がることになる。そこで階段脇の右か左の廊下、恐らくそれぞれが奥に続いているのだろうが、それを選んで進むことにした。そこで矢内原は向かって左の廊下を選択する。途中のドアは無視して廊下を直進したところで突き当りの大広間に出くわした。ここも相当な広さで、ここだけで警視庁の部署がひとつすっぽり収まるのではないかと思われた。
「豪邸だな……」
思わず乾いた笑いが出てしまう。壁際の暖炉は本物のように見えたし、中央には優に4人は腰かけられるだろうというキングサイズのソファーがコの字型に配置されている。右手には食卓と思われる長いテーブルがぽつんと置いてある。これも左右それぞれに6脚の椅子が配されたかなり大きなものだ。一番手前の椅子だけが少し引いてある状態だったので近付いてみるとテーブルの上に本のような物があった。
「これは……」
ライトを当ててみる。どうやら絵本のようだ。
「何でこんなものが?」
絵本は随分と年季が入ったものだった。表紙と裏表紙には幾つもシミができていて背表紙は両端が千切れそうになっている。本のタイトルは外国語で書かれている。
「ピノキオ?」
手に取ってめくってみる限りそれは『ピノキオ』の物語のようだ。この豪勢な部屋にそんな古びた絵本が放置されているのに違和感を覚えた。が、すぐに部屋の奥に目を向ける。バーカウンターがあってその脇にドアがある。ドアの前には小さな棚があって、瓶に花が活けられている。花の名は分からない。
「……新しいな」
八神宗一郎はもう何年も別荘には行っていないと言っていた。ということは、やはり誰かが直近でここを訪れていたのだ。何か嫌な予感がして矢内原はしばらくそのドアを眺めた。息を飲んでゆっくりとドアの前に立つ。ゴクリと唾を飲んでドアノブに手をかける。そして意を決したように一気にドアを開ける。が、目の前は壁になっていた。と思ったらそこは地下に降りる階段だった。ライトを向けて階段の下を照らす。が、何も見えない。階段が下へと続いているだけだ。慎重に足を踏み出して階段を下りる。金属製の階段は靴音を不吉な鐘のような音にすり替えてしまう。歩を進めるたびに室温が下がっていくように思えた。一段と冷たい空気が纏わりついてくる。寒さに顔を引きつらせながら矢内原はゆっくりと階段を下りきった。そこで周囲を照らしてみる。どうやら地下室のようだ。真ん中に台がある。右手には書棚が並んでいる。少し近づいて書棚に明かりを向けたところで「うっ!」と、足がすくんだ。そこにはホルマリン漬けと思われる脳の標本がずらりと並んでいた。
「これは……」
ライトに照らされた脳の標本は異様に白く、光の加減でガラス瓶の中で揺れているように見える。まるでクラゲの死体が波間を漂うようだ。
「研究室か……ゼミの合宿にでも使っていたのかもしれん」
独り言でもいい。何か音を発していないと、どうかしてしまいそうだ。入口付近の壁にスイッチのようなものが目に入った。試しにそれを押してみる。すると急に室内が明るくなり、空気清浄機のような低音が天井で生じた。
ほっとしながら矢内原がライトを持った手を下す。そして大きく息をついてから改めて室内を観察した。部屋の中央にある台は正方形の金属テーブルになっていて丸椅子がそれを囲んでいる。書棚は3列。一番手前が標本と分厚い本でぎっしり埋められている。真ん中の棚は大小様々な手作りっぽい装置がそれぞれ大量のコードを垂らしながら並んでいる。奥の棚は箱が幾つか収まっているだけで、こちらはまだ空きがあるようだ。
部屋の真ん中まで進んでみて奥に金属製のドアがあることに気付いた。それはドアノブが金庫のようにやたらと大きな扉だった。しかもドア枠の部分が二重になっている。それだけではない。扉の横に箱形の機械が3台並んでいる。どれも家庭用冷蔵庫ほどの容積を持っている。一台は空気清浄器、もう一台は発電機、残る一台は何の機械かは分からない。ただ、それらは金属扉の向こう側へと繋がっているようだ。
「この先か……」
予想が当たっているのか、それとも別な何かが隠されているのか、矢内原はドアノブに手をかける。凍傷になったかと勘違いするぐらいに冷たい。ぐっとノブを下げ、体重をかけて扉を押し込む。明かりはついている。というより、部屋の向こうから光が溢れ出してきた。目を細めながら身体を室内に挿し込む。そして中の様子を見た途端、矢内原は天を仰いだ。
「やっぱりか……」
真っ白な部屋の中央には手術台があった。黒革の手術台は手術用の照明に晒されている。そしてその足元には大量の血痕が広がっていた。それは赤黒い跡となって凄惨さを物語っている。壁にも同じ痕跡がところどころに見られる。手術台の側には4本のアームを広げたメディカル・マニピュレーターがスタンバイしている。ワゴンの上には医療器具が乱雑に広げられている。手術室なのにあまりにも不衛生だ。それはまるで殺人事件の現場のように目を背けたくなる光景だった。
「予想はしていたが……これは酷い」
被害者達は皆、頭蓋骨の一部が欠損していた。ということは、装置を摘出した後でどのように傷を塞いでいたのかが問題になる。どのみち生かしておくつもりが無かったにせよ、止血や脳圧の調整をいい加減に行っていたのは間違いない。
矢内原は床の血痕を一つ選んで、そこに特殊な溶剤を垂らした。そしてその液体をスポイトで採取し、簡易キットのセンサーに一滴落とすと自動解析アプリを起動した。5分ほどでアプリはDNAを解析して特徴箇所をパターン化する。それを操作ファイルの被害者のデータと照合すれば、この血痕の主が判明する。
結果は直ぐに出た。矢内原が採取した血痕は三番目の被害者である吹石豪首領のDNAと一致した。彼の遺体発見現場である野菜プラントではマツバランも見つかっている。恐らく、他の被害者の血痕もここに混じっているはずだ。
「八神桐子を拘束しなくては……」
そう呟いて矢内原は一旦、別荘を後にすることにした。
国道136号を車で引き返しながら矢内原は捜査員への指示を操作ファイルに打ち込んだ。朝一で別荘を捜査すること、八神桐子の拘束及び家宅捜査の手配、八神宗一郎の取り調べもしなければならない。やるべきことは山ほどある。だが、小池に藤村桐子の情報を集めるよう依頼することも忘れなかった。
少しでも眠った方が良いのだろうが神経が休まらない。動かぬ証拠を手にしたというのに矢内原の気分は優れなかった。これはただの殺人事件ではない。殺害現場は他の場所ではあるが、あの手術室の暴力的な光景が目に焼き付いている。それにあんな立派な別荘に隠れ家のような手術室を設けてまで摘出手術を行ったのかが気になって仕方が無かった。
――なぜ手術をしてから別な場所で殺害したのか?
目的がスティモシーバーの入手であれば、先に殺害して頭部だけ持ち去ることも可能なはずだ。それに死体を隠さなかったというのも腑に落ちない。
と、その時、前方からヘッドライトが妙な角度から飛び込んできた。対向車が車線をはみ出してきたのだ!
「危ない!」と、仰け反った。オートドライブの緊急回避で車体が横滑りする。間一髪で対向車はすれ違って去っていった。こんな時間にこんな場所で事故になりかけるとは思ってもみなかった。おかげですっかり眠気が消え失せてしまった。
「こんな時でなければとっ捕まえてやるのに……」
違法改造車であることは容易に想像できた。そうでもなければあんな速度を出したり、車線をはみ出したりはしないはずだ。
納得はいかなかったが今の矢内原には違反車両を追いかける余裕は無かった。
* * *
身を固くしたまま助手席で今枝が尋ねる。
「あれだけ経験しておいて、どうして上達しない?」
ハンドルを握ったまま青年が「さあ。なぜでしょう」と、首を傾げる。
後部座席で引っくり返っていた青年の叔父が恐る恐る顔を上げる。
「危うく正面衝突するところだったぞ!」
青年はチラリとバックミラーで叔父の顔を見ると「急いでいるから仕方がありません」と、言い返す。とても車線をはみ出して正面衝突しかけた直後とは思えない台詞だ。肝を冷やしたのは今枝と叔父だけで、八神青年は何事も無かったかのように涼しい顔をしている。だが、内心はかなり焦っているはずだ。闘技場からの帰りに池袋でショットガンを携えた叔父を拾い、車を乗り換え、ホテルに寄って花梨が連れ去られたことを確認し、休むことなく今度は伊豆に向かって車を飛ばす。オートドライブを使えといくら言われても彼は頑として譲らない。それは青年の疲労度を心配してというよりも、半分は自らの身の安全の為に今枝が進言したものだったが、青年はハンドルとアクセルペダルを酷使しながら暴走運転を続けた。そんな運転で大破することなくこの距離をこなしてきたことは、ある意味ついていると喜んでいいのかもしれない。そんな具合で車体を傷だらけにしながらも青年の叔父の道案内で南伊豆方面、それもだいぶ先端の方まで来たという実感があった。自動点灯の街灯を除いて周囲は真っ暗で、窓の外を見上げれば月明かりの下で山の輪郭だけが延々と続いている。車内の雰囲気も良くない。青年は表情に出さないだけで静かな怒りと焦りを持て余しているように見えたし、後部座席では殺人鬼の叔父が苦虫を噛み潰したような顔でショットガンを抱えている。音楽の無い深夜のドライブは輸送されるジャガイモになってしまったような気分になる。今枝はジョン・コルトレーンの『マイ・フェイバリット・シングス』を脳内で再現しながら我慢強く到着を待った。
ようやく車は、とある別荘の駐車場に滑り込んだ。
「ここで良いのですね?」と、青年が確認する。
「ああ。お前も来たことがあるだろう?」
「覚えていません。二十年近く前に来たきりです」
そういって青年は車を降りた。急いで建物に向かおうとするが直ぐに立ち止まってしまう。別荘は坂道の上にあるようだが、あまりの暗さで身動きが取れない。それどころか足元さえ怪しい。一瞬考えてから青年は端末を取り出して懐中電灯の代わりにしようとした。今枝がそれを真似するが圧倒的に明かりが不足している中では焼け石に水だった。
「何もないよりはマシですかね」と、青年が歩き出す。
「その辺りに火を点けた方がマシじゃないか?」と、今枝が冗談を口にする。だが、青年はそれを無視して砂利を踏み鳴らしながらズンズン先に進む。端末を足元にかざしながら進むのも滑稽だが今枝は黙ってそれに続く。そして暗闇に目が慣れるより先に建物に辿り着いた。少し遅れてきた叔父が無言でドアの鍵を開ける。それを押しのけるようにして青年は建物内部に入る。それに続いて今枝が、そして叔父が入ってくる。
「左だ」と、背後で叔父がそう言いながら明かりを点けた。やたらと広い玄関ホールを突っ切って青年は足早に左の奥に向かう。今枝は豪華な造りに圧倒されながら彼に付いていく。長い廊下の突き当たりは大広間になっていた。ここもまた目を見張るような広さに大きな家具類がぽつんぽつんと配置されている。青年がキョロキョロしていると叔父が「あっちだ」と、右手奥を顎で示した。その方向にはバーカウンターがあり、いかにも怪しげなドアがあった。青年がそこに向かって走りだした。今枝も慌ててそれを追う。ドアを開けて迷わず階段を駆け下りる青年、それを追う今枝、2人の固い足音が室内の凍えた静寂を乱す。息を弾ませながら青年はスイッチを探し当て、地下室の明かりを点けた。そして室内を見回して「花梨! いるのか?」と、妹の姿を探す。彼はここに花梨が監禁されていると考えているのだろう。冷静に考えればその可能性は低い。第一、車も無しにこんな辺鄙な場所には来られないはずなのだが今枝達が到着した時に駐車場には車は無かった。それにこの館は久しく使用されていなかった建物特有の埃っぽさがあった。ましてや青年の母が無理やり花梨をここに連れてきたとしたら何らかの痕跡はあるはずだ。しかし、今は何を言っても青年の耳には届くまい。今枝は半ば諦めて青年の気が済むまで黙って付き合うことにした。
青年が地下室の奥にもうひとつドアを発見した。
「今枝さん! こんなところに扉が!」
今枝はずらりと並ぶ脳の標本に辟易しながら奥に進む。
「ほお。随分と頑丈そうだ。金目の物でも入っているのかもな」
「開けてみます」と、即座に青年は扉を開けようとする。が、意外にノブが重いのか、やや苦戦気味だ。それでも体重をかけてノブを下げると、扉が耳障りな金属音を伴って内側に開いた。すかさず青年が中を覗き込む。そして「う!」と、呻いて動きを止めた。
「どうした?」
今枝が青年の後ろから室内を覗き込む。そして目を剥いた。
「何だこれは!?」
青年はへなへなとその場にへたり込んだ。
「……遅かった」
青年は血まみれの手術室に絶望して頭を垂れた。「花梨……」と、小さくその名を呼ぶ顔は見えなかった。が、流石に見かねて今枝がひざまずく青年の肩に手を置く。
「冷静になれ。妹さんはここに来ちゃいない。よく見ろ。新しい血痕じゃない。どれも真っ黒だろう?」
はっとして青年が顔を上げる。
「そういえば確かに……」
猟奇的殺人者の作業場みたいな部屋を眺めながら今枝が首を振る。
「どちらにせよ正気の沙汰じゃない。アンタ、こんなところで何をやってたんだ?」
今枝がそう言って振り返るが叔父の姿は無かった。彼は地下室には降りてこなかったらしい。
「なんだ。居ねえし」と、今枝は舌打ちする。
「行きましょう……」と、青年が力なく立ち上がる。だいぶ足元がふらついている。ここにきて緊張の糸が切れてしまったのだろうか。
今枝が先に階段を上がり、それに続いて青年が大広間に戻った。
階段を上がって直ぐのところに活けてあった花を見て今枝が首を捻る。
「おや? この花、新しいな」
「ルピナスだそうだ」
そういって殺人鬼の叔父がバーカウンターの方から顔をのぞかせた。
「へえ。アンタの趣味か?」
「まさか。姉さんの指示だ」
二人のやり取りに割り込むような形で青年が叔父を問い詰める。
「叔父さん! 嘘をついたんですか? こんなところに居ないじゃないですか! 母は花梨をどこに連れて行ったんですか?」
叔父は缶ビールを手に、おどけたように首を竦める。
「別に騙したわけじゃない。本当にここだと思ったんだ」
「叔父さんは母とここで何をしていたのですか?」
「……摘出手術だ。スティモシーバーとかいう頭の装置のな。それが必要なら首を切って頭部ごと持って来ればいいじゃないかと思うだろう? でもそれじゃ駄目なんだとさ」
「母は何を考えているんですか……」
「さあな。俺は姉さんのロボットだ。言われたまま行動するだけさ」
青年と叔父の会話を聞きながら今枝は長いダイニングテーブルを半周して一冊の本を見つけた。そして何気なくそれを手にして怪訝な顔をする。
「絵本……」
本を裏返してみると子供の字で『こうすけ』と書いてある。
「こうすけ……ああ」
そう呟いて今枝は青年を見た。八神浩介。この古びた絵本は彼の物なのだ。
青年は叔父と押し問答している。のらりくらりと青年の追及を交わしていた叔父がカウンターに飲み終えた缶を乱暴に置いた。
「もう止めようぜ。本当に姉さんの行先は分からないんだ。俺は次の指示があるまで、ここで待機する」
青年はやれやれといった風に首を振ってダイニングの長椅子に座った。そこで今枝の視線に気付く。
「……どうかしましたか?」
「こんなものがあったぞ。ピノキオだ」
そういって今枝が絵本を見せる。青年は「ああ」といって目を閉じる。叔父がそれを見て言う。
「姉さんはそれを時々見ていたな。お前のことを思い出していたんじゃないか?」
「まさか。有り得ない」
そう吐き捨てて青年は不快そうな顔をみせた。珍しい反応だ。
叔父は青年を見下ろしながら言う。
「お前の事を話すことは殆ど無かったが本当のところは……」
「止めてください! 母は、感情の無い人間です。自分と同じなんです!」
青年の強い口調に叔父は首を竦める。そして諦めたような顔を見せた。
何ともいえない空気になってしまったので今枝が尋ねる。
「これからどうするつもりだ? あれだけの事件を起こしておいて逃げおおせるとでも?」
その質問が自分に向けられたものだと気付いて叔父が「フン」と鼻で笑う。
「無事に済むとは思っちゃいないさ。4人も殺してしまったんだからな」
「そうかい。まあ、好きにするがいいさ。俺達は帰るとするか」
今枝がそういって青年の肩を叩く。
青年はゆっくりと立ち上がりながら尋ねる。
「叔父さんはここに残るのですね?」
「そのつもりだ」
「分かりました。では、何か分かったら連絡をください」
「気が向いたらな」
叔父はカウンターの上に視線を移しながらそう答えた。艶のある黒いカウンターテーブルの上にはショットガンが無造作に放置されている。『スパス12』と呼ばれるそれは一見するとショーケースに展示されたモデルガンのようにみえる。しかし、複数の溝が刻まれたハンドガード部分には無数の傷があった。イタリア軍や警察が採用していた戦闘用散弾銃をどこで入手したのかは分からないが、これが4人もの若者を殺害したと思うと、まるでこの銃そのものに強烈な殺意が宿っているような気がした。
帰りの車中、青年は気の毒になるぐらい落ち込んでいた。
今枝は片手をハンドルの上に乗せながらいう。
「妹思いなんだな。ちょっと過剰な気もするが」
青年は力なく首を振る。
「花梨は可哀想な子なのです。あの子は母に愛されていないから」
「……そうか」
「自分もそうです。だからよく分かるのです。感情に乏しい自分はまだマシですが、花梨はそうではありません」
「娘にやたら厳しい母親がいるのはたまに聞くがな」
「それならまだマシです。母の場合は完全無視ですから。あまりにもそれが酷いので、ひょっとすると花梨は父の子ではないんじゃないかと思う時があります」
「何だそりゃ? まあ、家庭の事情は他人には窺い知れんが……」
「母にとって家族は興味の対象外なのです」
「随分とはっきり言うな。しかし、さっきの絵本。あれは?」
「母が唯一与えてくれたものです。オランダ語なので子供には読めはしません」
「ピノキオ、だったかな」
「ええ。ピノキオの絵本です。今思うと母は読み聞かせをするというより、自分が読みたかったんではないかという気がしますが」
「しかしインテリ女の考えていることは分からんな。他人の脳を弄繰り回す一方で絵本の鑑賞か。どうかしてるぜ」
助手席の青年がふと何かを思いついたようで端末を操作し始めた。そしてしばらくして「オランダ……」と呟いた。
「どうした?」と、今枝が青年の横顔を見る。
「そうか……もしかしたら」
「おい。オランダがどうしたって?」
「今枝さん。母はオランダに向かったと思われます」
「は? 何だって?」
「組織から撤収命令のメッセージが」
「撤収?」
「ええ。花梨を探すのに夢中だったので今確認したのですが『保護対象は本部に向かっている』と書かれています。つまり、それは母が花梨をオランダの本部に連れて行くということだと思われます」
「ちょっと待て。組織っていうのはアンタのクライアントだよな? おっかさんも組織の人間なのか?」
「今の関係は分かりません。ですが、自分を組織に推薦したのは母です」
「なんだと?」
今枝は混乱した。青年の母はスティモシーバーを奪う為に弟を使って連続殺人を犯した張本人だ。そんな人間が花梨を含むスティモシーバー保持者を保護する命令を出していた組織と繋がりがあるとは……。
「行きましょう。我々も。オランダに」と、青年は力強く頷いた。
「本気か? 行ってどうする」
「花梨を取り戻すんです」
「……仕方が無い。乗りかかった舟だ」
そう答えてみたものの釈然としない。西園寺と青年の母の関係も良く分からない。とんでもないことに巻き込まれているという感覚は未だ拭えない。
――オランダに何があるのか?
やがて前方に高速道路の料金所が見えてきた。しかし今枝にはそれが悪夢への入口のように見えてならなかった。